いわき市の地名由来                                                                                                               トップページへ戻る

名も知らず 再発見歩録

 

はじめに

 

「ふるさといわき抄」高木稲水著(昭和五十三年五月発行)を紹介された。

紹介氏は、いわき市地名考≠フ稿を殊更に「外からきた人が地元を知るために良いものだ、地元でも知っていたか、作とか谷とか、あれはこうなんだ。」とか、紹介氏は、そこで述べているのを信じきった向きである。それは『はしがき』に、「いわき市内の字名を分類してその解説をしてみようと思いたった次第である。」と始まっている著述ですが、かってな想像と解釈の粗仕上げのものである。

かってな想像と解釈′鼬ケ俗解と切り捨たわけは、簡単に知っているものが、でたらめになっているので、由緒ただしき拠り所で、より上等な、解釈を試みるものである。

 

 

いわき市

 

昭和四十一年十月一日(1966年)、平市、内郷市、常磐市、磐城市、勿来市の五市と、双葉郡久ノ浜町、双葉郡大久村、石城郡四倉町、石城郡小川町、石城郡遠野町、石城郡川前村、石城郡三和村、石城郡好間村、石城郡田人村の九町村、計十四の地方行政区が合併し市制施行した。

 

この地域を「磐城」と呼称しているのは、往古の奥州磐城の国、磐州、磐城平藩等があったので、市制施行で誕生の際に、【いわき市】と命名、聖徳太子が制定した憲法十七条の一条文にある以和貴≠ノ対照している。

 

 

いわき市の発足までの変遷

 

平市は、昭和29年10月1日、平市と石城郡赤井村のうち大字赤井と合併し、石城郡の頃は、平町、平窪村、飯野村、神谷村、夏井村、高久村、豊間村、草野村(下神谷、泉崎村)があった。

それ以前には、明治以来からの北目村、町分村、長橋村、拾五町目村、幕之内村、鯨岡村、大室村、上平窪村、中平窪村、四ツ波村、中塩村、西平窪村、下平窪村、南白土村、北白土村、上荒川村、下荒川村、谷川瀬村、中山村、小泉村、吉野谷村、上高久村、鎌田村、塩村、上神谷村、中神谷村、上片寄村、下片寄村、山崎村、菅波村、荒田目村、上大越村、下大越村、藤間村、下高久村、上山口村、下山口村、神谷作村、豊間村、薄磯村、沼ノ内村、下神谷村、赤沼村、六十枚村、上泉崎村、下泉崎村、原高野村、絹谷村、馬目村、水品村、北神谷村、赤井村、西小川村、三島村、高萩村、塩田村があった。

 

内郷市は、昭和29年7月10日に、石城郡内郷町から市制施行した。

昭和30年2月11日に箕輪村の一部を編入した。

明治以来から、小島村、御台境村、御厩村、高坂村、内町村、綴村(つづらむら) 、白水村、宮村、高野村、榊小屋村、大利村があった。

 

常磐市は、昭和29年3月31日に、石城郡湯本町、石城郡岩崎村と合併し市制施行した。

明治以来から、石城郡として、湯本村、岩ヶ岡村、下船尾村、馬玉村、長孫村、上湯長谷村、下湯長谷村、水野谷村、上藤原村、中藤原村、下藤原村、北白鳥村、南白鳥村、熊野堂村、上西郷村、下西郷村、関船村(関村,上船尾村)がある。

 

磐城市は、昭和29年3月31日に、石城郡小名浜町、石城郡江名町、石城郡泉 町、石城郡渡辺村が合併し、市制施行した。

それ以前には、明治以来からの米野村、中島村、西町村、中町村、玉川村(岡小名村、住吉村、林城村、相子島村、大原村、南富岡村、島村、金成村、岩出村、野田村)、鹿島村(米田村、飯田村、走熊村、上矢田村、下矢田村、松久須根村、三沢村、下蔵持村、久保村、上蔵持村、船戸村、御代村)、江名村、中ノ作村、永崎村、下神白村、上神白村、玉露村(玉崎村、甘露寺村)、泉村、本谷村、滝尻村、下川村、黒須野村、田部村(渡部村、初田村)、洞村、昼野村、泉田村、松小屋村、中釜戸村、上釜戸村があった。

 

勿来市は、昭和29年4月29日に、石城郡植田町、石城郡錦町、石城郡勿来町、石城郡山田村、石城郡川部村が合併した。

それ以前には明治以来から、東田村(東坂村、塩田村)、添野村、石塚村、後田村、佐糠村、岩間村、小浜村、植田村、仁井田村、江畑村、高倉村、小山田村、上山田村、下山田村、井上村、大林村(大津村、林崎村)、富津村(富田村、小津村)、大倉村(大島村、米倉村)、前江栗村、後江栗村、中田村、長子村、上小川村、下小川村、沼部村、瀬戸村、山玉村、三沢村、窪田村、四沢村、白米村、九面村、酒井村、大高村、関田村があった。

 

双葉郡久ノ浜町は、昭和35年6月1日に、久ノ浜村から町制となった。

明治以来から、久ノ浜村、田之網村、金ヶ沢村があった。

 

双葉大久村は、明治以来から、大久村、小山田村、小久村があった。

 

石城郡小川町は、昭和30年2月11日に、上小川村、下小川村、赤井村の一部が合併した。それ以前には明治以来から、上小川村、福岡村、柴原村、上平村、下小川村、関場村があった。

 

石城郡四倉町は、昭和30年3月10日に、四ツ倉町、大浦町、大野村が合併した。

それ以前には、明治以来からの大森村、細谷村、狐塚村、名木村、長友村、上仁井田村、下仁井田村、塩木村、白岩村、戸田村、玉山村、中島村、上柳生村、下柳生村、山田小湊村、薬王寺村、駒込村、八茎村、山小屋村があった。

 

石城郡遠野町は、昭和30年3月31日に、上遠野村、入遠野村が合併した。

それ以前には明治以来から、上滝村、下滝村、上遠野村、深山田村、根岸村、上根本村、下根村本村、入遠野村上村、入遠野村下村、大平村があった。

 

石城郡川前村は、明治以来から小白井村、上桶売村、下桶売村、川前村、上川内村、下川内村を楢葉山附六ヶ所村というのがあった。

明治22年の町村制実施とともに小白井村、上桶売村、下桶売村、川前村が合併し、楢葉郡川前村と改称した。明治29年3月郡廃置分合により、川前村は、石城郡に編入された。

※楢葉郡川前村と記載された資料から引用したが「しねはぐん」という郡あったということを長老に聞いた。(後に調査したところ、標葉郡というのが古代地図にあった。)

 

石城郡三和村は、昭和30年2月11日に、永戸村、沢渡村、三阪村が合併している。明治以来からは、上永井村、下永井村、合戸村、渡戸村、中寺村、下市萱村、上市萱村、下三坂上村、上三坂上村、上三坂村、中三坂村、差塩村があった。

 

石城郡好間村、昭和30年2月11日に、好間村、箕輪村の一部が合併した。明治以来から、久保村、北好間村、下好間村、久保町村、上好間村、中好間村、今新田村、川中子村、愛谷村、小谷作村があった。

 

石城郡田人村、昭和16年4月1日に、貝泊村、田人村(旅人村、黒田村、南大平村)、荷路夫村が合併している。

明治以来からは、貝泊村、戸草村、石住村、出旅人村、入旅人村、上黒田村、下黒田村、大平村、荷路夫村があった。

 

※ 古代地図にあった標葉郡は、現在の双葉郡楢葉町の辺りで、「しねはぐん」と教えられ、史材を探しあてた。しかし、史觀では、しめはぐん≠ニ覚える。

(しめ)は、しめ縄(標縄、注連縄)、標柱、標識。

標葉は、榊をさしているのでないか。

榊は、阿武隈丘陵より西側になく、この辺りが北限かも知れない。

(天皇)多・石城・標葉(境木・榊)・標縄いずれも、神社に関係する。

 

 

いわき市の命名の裏面

 

いわき市の中心となった、平市の地名、平≠ヘ、平泉の説、平氏の説、飯野平の説があるが定かでない。

磐城平藩主内藤氏の中期以降といわれている。

平市が、人口と街の構成、そして既に市制であり、核となったのは当然の成り行できだろうが、旧五市の北部に偏っていたので、当時の平市長諸橋氏は、市役所の位置および初代の市長を平から出すということで、必死の仕掛けをしたという。

双葉郡久ノ浜町、双葉郡大久村を組み入れたのは、市役所の位置をなんとしても、旧平市に置くためであったという。

 

内郷市は、日本国有鉄道の綴駅が、貨物の取扱量が日本一を誇っていた。

鉄道を軸に考えると、綴市と命名しなかったのが何故かは知らないが、強いて推理すると、炭礦の勢いが内町を中心であったからだろう。

内郷市の発足が、昭和29年7月10日と、隣接の常磐市、磐城市が市制施行をした、昭和29年3月31日よりも、遅れて3ヶ月後となったのは、箕輪村が、常磐炭礦の地区と古河鉱業の地区とになっていたために、常磐炭礦内郷坑の地区を編入することと、古河鉱業好間炭坑のある地区を好間村に一部編入、という調整にかかったものと思われる。

 

常磐市は、元気があった、当時、常磐炭礦も隆盛の名残でもある。常磐というという名が、常陸の国と磐城の国の一文字づつとって常磐(じょうばん)としているとおもう、常磐線と常磐炭礦とが、どちらが先に命名したかについてはわからない。

常磐(ときわ : トコイワの約)とは別であろう。

じょうだんではないが、じょうばん≠ニいう、音で読む地名には意味を知ることは出来ない。

 

磐城市は、小名浜港の1万トン岸壁の完成(1957 : 昭和三二年)の勢いと、新産業都市の指定(1964:昭和三九年)の影響が大であり、臨海型工場の進出、臨港地帯の石油コンビナートが構築されつつあった。

磐城市が市制施行した昭和33年、泉町と小名浜町との町名をめぐっての争いは、泉藩の武家末裔と漁師の末裔との争いであり、泉市だ、小名浜市だと調整が難航、周囲のことをはばからずに磐城地域を代表するかのような市名を附けてしまった。

この際に、石城郡(いわき)から市制施行で内郷市、常磐市、勿来市の人達は、なんとずうずうしいと思ったに違いない。

したがって、五市合併の局面で、使うべきであった、「磐城市」の称を棚上げにすることで、仕方なく、平仮名の「いわき市」となったともいわれている。

 

勿来市は、勿来の関の所在地から称したが、植田町、錦町、勿来町の三町長が、命名などで、三方論議で譲り合わず調整が難航した。

市の称を勿来町、市役所の位置を錦町、市長を植田町という談合によって、三方一得二損で落ち着き、昭和29年4月29日に発足となった。

隣接の常磐市、磐城市のニ市が市制施行の、昭和29年3月31日よりも、遅れて約一ヶ月後となったのは、これのようである。

当時、大日本炭礦株式会社、呉羽化学株式会社(昭和人絹錦工場から呉羽紡績)、常磐共同火力株式会社、日本製紙株式会社(十条製紙)等の工場があるため、固定資産税収入があるために、収支バランスが良かったために、五市合併になっても、利得がないと、最も消極的であった。

平競輪場の収入に頼っている平市との合併を避けるようにして、炭礦地区の二市、南部に位置する工業地帯である、磐城市と勿来市との二市合併の構想を優先して、模索していたと聞いている。

 

いわき市の読み方を「いわきし」とは、ふりがなを附けなくともだれでも読む、違和気な地名である。

 

往古の奥州磐城の国、磐州、磐城平藩、一般的に「磐城地域」と称しているから【いわき市】の誕生に際して、それから命名したと多くの市民は思っているだろう。

 

しかし、石城郡(いわきぐん)の平仮名読みから【いわき市】となったのが本筋であったのかも知れない。

石城郡をいしきぐん≠ニ読んでいた教員もいた。《重箱読み》

教員は石をいわ≠ニは読めないのである。

しかし、せききぐん≠ニ音読するとか、いししろぐん≠ニ訓読も出来ない。

石城郡(いわきぐん)とは、石川氏と岩城氏の支配した地域をいって、両氏から一文字を採ったのが歴史的地名表示かも知れない。

 

磐城市でも、石城市でも、歴史的には、どちらを称してもよかった。

なにせ、命名決定のメンバーは、磐城高等学校の出身が占めている。

磐城≠入れたかったはずである。

五市合併のこの局面で、磐城℃gいたかった。

しかし、「磐城市」と小名浜・泉地区で称を使い古した。

平市が「磐城市」に編入したようにも感じられて、誇りがゆるさなかった。

えーぃ、面倒だと平仮名読みの【いわき市】にしようとひらきなおって決定したようである。

 

こうして、珍しい平仮名読みの市の名称が定まった。

 

「和を以って貴しとなす(以和貴)」の精神などということを、いわざるをえなかったのである。

 

北部の平市は、四倉町と合併。

中部の炭礦地帯の内郷市と常磐市の二市の合併。

南部の工業地帯の磐城市と勿来市の二市の合併。

 

五市合併の構想がなかなか折り合わなかった。

もうひとつの背景に、諸橋平市長が勇退をして、市役所は、平市に置くこととし、市長には三代磐城市長、暫定の市長代行を赤津庄兵衛勿来市長としての談合が成立したよう、と思っていたのだが、旧磐城平藩のプライドが許さず、殿は平から出す、突然、平出身の大和田弥一が福島県庁職員から舞い戻り、市長選挙に出馬し当選し、初代市長に就いてしまったことで、裏切られたとばかりに、いさかいがあったとも聞く、合併後、しばし、小名浜側では平側を背にして不仲であったという。

 

百年以上まえから、磐城を冠し、称している団体組織は多い。

磐城高等学校・磐城女子高等学校・磐城農業高等学校・磐城第一高等学校・磐城学芸学校と学校名には、磐城イコール伝統という図式がある。

 

磐城森林管理署

磐城炭礦(1893年 : 明治二十六年設立)

磐城セメント(1907年 : 明治四十年設立)

磐城通運

石城を冠して称しているのは、石城夏井郵便局(いわきなつい)および石城山田郵便局(いわきやまだ)いうのが有るので、郵便局は、そうなのかと思えば、磐城新地郵便局というのがあって、いわき泉郵便局がある。

 

相馬地域に、JR東日本の常磐線の磐城太田駅と田村地方には、磐越東線の磐城常葉駅等がある。

 

現在、石城郡(いわきぐん)と附いている所はない。

 

いわき市内の地名(郡・町・村・大字・字・小字)の存在、命名の由来について確認することは困難である。

 

地名(字名)の由緒ただしき拠り所≠フを知りたいものだ。

 

 

いわき市の地名(字名)の再発見

 

歴史的名称は、土地の形状、形質および天侯、ならびに土地使用の目的、状態、権利など、または、ある位置からの関係で命名されたと推定される。

明治二十二年(1893)の町村制実施の際に、合併によって名称が変更になり、命名の当初からの意義、そして由来のあったものが変遷したために、今現在の地名表記からは、何で≠知ることが難しい。

 

いわき市常磐関船町は、関村と上船尾村の両方の一文字を使い、合併の名称。

いわき市玉露町は、玉崎村と甘露寺村の両方の一文字を使い、合併の名称。

いわき市渡辺町田部は、初田村と渡部村の両方の一文字を使い、合併の名称。

いわき市東田町は、東坂村と塩田村の両方の一文字を使い、合併の名称。

いわき市仁井田町大林は、大津村と林崎村の両方の一文字を使い、合併の名称としたが、いわき市仁井田町大津は、現在でもある。

いわき市富津町は、富田村と小津村の両方の一文字を使い、合併の名称。

いわき市大倉町は、大島村と米倉村の両方の一文字を使い、合併の名称。

いわき市田人町は、黒田と旅人村と南大平村の三村の内、二方の一文字を使い、合併の名称。

 

明治22年(1893)の町村制実施の際に、合併前の村の名称からの文字を使って、併合の名称にした履歴のものである。

 

いわき市役所を旧平市に置くため、郡の異なる、双葉郡久ノ浜町と双葉郡大久村を組み入れた。

しかし、中心位置から南側の方向へ、勿来まで,約30キロメートルであるのに、北側の方向で、約20キロメートルの双葉郡広野町・約30キロメートルの双葉郡楢葉町の木戸川まで組み入れられなかった。

そのために、双葉郡から平地区へと通学した高等学校の生徒には、情報、交通、差別感を生じさせていた。

後に、東京電力の電源地帯となり、裕福な町となって、あの時に合併をしなかったという政治家の先人の誇りが功を奏したようである。

 

隣接地域の双葉郡とは、楢葉郡と標葉郡(しねはぐん?、しめはぐん?)。

 

背戸峨廊(せとがろう)

     

背戸峨廊(いわき市小川町)。

いわきでは有名な【背戸峨廊】を、高木稲水氏の著書(ふるさといわき抄)のいわき市地名考≠ナは、その他に分類し、『がろう』【峨廊】を《崩壊地》とし、「岩石の露出しておる所をいっておる。」と解説している。

いわきでは、観光名所の「背戸峨廊」の命名を、詩人草野心平先生が【背戸】は、隠れた所、【峨廊】は、岸壁がそそり立つさまを表現しているといわれている。というのが、由緒正しき拠り所≠ニしている。

「峨廊」は、【画廊】からの創造かもと想像をしている。

宮城県刈田郡蔵王には「峨々温泉」という秘境の湯がある。

がが【峨峨】は、山や巌などのけわしくそびえ立つさま。《広辞苑》。

地球上なことでは【Sierra】峨峨たる山脈(スペイン・中南米の)。

よって、知っているところを検証してみれば、こういう結果に至るのであるので、高木稲水氏の著書(ふるさといわき抄)いわき市地名考≠ナの記載の内容には、信憑性にはやや問題があり疑いの目を持つ≠ニいうことにならざるをえないのである。

疑いの目を持つ≠ニいうことは、俗に言う『猜疑心』ではなく、正しいものを手に入れるためである。

 

 

朝日台

 

「朝日台(勿来金山)などと、台のついた地名は、物をのせる台のようになっておる。」と『土地の形態による地名』《谷と沢と作》に分類して、まことしやかに解説しているが、怪説である。

【朝日台】は、かつて、勿来市植田小浜町中ノ作という地名で、まばらに住宅が点在していた所だったが、比較的に後住民として当地に住居を構えた、遠藤金作氏(後に区長になった)が、「家から毎日朝日が見えるから」と自宅の住所を新聞の名前ごときに「朝日台」と称していた。

それを、昭和41年に石城郡九町村と五市が合併し、いわき市となり、発足後のどさくさに町名変更したものである。

これが由緒ただしき拠り所≠ナある。

より知っているところを重ねて検証してみれば、またまた、こういう結果に至ることからも、高木稲水氏の著書(ふるさといわき抄)いわき市地名考≠フ記載の内容は、信憑性にはやはり問題があって疑いの目を持つ≠ニいうことにならざるをえないのである。

台のついた地名は、物をのせる台のようになっておる。≠ネどとの解説にあっては、浅はかであり、打者ならば、台≠ゥらの連想は、仏の台(うてな)で蓮の花なので地名にはあてなかったろう。

