19世紀初期

[リアリズム][文学言語発達の問題に関する論争][芸術]

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リアリズム

 19世紀第一四半期に、ロシア文学に新しい傾向--リアリズムが確立する。ゴーリキーは語る。「人々とその生活の状況を真実にありのままに描くこと、それをリアリズム(現実主義)と呼ぶ。(Реализмом именуется правдивое, неприкрашенное изображение людей и условии их жизни.)」人生の真実の描写への志向は、私たちがこれまでの文学発展について述べてきたことすべてから見てきたように、最も古い時代(例えば、「イーゴリ軍記」の著者)や18世紀(例えば、フォンヴィージンやラジーシチェフ)の作家たちに固有のものであった。しかし、この現実を真に再現しようという志向、全体的に固有の真の芸術への志向は、まだ、十分に理解されず、理論的に根拠の与えられたものではなかった。
 文学傾向としてのリアリズムの発生までには、多くの作家たちの人物描写の扱いが一面的であった。古典主義者たちは、主に、国家への責務という側面から人物を描き、彼らにその生活、家庭や個人的生活に関心をもつことは極めて少なかった。反対に、センチメンタリストたちは、人間の個人的生活、心の感情描写へと移った。ロマン主義者たちは、人物を人間の心の生、感情や欲望の世界で主に描くことに関心があった。しかし、彼らは、主人公たちに異常な力の感情や欲望を与え、普通ではない条件の下に彼らを置いた。
 リアリズムの作家たちは、人間を多くの側面から描いている。彼らは、典型的な性格を描き、いかなる社会的条件で作品の何らかの主人公が作り上げられたかを示している。
 この典型的な状況に典型的な性格を与えるこの技法がリアリズムの主要な特徴である。
 典型的というのは、何らかの社会的グループあるいは現象にとって一定の歴史時代に特徴的であるきわめて重要な特徴がより鮮やかに十分実現された形象のことを、私たちは呼んでいる。(例えば、フォンヴィージンの喜劇のプロスタコーヴァ--スコチーニンは、18世紀後半のロシア中層地方地主貴族の典型的代表者である。)
 典型的な人物の中に、リアリズムの作家は、特定の時代に最も広まっていた特徴だけでなく、現れ始めていたばかりで将来すべて発展していくことになる特徴も反映させている。
 古典主義者、センチメンタリスト、そしてロマン主義者たちの作品の根底に横たわっていた葛藤も、また一面的であった。
 古典主義の作家たちは(特に悲劇において)、主人公の魂の中の国家のために遂行する必要性の意義と個人の感情・渇望との葛藤とを描いた。センチメンタリストにおいては、根本的な葛藤は、様々な階級に属する主人公たちの社会的不平等の基盤の上に成長した。ロマン主義者たちでは、葛藤の根本は、夢と現実との不一致の中にあった。リアリズムの作家たちにおいては、葛藤は人生そのものと同じように、多面的なものであった。
 19世紀初めのロシア・リアリズムの形成において、クルィーロフ(Крылов)とグリボエードフ(Грибоедов)が大きな役割を果たした。クルィーロフは、ロシア・リアリズムの寓話の創始者となった。クルィーロフの寓話には、農奴制ロシアの生活の本質的特徴が、真に深く描かれている。彼の寓話の傾向において民主主義的な思想的内容構成の完全さ、すばらしい詩句と民衆の基盤において発達した生きた口語体の言語--これらすべてが、ロシアのリアリズム文学に多大な貢献をし、グリボエードフ、プーシキン、ゴーