<ベトナム少数民族の村・訪問記>後編 前編はこちら ●訪問日程:2001年9月12日(水)〜9月17日(月) ●訪問者:多久 春義(テイエラ) ●訪問地:Dac Lac(ダク ラック)省Buon Ma Thuot(バンメトート) Kon Tum( コン トウム)省Kon Tum(コン トウム) ________________________________________ ●中部コン トゥム編:Ba Na(バナ)族● <2001年9月15日(土)>バンメトート→コン トゥムへ 朝9時40分バンメトート発。25人乗りのローカルバスで、バンメトートからさらに北に230kmのKon Tum(コン トゥム)を目指す。バスに乗り込んだ時はすでに満員で、添乗員が無理やり席を作るがそれでもスシ詰め状態だ。サイゴンから乗り込んだ時よりさらに窮屈で、前の座席との間が狭いので荷物も足元にも置けず、膝の上に置いたままで途中のPlay Ku(プレイク)まで180km・約3時間を走らないといけない。そしてそこで一旦車を乗り替えて、さらに50km北にあるKon Tumに行く予定である。 1時間ほど走るとガイドが突然大きい声で、「この近くは泥棒が多いので荷物に注意しろ!」と叫ぶ。この猛スピードで走っている乗客の荷物を、例え泥棒がいたにしても真昼間からどうして奪えるのかよく分らないが、ガイドがそう言うからには何らかの根拠があるのだろうと思いながらも、膝の上の荷物をただギュッと握りしめるしかない。結局、その期待の泥棒さんには幸運なことに出会うことはなかったが……。そして1時15分にPlay Ku着。 着いてからがまたいつもの如く、金の問題でスッタモンダが始る。Play Kuで降りて別の15人乗りのワゴン車に乗ると、添乗員が私に「Kon Tumまでの運賃を5,000ドンくれ」と言う。先ほどバンメトートから乗って来た車から降りた時、その運転手は「更に費用を払う必要は無いからね」と言っていたので私が、「最初に乗った時、Kon Tumまでの料金をもう払ってある」と言い返し、払う意思が無いことを伝えると、それでもその運転手から貰っていないだの、しばらくはワーワーとがなりたててくる。わざと聞こえない振りをしておくと諦めたようで離れて行った。 しかし敵もさるもので諦めてはいなかった。車はKon Tumに行く客を探して市内を行ったり来たりを繰り返し、なかなか出発しない。同じ所を3回もグルグルと回っている。まあ市内観光をタダでしていると思えば腹も立たないが。しかし40分ぐらいそうやっていて一向に先に進まない。そして遂には、道に車を寄せて止まってしまった。 そしてまた先ほどの添乗員が「みんな一人ずつ更に5,000ドンずつ出してくれ」と車の中にいる乗客全員に要求してきた。中には全部で8人の乗客がいたが、もちろん誰もすぐOKとは言わない。そうすると「みんなが一人ずつ5,000ドン出してくれるまではこのバスは出さない!」と言って、彼は路上に座り込んでしまった。 みんなも先を急ぐ人はいないのか、その反応を見るとカンカンに怒っている人もおらず、ノンビリしたものである。日本では個人でこういうふうにバスを私有して営業に使うやり方をしていないからこういうことは起こらないが、彼等はバス会社から雇われて仕事をしている訳では無いから乗客を生かすも、殺すも自由という感覚なのだろう。まあ本当に殺すわけでは無いが…・。 バスは止まったまま30分以上経つが動かない。添乗員もすこしずつ焦れてきたようで、最初の強い口調から段々と哀願するような言い方になってきた。曰く「この人数でKon Tumまで行くとガソリン代も出なくて、赤字になる。私も今日の飯が食えない」と。まあ皆んな笑って聞いているが、このままここで日が暮れても仕方が無いので、一人5,000ドンずつ出して早く出ようと言うことに決まった。 「よし分った。5,000ドンで終わりだぞ」と年配のベトナム人がみんなから集めて、それを添乗員に渡してようやく3時にバスが動く。結局一時間半はここで無駄な時間を費やしてしまった。しかしそれにしても彼等は毎日乗客を相手にこんなことを繰り返しているのだろうかと、そのセコさ、悪辣さに呆れてしまう。 Play KuからKon Tumまでは50kmほどで、一時間くらいで着く。バスが停留場に着く前から、すでにバイクタクシーの運チャンが10人ほどバイクで追っかけて来る。そして乗客が降りるやいなや「どこまで行く?これに乗れ!」と手を引っぱって誘うが、それを振りほどいて歩いて行くと諦めたかついて来ない。Kon TumではQuang Trung(クアン チュン)という名前の国営のホテルに泊まる。Quang Trungというのは昔の王様の名前だという。 <2001年9月16日(日)>Ba Na(バナ)族の村探訪 Kon Tumの村の中に住んでいるBa Na族を訪ねようと思うが、何せこの町自体が初めてなので、道案内をしてくれるベトナム人を一人雇うことにした。雇ったのは30歳のベトナム人で、名前はTien(お金)。そのあまりにベトナム人らしい即物的な付け方に唸ってしまう。 親はどういう気持でこのような名前を付けたのだろうか?お金持ちになって、将来は両親の面倒を見てくれるようにという期待を込めて付けたのだろうが、今のところは金持ちではなさそうである。しかし一応自分のバイクを所有しているので、全く貧乏というわけでもない。そのバイクを1日1台100,000ドン(約800円)で借りて、彼に道案内を頼むことにした。 Ba Na族はここベトナム中部のKon TumやGia Lai(ザーライ)などのほか2・3の省に住み、全人口は約136,000人以上だという。民族としてはクメール系に属すると言われている。その家は絵葉書や写真で良く見るトンガリ帽子に似た、屋根が高く、横幅も大きなあの有名な民族の家である。今もその大きい家は方々に残っているという。以前はお祭りをしたりする時、ここにみんなで集まっていたという。 Ba Na族は歌や踊りが得意のようで、お祭りの時にそれをここで披露していたのだという。現在は集会所として利用されたり、キリスト教を信仰している民族さんの教会としても使われているという。Ba Na族からはベトナム人の間では有名な、女性歌手のSIU BLACK(シュー・ブラック)が出ている。彼女はふだんはKon Tumに住んでいて、人民委員会でも仕事をしていて、サイゴンにも歌手の仕事で来てTVに出たり、屋外で歌うこともあるという。私はまだ実際聞いたことも、TVで見たこともない。 Tienさんの案内で、最初に行く所はKon Tu(コン トゥ)村。市内から8〜9kmくらいの距離だが、舗装されていない山道や、雨でぬかるんだ道を行くので40分くらい掛る。バスは当然通らないので、バイクか徒歩で行くしかない。しばらくバイクで走ると、外人さんの集団がもうすでに見学した帰りだろうか、10人くらい向こうから歩いて来た。 ちょうどそこは道が雨でぬかるんで、牛車のワダチやバイクの走った跡が残っていてネチャネチャの状態で、外人さんもどこを歩けば汚れないものかと途方に暮れている。私もバイクで通ろうにも車輪が練り込むのは間違い無く、危険なので手前で止まる。 Tienさんも自分がバイクをあとで運ぶから、私に一旦バイクから降りて徒歩でこのヌカルミを越えて行けという。その方が無難なので30mくらいを歩くことにした。彼はさすがにいつものことで慣れているのか、転びもせず上手いものである。 しかしこういう道はここだけではなく、この先にもまだ2つほどあり、その一つで「ここは一人で行けるだろう」とタカをくくってバイクを走らせたら、案の定ハンドルを取られてガケに突っ込んだ。足をすりむいて、大したケガではないが血が出て来た。反対側に突っ込んでいたらガケからバイクごと転落するところだった。帰りは用心しなければ…・・。 そのKon Tu村に着いたのが10時過ぎ。今目の前にBa Na族の例の大きな家がある。大人の背丈ほどの高さから床を造り、そこから屋根のてっぺんまで高さは10m以上ある。幅は約6m、長さも7〜8mくらいはあるだろうか。ここの屋根はカヤで葺いてある。壁は竹を編んで出来ている。全てが同じ色調で統一されているので大変美しい。中に入るとガランとしていて何も無い。二階建ての構造でもなく、天井まで吹き抜けている。床はどれくらい広いのか、余りに広すぎて見当も付かない。 家の形としては日本の合掌造りの家に似ている。しかしこちらの方がはるかに傾斜角度が高いし、屋根も長い。普通の家の屋根は家全体の半分も無いが、ここのは屋根が下まで異様に長く伸びている。そのぶん外から見た時、壁にあたる部分が少なく見えるので、非常に特徴的な形をしている。「これがあの絵葉書で良く見る家か〜」としばらくは見とれてしまった。ここのは縦に異様に長く、美しい。 しかしそれにしても「何の為にこんなに天井を高くする必要があるのかな〜」と素朴な疑問が湧く。高さが高いほど使用する材木も多くなるし、その労力も大変なものだと想像されるが…。事実、家の中にはこの巨大な家の屋根や壁を支えるために大きい柱が数多く使われている。日本の合掌造りの家は吹きぬけではなく2階・3階とあり、そこが物置になっていたり、人が住んでいたりしているが、この家はただの一階の居住空間を利用するだけである。 ふだんの生活に利用していなければこういう美学的な構造の家でいいのだろう。今もこのままで祭りの時、実際に使用されているというのがすごい。その家の前は広い空間が出来ていて、ここでお祭りの時は歌ったり、踊ったりするのだろう。この時はバレーボールのネツトが張ってあったが…・。 近くの家にはBa Na族の普通の高床式家がある。その家は、バンメトートで見た家と比べるとはるかに小さい。そこに入りTienさんに聞いてもらうと、ずいぶん以前はBa Na族自体はあのような大きい家に住んでいたのだという。しかし巨大な材木を使うだけに、だんだん山にも木が少なくなり、最近は政府も材木を勝手に切り出すことを禁じているので、今は個人の家ではああいう家は造れず、みんながお祭りなどで集まるための集会所として、過去にあった家を補修したりして今も使っているのだという。今もお祭りをやっているのであれば、ぜひ一度そのお祭りを見たいものだと思う。 その家を出る時、ふと軒先を見ると緑色のきれいなオウムが枝に止まっている。「これはどこで捕まえたのか?」とTienさんが聞くと、向こうの山を指差して「あの山からだ」と答える。ここらは山の中にこんなきれいなオウムが、本当にいるのだろうか。 そこを出てしばらく歩くと、少し広い河が流れているので河原に降りる。河は日本で大雨が降ったあとのような、泥水の混じった色をしている。そしてその河で少女が洗濯をしている。この泥水で洗ってもよけい汚れそうだが、生まれ育った時からこの河の色は変わらないので、それが当たり前なのだろう。服装は普通のベトナム人と変わらない。近づくとニコッと笑ってくれる。 彼女はこの近くに住んでいるBa Na族で 、名前はJunと言って16才だという。Tienさんがベトナム語とBaNa語で雑談をしながらいろいろ聞く。彼が聞いたところによると父は亡くなり、母と1人の妹がいるという。母は30歳だというから14・5歳で彼女を産んだことになる。民族さんは早婚が多いそうなので、特別珍しいことではないらしい。ふだんは山に入り、トウモロコシを植えたり、ここからすこし離れた田んぼに米を植えたりと、主に農業をしている。ときどき歩いてKon Tum市内には行くことがあるという。 彼女にBa Na族の服装について聞く。この村の中を歩いている人を見ても、民族衣装を着て歩いている人がいないからである。写真などで見るとBa Na族の衣装は、女性は藍色を基調にしたスカートに明るい赤やピンクの刺繍をした服をしている。 彼女によると最近は、民族の衣装は着ることは少ないのだという。Tienさんもそれと同じようなことを言う。「お祭りの時などには、みんな今でも着ることはあるが…・」という返事である。そういう意味では以前北部のサパやバックハーで見た民族さんは、田んぼで田植えしている時も、きれいな民族衣装のままであったので場所によりいろいろ違うようである。 民族の彼女に別れをつげて、次はKon Ri(コン リー)村に行く。Kon Tu村に行く時通った途中にある村で、ここにも同じ形、同じ大きさのトンガリ屋根の家がある。ただこちらの方が相当古いらしく、昔の建築資材をそのまま使用して、基礎をコンクリートで打ち直してある。ここも家の前は広い空間が広がり、この炎天下の中で子供たちが缶ケリをして遊んでいた。 すぐ近くにBa Na族の人たちが住んでいて、こちらに来いと手招きする。そこに行くと、近くに生えているグアバの木を指差して「食べろ」という仕草をするので、ノドも乾いているところでもあり遠慮無く頂くことにした。しかしまだ今が旬には少し早いらしく、実はたくさん付いているが全部が熟れてはいない。すこし色づいて、美味しそうなのから自分で選んでちぎる。 家のすぐそばでは大人が7・8人集まって、ガケの上に生えている大きい木をチェーンソーで切っている。それを見るために、また子供たちが十人ほどいる。良く見るとかなり大きい木である。Tienさんが聞いたところでは、この大きい木を買いに来た人が、自分で切り倒しているのだという。この木はすぐそばにある人の持ち物らしい。買う人はベトナム人である。その人が私に「どこから来たか?」と聞くので「サイゴンからだ」と答えると「へ〜」と言う顔をしている。「昼になったから、ここで食事をしていかない?」誘ってくれるが、それは有り難く遠慮して水だけもらうことにする。 ここのBa Na族の民家は先ほど見たKon Tuの家より少し大きいし、造りもぶ厚い材木を使用してある。しかしその床下を見ると豚小屋と兼用になっていて、豚のフンと泥がグチャグチャに掻きまわしたような床下になっている。その上に民族さんの住居があるわけだから、さぞ臭いだろうと思う。いろんな病気も多いことだろう。わざわざ豚のために家を作る必要性を感じないのだろう。しかし子供の時からそれに慣れていれば、案外平気なのかもしれない。まあ今の日本人には一日として到底住めそうも無い環境である。 そこを出た後はKon Loという村に行く。大きい橋を渡ると、これまたでかいBa Na族の例の家が現われた。床の高さも3m弱はあるし、横幅は15mくらいある。屋根までは地面から15mくらいはあるだろう。その回りは芝生のような柔らかい草でおおわれて、その家の近くに百年以上は経っているであろう巨木が枝を広げて生えている。 この大きい家も、現在は集会場や教会として使われているという。屋根はカヤ葺きだが家を支える大きい柱は何とコンクリ―トで出来ている。従ってこの建物自体はまだ新しいのだろう。中に入るとホーチミンの大きい写真や人民委員会からの表彰状が飾ってある。 ここに70才くらいのおじいさんとその奥さんがいて、その2人もBa Na族だという。2人ともこの家を管理する仕事をしているのだという。その他におじいさんは、Ba Na族のこの大きい家を縮小してミニチュアを自分で造るのが趣味のようで、大小サイズの違う見事な作品が3つほど並んでいる。竹と木で全て出来ていて、自分で彩色も施している。「これは仕上げるのに一週間かかり、こちらは五日かかった」と自分の作品を嬉しそうに説明してくれる。確かに手作りの、愛着の湧く作品である。色も普通のペンやマジツクを使っていて素朴な味がする。 じっと見ているうちにそれが欲しくなり、Tienさんに何とか売ってくれるように頼む。彼がそれを話すとおじいさんは、最初はすぐOKとは言わなかった。特に一週間かかって作ったという作品は、今まで常時ここに展示していた作品のようで、売り物ではないんだがな〜という返事である。こちらも無理に買う気持ちは無いので、しばらくそれには触れず雑談をする。 特にこの家の中の壁に、ホーチミンが民族のリーダーの人に宛てて書いた手紙の内容が印刷されて、大きいきれいな額に入れて飾ってある。その手紙の内容は、ベトナム戦争中に民族の人達が協力してくれたことに対して、厚い謝意を述べたものらしい。 「キン族と少数民族は兄弟であり、これからもベトナムは少数民族を大事にしていく」というような内容らしい。少数民族の人たちにとっては、ホーチミンは大変いい手紙を残しておいてくれたと言えるだろう。今はハノイで眠っている故・ホーチミン主席のこの手紙がある限りは、ベトナム人(キン族)も少数民族の人たちを粗略に扱えないだろうから。 その手紙について雑談をしている時、おじいさんが「いつお前はサイゴンに帰るか?」と聞くので「明日か、あさってだ」と答えるとしばらく考えて、さっき欲しいと言った家のミニチュアは売らない訳では無いと言うではないか。しばらく話していくうち、おじいさんの中でどういう気持ちの変化が起こったのか知らないが、ともかく売ってくれそうな気配がしてきたので嬉しくなる。 「もし売ってくれるのであれば、一つをサイゴンに置き、一つを記念に日本に持って帰りたい」と言うと「2つも欲しいのか?」と聞き返す。「そうだ」と言うと、Tienさんが「おじいさんはまた作ればいいじゃないか。売ってあげなよ」と助け船を出してくれる。それを聞いておじいさんは「よし分った。持って帰りなさい」と言ってくれた。後は値段だけ聞いて特に値切りもせず、大きい方が100,000ドン(約850円)、小さい方が50,000ドン(約420円)で売ってくれた。 そばにいた奥さんにお金を渡すと「有り難う。これでお米を買いに行きます」と言う。そして「ちょっと待ってね」と言って外に出て行った。おじいさんはセッセとまた次のミニチュアの家の作成に取り掛った。10分ほど待つと奥さんが黒光りする、大きいヒョウタンを手に抱えて持って来た。そして私に「これは家で使っているものだけど、記念に上げます」と家の模型を買ってくれたお礼にという意味らしく、ニコニコしながら差し出してきた。中にはまだ水が入っていて重たい。有り難くその好意を受けることにした。 そして昼も過ぎたので、お礼を言ってそこを去る。近くのレストランで食事をする。このレストランも田舎にしてはずいぶん立派なレストランで、路上の指差し食堂ではない。結婚式も充分できる広さがあり、実際最近ここで結婚式を開いた跡があり、壁に飾りなどがそのままの状態で残っている。Tienさんに「何を食べたいか?」と聞くと、「何でもいいよ」と言うので魚の煮付けと卵焼き、それに空芯菜のイタメものを頼む。食事をしている間にいろいろ彼に話を聞く。 ここを訪れる外国人はさほど多くは無いが、季節によって多い時もあるという。「日本人も来たことはある?」と聞くと、ハノイで日本語を教えている女の先生を、先ほど見学したKon Tu村に案内したという。その人は2日くらいで帰って行ったが、以前仕事で来た若い日本人はここに一ヶ月、観光ではなく仕事で滞在して、毎日一緒にバイクに乗せて連れて行ったという。 何の仕事をしに来たのか聞くと、ショウガの買い付けに来たのだという。それ以前にも何回かここに来て、ショウガの栽培を地元の人に頼んでいて、その後収穫出来る時期に買い付けのために一ヶ月に亘りここに滞在したという。日本人はショウガを輸入するためにも、こんなベトナムの田舎にまで来て活躍しているのかと思うと感心してしまう。 しかしショウガというのは、そんなに需要があるものなのだろうか?私がショウガで連想するとしたら、日本でみんなが寿司屋で食べる酢に漬けたガリか、冷や奴の上に乗せるスッたショウガくらいしか思い浮かばないが、恐らくまだこれ以外にいろんな用途で使われているのだろう。 このあとBa Na族出身のSIU BLACKが生まれた村(名前は聞き忘れた)に行く。20分くらいで着く。ここの家もまたデカクて古い。ここの屋根は以前はカヤ葺きだったのだろうが、今はトタンに張り代えられている。それもところどころサビていて、やはりカヤ葺きの方が美しい。中に入るとこれまた何も無い。ただここの柱はこれまた大きい。大人2人でようやく手を回せるくらいである。その大きい柱には、極彩色でいろんな図が描かれている。Ba Na族のお祭りの時の光景を描いているのだろうか。ここにはこの大きい家を中 心にして、数え切れないくらいの高床式のBa Na族の家が建っている。 ここにも広場があり、若い男の子たちがサツカーをしている。そして集会所の下には子供たちが、洗面器に玄米を入れて集まっている。何をしているのかと思い覗くと、若い一人の男が耕運機のエンジンで機械を動かしている。その機械は簡易お菓子製造機というべきもので、上に10cmほどの穴が空いていて、そこに子供たちが持ってきた玄米を入れると、下からヘビのような形をした、細長くて・丸いピンク色のお菓子が魔法のように出てくるという仕組みである。 それを若いお兄さんが、20cmくらい出て来たところでハサミでパチン・パチンと切って、子供が家から持って来たズタ袋につぎつぎと放り投げて入れている。洗面器に入っている玄米の量は同じではなく、多い子も居れば少ない子も居る。見ていると500ドン渡している子もいれば、1,000ドン渡している子もいるので、洗面器に入っている量により費用が違うのだろう。 これと同じようなのは私が子供の時、田舎で似たようなのを見た記憶があるので大変懐かしくなる。確か当時10円だったと覚えている。私の場合はこのヘビのような形ではなく、玄米を入れると一瞬のうちにプシューという音とともに薄いセンベイ状になって出て来たが。これはどんな味がするのだろうと思い、横に落ちているカケラを食べて見ると甘いセンベイという味で、まあまあ美味い。子供のおやつには十分すぎるくらいである。 近くにいる子供が、私が下に落ちているのを拾って食べたので、出来たての新しいのを手で短くポキツと折って私にくれた。それを見ると中は空洞である。甘い味が付いているということは、洗面器には玄米と一緒に砂糖が入っているのだろう。こういうのも日本がそうであったように、いずれは無くなるのであろうが。 しかしここも市内から大して離れていない距離なので、Tienさんに「もうすこし遠くてもいいから、山の方へ案内してくれ」と頼むと、「それではDak Bla(ダク ブラ)村まで行くか」と承知してくれる。そこは市内から約15kmのところにあり、Ba Na族のこれまた大きい家があるという。道は舗装されていないが、坂道ではないのでバイクで行くのには全然問題はないというのでそこへ行くことにした。 道は確かに良くはない。雨で出来た水溜りが到るところにある。しかし道路は固いので、午前中のようにバイクが練り込むということはない。40分ほどでそこに着く。その民族の家は道路にすぐ面した所から60mくらいのところに建っていて、広い空間の中に一軒だけポツンと、威風堂々とした姿をしている。 今までのは縦に長い形をしていたが、ここのは長方形の形をして、横が長い。目測で横が約11m、高さが約7mくらいある。ここの屋根も下まで長く伸びていて、見た感じでは建物の表面積の約90%は屋根が占めていて、壁がほんの少ししか外に現われていない。入口の明るいところで、若い男が2人将棋を指していた。 Tienさんは道路を隔てた向かいの家に歩いて行く。彼の知り合いがその家にいるらしい。門先で2人の女の子がウスにモミを入れて、キネを交互に下ろしている。これはバンメトートで見たのと同じである。こちらを見て少し照れたような表情をする。Tienさんは家の前まで行き、そこの親父さんに私を「彼は日本人で、ここには観光で来て・・」と紹介してくれる。そこには7人の家族がいた。ここの家も高床式の家である。床下では豚やニワトリが遊び回っている。 親父さんはニコニコとして、Tienさんと私に、「家の中に入れ」と言う。失礼して上がらせてもらうと、家の中は10畳くらいの部屋が一つと4畳くらいの部屋が一つで、全部で2部屋ある。床は竹を編んで組み合わせて作ってある。この広い部屋が寝室、食堂、居間、仕事場などを兼ねているのであろうか。小さい部屋はハタ織りの部屋になっていて、今も娘さんが実際にハタ織りをしている。 Tienさんに家族構成を聞いてもらうと、娘が2人いて長女は養子をもらって「旦那が彼だ」と若い男の人を指差す。その2人の間にはまだ小さい子供が2人いる。一人はよちよち歩きが出来るが、一人はまだ産まれて3ヶ月目だった。親父さんの奥さんは鼻筋の通った、品のいい顔をしている。若い時はさぞ美人であったろうと思った。ちなみに親父さんの年齢を聞くと71才、奥さんは55才であった。親父さんにTienさんがタバコを1本差し出すと、有り難そうに頭を下げて礼を言う。 聞けばこの親父さんは、以前はここからずいぶん離れた山の中に住んでいて、1994年からここに移り住んだという。ここでは主にトウモロコシや果樹を栽培して暮らしている。隣の家も同じ時に移って来たのだという。ここは電気も井戸もあるし、広い道も出来ているので暮らしやすいという。何でも山の中に居る時は、電気はもちろん無いが水の確保が大変で、川のそばに住んでいたという。 「今はこの電気があるから便利でね〜」と頭の上にある蛍光灯を指差して嬉しそうに笑う。この家には照明器具は、この蛍光灯が一つと電球が2つあるだけだという。そして一つにつき10,000ドン、合計30,000ドン(約250円)の電気代を毎月電力会社に払わないといけないと言って、ベトナム語で「高い、高い」と愚痴をこぼす。それを聞くとつい可笑しくなるが、実際現金収入の無い人たちからするとその金額は安くはないのだろう。 話を聞きながら家の中を見ると、文明の利器というものは感心するくらいほとんど無い。TVもラジオもビデオもアイロンも炊飯器も電気ポツトもなにも無く(照明器具が3つで高いという訳だから、当たり前だが)、天井からぶら下がっているのはナベや釜であったり、農具や衣類である。大きい家財道具といえば、部屋の中に大きいベツドが一つあるだけ。家の入り口から見て左手に囲炉裏がある。ここで毎日煮炊きをしているので、家の中は昔の日本の農家と同じく黒いススで汚れている。この囲炉裏は赤土で回りを囲まれていて、 火を使う時も家の中の材木には火が移る心配はない。 ふと壁際を見ると、あの民族さんの酒(Ruou Can)の入った大きなカメが8つ並んでいるではないか。この酒は普通の水を上から注ぐと、一時間もしないうちにその水がコクのある、甘い酒に変化していくという摩訶不思議な仕組みで酒が出来上るのだが、これがまた美味いんだな〜。「この長い竹をカメの中に突っこんでこうやって飲むんだよ」とおじさんがその細い竹を手に持って教えてくれる。思わずゴクリとツバを飲み込んだ。私も以前飲んだことはあるので、その美味しさは知っている。 「これはどういう時、飲みますか?」とカメを指差して聞くと「結婚式やお祭り、葬式、ほかに家を新築した時などかな…」という。その次に「お客人がここに来た時」と言う答えは残念ながら返ってこなかったので、「ああ〜、そうですか」とこちらも返事をする。まあ今ここで飲むと、つい勧められすぎて飲み過ぎるのは分りきっているし、そうなると帰りもキツイし、危ないし、それにこれはこの人たちにとって貴重なものだろうからな…・・と思い、ここでは飲むのを諦めた。 となりの部屋では娘さんがハタ織りをしているので、そこを写真に撮らせてもらう。赤・黒・黄・紫や青やアズキ色の糸を組み合わせて、反物を織っている。その部屋には色んな色の反物が積んである。すでに出来ているものもあるので広げて見ると、一つが4mはある見事なものである。「これを織るのにどれくらい掛りましたか?」と聞くと「約一ヶ月です」と言う。 そしてこの後は、これをベトナム人が買い付けに来るのだという。「これだといくらくらいで売れますか?」と聞くと、品物によるが高い時で100,000(約850円)ドン、平均は7〜80,000ドンで売れるという。一ヶ月掛けて織った品物が、それくらいの値段であれば我々から見ると高くはないが、現金として入る手段の少ない少数民族の人たちには、低くは無い収入なのであろう。 この作業はいつもこの部屋で、普通は朝の早い時間と昼の暑い時に家の中で織るのだが、今は小さい子供がいて長い時間外に出て農作業が出来ないので、一日中家の中でこれを織っているという。その横では生後まもない赤ちゃんがスヤスヤと寝ている。「これで赤ちゃんにミルクでも飲ませて下さい」と言って、Tienさんに50,000ドン渡して母親に上げてくれるように別れ際頼む。 ここの親父さんはここに引越して来たが、民族さんの大部分が今だに不便な山の中で生活をしているのだろう。便利な生活を知った後ではまた不便な生活には戻りにくいが、産まれてから死ぬまで山の中で一生を過ごす人たちは、その生活しか知らない人達がほとんどだろう。 民族の親父さんやその奥さんがTienさんと話しているのを横で聞きながら、そして娘さんやその旦那さんたちが何のクツタクもなく笑い合っているのを見て、こちらまでほのぼのとしてくる。民族の酒はここでは飲む機会が無かったが、充分酩酊して来た。 親父さんたちに別れを告げて、一旦市内に戻る。親父さんと話している間、バイクは近くの広場にハンドルの鍵もかけずに置いておいたがチャンとあった。ここらでは民族の人達が物を盗んだりしてもすぐ分るから、窃盗のような事件はあまりないと彼は言うが…・。市内に入り「ノドが乾いたね」と言うと、それでは「コーヒーでも飲みに行こうか」と言って先にバイクで走って行く。着いた先はEva Cafeという名前。そこに着いてみて驚いた。 ここの喫茶店は何という美しさだろう。テーブルや椅子は全て木の根をうまく利用して作られ、灰皿は竹の節。しかもその灰皿には、枝を一本だけ残して取手が付いている。灰皿が満タンになると、下に置いてある長い竹にその取手を握って移すような、アジな作りになっているらしく、Tienさんが模範を示してくれる。 これが美しいのではなく、この喫茶店の中には多くの種類の、様々な色をした蘭の花が到るところに花を咲かせているのであった。この時、この季節でもここにある全部の蘭の花が咲いてはいないが、それでも充分美しい。雨上がりにちょうど着いただけに、なおさら花の色が映える。 しかもその蘭はただ鉢に入れて置いてあるだけではない、ただぶら下げてあるだけでもない。この喫茶店の中に生えている、大きいほとんどの木に相当の高さの所まで(約7mくらいのところまで)蘭の株がへばり付いて、いろんな色の花をそこから咲かせている。その木に張り付いている蘭の数の多さはハンパではない。ここまで仕上げるのには相当の手数と年数が掛っただろうと思う。 蘭の花というのは根っ子を木に最初ハリガネなどで巻き付けておくと、しばらく経つとそこから自然に根が広がっていくらしい。そして何年か経つといかにも最初からそこに育っていたかのように見えるらしく、サイゴンでもよく木に巻き付けてあるのは見たが、ここのはその数が尋常ではない。さぞよっぽど凝り性の人がここを管理しているのだろうなと思う。さらにここには小さいながらも人工の滝や噴水まである。最初着いた時は水は流れていなかったが、しばらくすると水をサービスで流してくれた。 しかもここにはサルも檻の中入れて飼われている。キジみたいな鳥もいた。前衛的な彫刻作品もこの庭の中に展示してあり、その中にも蘭が生けてある。何でもとにかく、蘭づくしである。さらには何と、何もつないでいない状態で色の美しい一匹の小鳥が、近くを枝から枝へとキレイな声でサエズリながら飛んでいる。近くにいたおじさんが蘭の花を世話していたので、この人がおそらくここの店長だろうと思い、聞いて見るとやはりそうであった。 おじさんの話では、ここの設計は建築士である息子さんの手になるという。ただ毎日の蘭の世話は自分がしているという。やはり相当な手間ヒマが掛るという。「この蘭は五年くらい世話をしていてね〜」と嬉しそうに話してくれる。私が「あの小鳥は繋いでも、カゴの中にも入れていないが、外へ逃げて行かないのですか?」と尋ねると、おじさんは「産まれた時から人がエサを与えて飼い慣らしているので、この近くにしか飛ばないし、外には逃げない」のだという。 事実おじさんと話している時にも、おじさんの肩の上に止まりエサを催促しているのか、甘えているのかそのキレイなサエズリ声を上げる。羨ましい関係というべきである。トリと見ればすぐ捕まえて、焼き鳥にして食べてしまう私のような日本人は、見ただけで分るのか近寄っても来ない。「ここの蘭は何月が一番多く、キレイに咲くのですか?」と聞くと、蘭の種類にもよるので菊や桜のように何月に花が咲くかは一定していないという。 Kon Tum最後の日に、本当にいい場所に連れて来てくれて有り難うとTienさんに礼を言う。まあ彼はここでビールを飲んでいたから、本当はビールを飲みたかったのだろうが。そして世話になったお礼にその後、ホテルの近くのレストランで食事をする。レストランの名前は「レストラン168番地」。番地がそのままレストランの名前になっているという、ベトナムではよくある名前の付け方である。ここもバンメートートと同じく、山の幸が名物である。 スツポンでも食べてみるかと思い、スツポンの煮付けを頼む。Tienさんに家族のことを聞くと、結婚していて2人の子がいるという。出て来たスツポンを食べる。大して美味しくない。日本で食べた時の方がはるかに美味い。まあ今日がベトナムでは初めてのスツポンの試食なので、他にまだ美味い料理方があるのか、ないのか良くしらないが…。一時間半ほどそこで食事をして、最後にTienさんにtien(お金)を渡して別れる。 <2001年9月17日(月)>Kon Tum→サイゴンへ 朝7時に55人乗り大型バスでサイゴンへ向けて出発。料金は69,000ドン。Kon Tumからサイゴンまで600km。時間にして、食事も入れて順調に行けば13時間で着く。55人乗りバスのほうが広く、ゆったりして荷物も網棚に乗せれて楽である。Kon Tumミヤゲの民族の模型は大きいし、網棚には入らないので、一番後ろの座席とガラスの間に置く。 出発の予定時間通りに出る。8割くらいは埋まっている。