朝日をのせる台などは新聞受けである。

まして驚きは「月見台」の命名なぞはほとほとあきれた。

月の見えないところは、洞穴と月ぐらいである。(太陽と地球と月)

自分のいる場所だけが見えるという物差ししか持っていない。

こっちは「朝日台」、そっちは「月見台」というのは、西暦600年代の話、日の出る国より日の没する国へ≠ニいう聖徳太子型確信犯である。

天動説的転回(コペルニクスの再転回現象)ともいえる視点である。

「長島がひまわり≠ネらば、おれは富士の裾野の月見草=B」と自虐的に、なんかい野村は言った。

ミスタープロ野球長島は、「私はひまわり≠ナ野村さんは月見草=B」とは絶対言わない。

なんかい野村の誤りは、長島選手は、富士山≠ナ気高く美しいのだが、おれは、その裾野村の目立たぬ月見草≠ニいって遂げなかったことだ。

富士山≠ナはなくとも、太陽≠ニ月≠ニ、例えるのが一般的とおもうが、比較する場合の知識を不足しているので、動物的勘≠フ長島野球に対抗して、野村のID野球≠ニ唱え、頭脳派ぶりをみせたかったのだろう。

「野村監督は、名監督だが、長島監督は、野球を知らない。」と言っていた輩が、サッチーを監督できなかったという落ち(後というか)を読めない素人衆である。

プロ野球イコール長島≠ニ存在を信じている方々を好きである。

新潟県人の前にして、福島県人が「裏日本の新潟」と発言し、眉をひそめさせるに等しい、顔色を見てから「日本海側の新潟」と言い直しても心証の回復は難しいのである。(日本の教科書が太平洋側を「表日本」としていた記憶がある。)

東・西・南・北の方角で、何処を基準座標として、踏在何歩区するというのが、地球な発想での分類と命名である。

「朝日台」は、東田町金子平団地のように、岡を削って谷を埋めての整地造成で住宅地とした部分が少なく、自然の形質形状が変更の小さい住宅地である。

町名の「金山町」も理由なしで、山とか岡が台状だから台地≠ネのであって、地形から命名するなら「金山」というよりも「金丘」、「金岡」、「金台」である。

古代からの地名を捨て、近代でわけもわからずに付与するのはいかがとおもう。

知らないのに知ったかぶりが気になるところである。

この気なんの気ふしぎな気。

 

 

金山町(かねやままち)

 

そもそも、いわき市金山町の「金山」(かねやま)なんて、これこそ出処不明の地名である。

通称「金山」は、いわき市石塚町、いわき市東田町、いわき市岩間町、いわき市小浜町の地名が混在している地区で、石塚町との接壌地には、現在でも、いわき市石塚町国分(くにわけ)と名が残っている地である。

いわき市石塚町、東田町、岩間町および小浜町の人々が、公有地の民間山林所有とし、開墾し、耕作地として、「かねやま」と呼んでいた丘のようである。

いわき市の市制以前は、勿来市でもあり、それ以前は、石城郡植田町大字石塚、石城郡植田町大字東田、石城郡植田町大字岩間、石城郡植田町大字小浜である。

いわき市市制施行後の町名変更に際し、「金山町」への改称にあたって、地主から抵抗が大きく、石塚、東田、岩間の大字では、改称を拒んだと推測される。

「金山町」と改称できたのは、いわき市小浜町中ノ作の区域が多かったという背景には、小浜町の地主が、親族関係者に耕地を宅地として、既に譲渡していた。

また、知人を通じた譲渡等が多く、住宅地化しており、残った耕地については、小浜町の地主が、好意をもって地番変更の同意をした結果であって、市制施行で、石城郡植田町大字小浜字中ノ作から、勿来市植田小浜町中ノ作、そして、いわき市金山町朝日台となったのが地名の来歴である。

小浜町の大地主の娘で、四十二年で生涯を早く終えた同級生が、生前の会話中に「かねやまは、ほんとうに金になる山になったね。」と言ったことが記憶に残る。

字名(あざめい)となっている、朝日台、汐見台、月見台、東台、南台などは、台≠ニいう文字を付ければよい風に付与したようだ。

現代において、晴れた朝に、自分が住む家の縁台で、日が昇るのを見て、地球上で最も朝日が美しいと確信し、付与した縁のゆかりもない地名である。

通称「金山」を、終の棲家の地と選んだ故遠藤金作翁が、地名変更をする機会に命名の草案者として、いわき市植田小浜町中ノ作から、いわき市金山町朝日台への変更にあたり、自身の名に含まれている、作≠ゥら金≠ヨ成ることへのこだわりだったかも知れない。

いわき市内の地名(字名)に「金山」の存在は、いわき市沼部町金山(かねやま)であるが、命名の由来は不明である。

ほかに、「いわき市常磐西郷町金山」(じょうばん にしごうまち かなやま)という地名(字名)は由緒ただしき拠り所≠フ地名とおもっている。

当地には「金山神社」(かなやまじんじゃ《読み方不明》)というのがあるので古代から認知された地名とおもう。

また、福島県大沼郡金山町(地方自治体)といわき市金山町(自治会)とが肩を並べて「友好町」などと言いよって交流をはかる図々しい方々にはあきれている。

へりくだってフェアリーランドかねやまスキー場≠利用させてもらうというのが筋というものである。(優待割引歓迎)

 

 

時代と磐城

 

古墳時代(   〜593)

大和政権により、勿来関を創設。

 

飛鳥時代(593〜710 : 和銅)

推古天皇〜元明天皇。

聖徳太子(517〜622)

憲法十七条(?)

 

奈良時代(710〜794)

律令政治が行われ、磐城郡。(郡役所跡地発掘中)

律令政治が行われ、鮫川流域に菊田郡が置かれる。

多賀城(宮城県多賀城市市川)に、蝦夷に備えて城柵を築く。(724年 : 神亀元年)

 

平安時代(794〜1185)

大伴弟磨呂が征夷大将軍で、蝦夷征討に派遣。(794 : 延暦一三年)

坂上田村磨呂(758―811)が征夷大将軍となり、蝦夷征討に大成功があった。(794 : 延暦一三年以降)

常陸平氏の流れの岩城氏が土着、好嶋庄の地頭の役割になる。

岩城氏が、岩城郡の地頭になる。

延喜式神名帳(927 : 延長五年)資料。

岩城道則の後室、徳尼御前が白水阿弥陀堂を建立。(1160 : 永歴元年三月)

源平合戦、公家から武家時代へ《郎等=下級の武士の組織》

源頼朝が平氏追討の兵をあげる。(1180 : 治承四年)

屋島の戦、頼朝・義経、平氏打倒。(1184 : 元暦元年)

壇ノ浦の戦、源義経が平氏滅亡。(1185 : 元暦二年)

 

鎌倉時代(1185〜1333) 《古代から中世へ》

奥州合戦(1189 : 文治五年 源義経歿、平泉高館山)により、東北地方の中世の幕が開き、合戦で功績のあった、関東の武士、源頼朝に味方した在地の武士たちに、恩賞として所領を与える。

岩城氏が、岩城郡および好嶋荘の地頭になった。

常陸守護佐竹氏の流れ、小川義綱氏が、西小川中柴に館を建てる。(1320 : 元応二年)

小川氏が下小川の長福寺を開山。(1322 : 元亨二年)

岩城氏の勢力拡大で小川氏が岩城氏の家臣団に組み入れられる。

菊田庄、下野国の守護小山氏、上遠野郷に本拠。

小山氏の一族、藤井氏は、足利方の有力な一員、後に上遠野氏を称する。

陸奥国、岩崎郡金成村地頭の金成又三郎が、東国人鎌倉番人に所領を 譲り状。(1329 : 嘉歴四年)

奥州東海道岩崎郡長谷村地頭に岩崎氏。(1329)

 

南北時代(1333〜1392)

北畠顕家、焼失の飯野八幡宮の造営。(1334 : 建武元年)

 

室町時代(1392〜1573)《足利時代》

岩城隆忠、薬王寺を再建。(1334 : 文安四年)

国人領主、白川氏(結城氏)、石川氏との争い、岩城氏が惣領主の地位を確立。(1442〜1466)

調停役の白川氏が長井村を所有。(1451)

 

戦国時代(1477〜1573)

領国拡大に死闘を繰り返す。

国人領主、岩城氏が飯野平(大館)城を築き居城、本拠とした。(1484 : 文明十五年)

岩城氏が相馬氏と国境の木戸、金剛川(楢葉)で合戦。(1534 :天文三年)

上遠野氏が岩城氏の支配下(家臣団)になる。

 

安土桃山時代(1573〜1600)

岩城領検地。(1595 : 文禄4年)

三阪氏、三倉城を統治。

平山氏、中寺館を統治。

 

江戸時代(1600〜1867)

関ヶ原の戦い。(1600 : 慶文)

岩城領一二万石没収。(1602 : 慶長七年)

徳川家康は、磐城領一〇万石を鳥居忠政に与え、磐城平藩主の鳥居氏が入領。(1602 : 慶長七年)

その後に幕府直轄地に細分割される。

磐城平藩主鳥居氏の女婿・土方氏により窪田藩成立。(1622 : 元和八年)

上遠野は、棚倉藩に組み入れられる。(1622 : 元和八年)

八茎銅山、再発見で採掘。(1625 : 寛永二年)

磐城平藩主七万石で上総国から内藤忠興が入領。(1634〜 )

泉藩成立、磐城平藩主内藤忠興が弟政晴に二万石を分ける。(1634 : 寛永十一年)

磐城平藩主七万石で内藤忠興が五万石。(1634 : 寛永十一年)

窪田藩は、三代六十二年で、除封廃藩となって、幕府領になり、

窪田代官所の支配になる。(1684 : 貞享元年)