座席は座るところが決まっているらしく、私は前の席が好きなので「ここが良い」と言っても「ダメだ」と言って後ろの方に座れと言う。切符をよく見ると、確かに座席番号が書いてある。何とさらに50,000ドン払えば前に座らせてやると言うが、アホらしくて断る。 途中から少しずつ席が埋まり、9時くらいになると座席の席は埋まってしまった。このあと乗り込んで来た客は、通路に風呂場の椅子のような低い椅子に座る。その場合2〜3割安くなるらしいが、何せ背もたれがないので眠れないし、さぞ背中が痛いだろう。高原で一回、10時にトイレ休憩。みんなまたぞろぞろと林の中に入る。私は面倒くさいので、バスの近くで済ませる。運転手はその間、タイヤのボルトを締めなおしている。12時ちょうどになつかしのバンメトートを通過。乗客が「昼飯はまだか?」と聞くが「まだだ」と言う。しかしここまでは、何とか車の故障もなく順調に来た。 結局12時50分に高原の食堂で食事。40分くらいそこにいてまた出発。この運転手もご多分にもれず、飛ばす、飛ばす。近頃は私もそれに慣れて、飛ばしてもらわないと気が済まなくなってきたのは、我ながら不思議である。日本に帰ると、スピード違反で捕まりそうで怖い。途中からお客が乗り込んで来る。乗せてからまたいつもの如く値段交渉が始る。 お客が「いくらにしろ!」と言うが、この添乗員は少し手ごわいらしく「ダメだ、その値段では!いくらいくら払わなければこのバスから降りろ!」と言う。しかし結局お客を降ろしはしない。こういう言い方でも、ツカミあいのケンカにはならない。ただ言い合うだけである。お客も自分を乗せた方が彼等は儲けがそれだけ入ると知っているので強気である。この場合は最終的には乗客の主張した値段が通り、添乗員はしぶしぶとそのお金を受け取った。5,000ドンくらいの差だが。 昼食後5時間以上、トイレ休憩もない。バスはどこにも止まらず、一気に7時頃そのままサイゴン郊外に入った。少しづつ途中から降り始めて、後ろの席は乗客が少なくなってきた。すると若い男の子が、一番後ろの席に来て自分の腰より少し高いところにあるガラス窓を開けて、やおらズボンのチャツクを開け、腰をその窓に横に押し当ててオシツコをし始めたではないか。昼食後一回も止まらなかったから、よっぽど我慢出来なかったのだろう。その気持ちは私も分る。それで私はバスで移動する時は、いつも最低限しか水やお茶を飲まないことにしている。 しかし道路をビュンビュン走る大型バスの中から窓を開けて、こういう器用な姿勢で高い窓から外に向けてオシツコをする場面は初めて見たが、苦しい姿勢とはいえ上手いものである。大いに今後の参考になった。一人が終わると、さらににまた別の男の子も同じ姿勢で腰を突き出す。二人も続いたので、大いに可笑しくなり笑ってしまう。先に済んだ一人は私と目が合い、照れくさそうにしている。 これは「立ちション」ではないし、「横ション」と言うべきであろうか。運転手はガラス窓から突き出た、小さい棒を見て(あれは何かなぁ〜?)と首を傾げたかもしれない。添乗員は気づいたのか、気づいていないのか分らないが、何も言わない。7時を過ぎて外も暗いし、見えなかったのかもしれない。 しかしそれにしても、このバスの後ろをバイクで走る人がいたら、間違い無くそのシブキがかかったことだろう。まさか大型バスから乗客がションベンをしているとは知らないだろうから、「雨かな?」と思い空を見上げると、晧晧とした月夜が出ているので不思議に思いながらも、顔を手で拭きながら味見をして「少しショツパイな?」と思い首を傾げながら、バスの横を通り過ぎたことだろう。 そして7時45分、今日はバスの故障も無く、サイゴンに到着。食事休憩が40分あったから、ちょうど12時間掛ったことになる。広いバスの中で足が少し伸ばせたせいか、さほど足腰も痛くはない。そしてKon Tumのミヤゲを後ろの座席から取り出し、大事に抱えて家に帰り着いてビニール袋から取り出す。ビニール袋を開けるまでは、おじいさんから買ったミヤゲを早く見たくて見たくて仕方がなく、ウキウキしてきた。 そして開けると何と、2つのミヤゲのうち、1つは家の屋根に取り付けてあった飾りが無くなり、1つは屋根の出っぱった部分が折れているではないか。折れているのは車の振動で折れた可能性もあるし、誰かが手で折った可能性もある。しかし無くなった屋根の飾りは相当深く突き刺してあったので、誰かが手で引き抜かない限りは無くならない。全部なくなった訳ではないが、それにしてもおじいさんの苦心の作品が、トホホ……・・とドット疲れが出てきた。やはりどこまでも、最後までも油断のならない、ベトナムの人たちであった。 ________________________________________________________________________________________ |