窪田藩は、棚倉藩領になる。(1627 : 享保十三年)

大野、大浦は、笠間藩牧野氏が所領。(1749 : 寛延二年)

遠山政亮により湯長谷藩一万石で成立。(1670 : 寛文十年)

湯長谷藩一万五千石に。(1687 : 貞亨四年)

泉藩主、板倉氏。(16   :   年)  

泉藩、二万石から一万五千石に減石。(1702 : 元禄十五年)

幕府代官所五千石、合戸村、渡戸村、三坂村、市ヶ谷村(市萱)、中寺村が

直轄支配。(1702 : 元禄十五年)

下野国鬼怒川の渡瀬川の修治を命じられる。(1725 : 享保十年十月)

日光廟の修繕を命じられる。(1731 : 享保十六年四月)

百姓一揆(1738 : 元文三年九月)

鎌田川原で百姓一揆煽動の罪で処刑。(1739 : 元文四年八月二十三月)

磐城平藩内藤氏、日向国延岡へ転封。(1747 : 延亨四年)

磐城平藩から幕府直轄地、小名浜代官所。(1747 : 延亨四年)

幕領小名浜で、川前、下桶売、上桶売、小白井支配。(1747 : 延亨四年)

磐城平藩主五万石で井上氏が入領、十年間統治。(1747 : 延亨四年)

幕府領、中神谷代官所。(1747 : 寛延元年)

常陸笠間藩の領地、渡戸村、中寺村、下市萱村、上市萱村、上三坂村、中三坂村、下三坂村、差塩村が小名浜代官所の支配。(1749 : 寛延二年)

磐城平藩主五万石で安藤氏が入領、統治。(1757 : 宝暦七年)

安藤氏、幕府の要職として老中職。

棚倉藩主小笠原長尭、平潟同門を穿つ。(1779 : 安永八年)

上桶売村は、新発田藩の分領になる。(1790 : 寛政二年)

棚倉藩主松平氏の時代。(1836〜1866)

川前、下桶売、上桶売、小白井が棚倉藩になる。(1836 : 天保七年)

泉藩、本多氏。(1836 : 天保七年)

泉藩主の本多忠徳が、藩校「汲深館」を設立。(1852 : 嘉永五年)

石炭発見、片寄平蔵。(1855 : 安政二年)

片寄平蔵、弥勒沢で開鉱、常磐炭田開発の起因。(1857 : 安政四年)

湯長谷藩より石炭採掘許可、磐前郡太平左平太。(1859 : 安政六年)

 

明治時代(1868年〜1912)

磐城平城が落城。(1868 : 明治元年)

陸奥国を分離して磐城国を設置。(1868〜1869 : 明治元年)

廃藩置県で磐前県が成立、県庁を平に置く。(1871 : 明治四年)

福島県の成立。(1876 : 明治九年)

市町村施行。(1893 : 明治二十二年)

磐城炭礦の設立。(1893 : 明治二十六年)

入山採炭の設立。(1893 : 明治二十六年)

日本鉄道磐城線が平まで開通。現在の常磐線。(1897 : 明治三十年)

好間炭礦の設立。(1904 : 明治三十七年、白井遠平)

 

大正時代(1812年〜1926)。

好間炭礦が古河鉱業に譲渡。(1915 : 大正四年)

 

昭和時代(1926〜1989)

日本水素工業小名浜工場設置。(1938 : 昭和十三年)

磐城炭礦と入山採炭が合併、常磐炭礦株式会社を設立。(1976 : 昭和十九年)

磐城共立病院創設。(1950 : 昭和二十五年)

福島労災病院創設。(1956 : 昭和三十一年)

小名浜港に一万トン岸壁が完成。(1957 : 昭和三十二年)

新産業都市の指定。(1964 : 昭和三十九年)

常磐ハワイアンセンターのオープン。(1966 : 昭和四十一年)

大日本炭礦の閉山。(1967 : 昭和四十二年)

古河鉱業好間炭坑の閉山。(1969 : 昭和四十四年)

常磐炭礦の閉山。(1976 : 昭和五十一年)

 

 

金山歩録

 

いわき市金山町の「金山」(かねやま)、出処不明の地名に関心、疑問、探求である。

「金山」は、いわき市石塚町、いわき市東田町、いわき市岩間町およびいわき市小浜町の地区で、石塚町の東南の接壌地には、現在でも、いわき市石塚町国分(くにわけ)と地名が残っている。

阿武隈丘陵地の東南端にある、湯の岳の南方約7qに位置し、標高81.1mの岡で関東ローム層の最北端ともいわれる。

「金山」は、いわき市岩間町、小浜町および開拓の農家が耕作し、「かねやま」とか「かなやま」と通称していた地である。

昭和三十一年(1956)の小学生とき、窪田から金山への転居で、町の子から急に山の子となった。

うさぎ追いし、かのやま・・・、まさにこの情景の地である。

金山(岩間町上山)の学童、生徒が、植田小学校、植田中学校へ登校するのには、当時の新国道六号線(現在の県道いわき上三坂小野線)を通る場合、いったん戻るような経路なので遠回りだった。

そのために、胸高直径15pの松林の中、幅90pの山道を、登校の近道(現在の金子平団地の造成地の下に埋まった。)として常用したのである。

それよりも近道は、旧道といっていた、岩間町上山の丘状背部にあって、幅3mほどの山道であった。

その道は、丘の上から海がよく見え、下りにさしかかると切り通しの道となり、両側の山には樅の大木がおおっていて、暗く、さすがに男児の小学生一人には恐ろしい感があった。

先住民の同級生に引率されて、その切り通し道に、初めて足を踏み入れたときを今でも憶えている。

ジャングルに入ったようである。(ジャングルに行ったことはないのだが)

切り通しの崖に、蔓がぶら下がり、木の根が露出していた。

引率する彼は同級生であるが、氏名に新≠フ文字が含まれているので、通称は「ニイちゃん」と呼んでいた。

ニイちゃんの家は、相当前から金山に住んでいたようで、米、麦、さつまいも、じゃがいも、とうみぎ、スイカ等を生産するとともに、乳牛一頭だけ飼っていた。

ニイちゃんは、毎朝搾った牛乳を登校の際に、自転車で舗装の新国道を通って、町の牛乳工場まで運ぶ家事手伝いをしていたが、子牛が誕生すると、牛乳は、母乳として子牛に与えるため、牛乳工場への運ぶことがないために、旧道を歩いて登校するのである。

そんなある日、ニイちゃんと旧道を登校する機会ができて、初踏破することになったのである。

「このみちは、おんなのひとはとおっていけない」とニイちゃんは言った。

「なぜ」と聞いた。

「さんぞくがでるんだ」とニイちゃんは答えた。

ニイちゃんにはネエさんがいた。

その後、恐怖を乗り越え、さんぞくを見たさに何度か通ったが、人間には勿論、野良犬一匹にさえ出会ったことはなく、のうさぎ、きじ、かえるなどを目にしたというだけだった。

慣れてくると、岩、石、土、水、草木、野鳥、小獣類に次から次への初見に感動、自分だけの秘境という感じだった。

しかし、日暮れには真っ暗となるので、一人で立ち入る度胸の持ち合わせてはいなかった。

ニイちゃんの向の丘状にある畑は、麦畑とともに、陸穂(おかぼ)という稲作地もあったが、その畑の端には、土器のかけらを見かけて拾った記憶がある。

思い起こせば、縄文土器でもないし、弥生土器ないので、天日干しで作った土器(そんなものが歴史にあったか確認をしていないが)だったのかなともおもった。

まほらばを検証する界で、石器の捏造問題があったとき、そのころの光景を遠い記憶の中でよぎった。

金山での生活七年のあと、昭和三十八年から昭和五十年の期間に、当地を離れて、十二年ぶりに戻ってみると、安寿姫と厨子王の母子像≠ニいう碑が建立されて、いつのまに、中世以来の小説や演劇の題材にかかわりがあるとして舞台にしてしまっている。

森鴎外の作品「山椒太夫」に、軽く組み入れていたのには、カルチャーショックがあった。

最近、「金山」の周辺に、安寿と厨子王のゆかりの地≠ニかで、案内の標柱が立っているが、安寿と厨子王のゆかりの史跡≠フ標柱は問題である。

地域の歴史のロマンをぶち壊したくはないが、奥州の太守岩城判官正と、当地と、越後直江津にいたる経緯には共感できない。

偶然か、いわき市金山と越後直江津が、東西で緯度がほぼ同じではある。

『ゆかり』はともかく、『史跡』とするには疑義がある。

【史跡】は、歴史上、重大な事件や、各種の施設の跡で、その保護保存を指定されたもの(1950年文化財保護法)であると学んでいる。

ゆかり【縁・所縁】、血のつながり、また何らかの続きあい・関係があること、という語義のため俗解として許容することにした。

山椒太夫の作者森鴎外は、意外な発展にほほ病んでいるだろう。

 

 

巻尾

 

動物のなかで、人間と他の動物との大きな違いは、分類と命名ができることである。

科学的手続を踏まない誤まった解釈は、洒落など活用される。

 

 

語解

※1 新国道 当時の旧国道とは、植田町から泉町へ通り抜けるためには、

  添野から渡辺への新田坂を経る奥州浜街道であった。

 

※2 旧道  東田町菖蒲沢のプレステージ菖蒲苑の駐車場付近から、金山共同墓地西側の道。

 

   § 私造語・私変語

     打者   かつては筆者というが鍵盤時代は文字を打つ

 

再 発 見

2002年2月26日

 

                                                作  浜  耕

百 囀 舎

 

《誤字、落字、綴りなどはわけありの場合があり》

 


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【 いわき市の難読地名 】

 

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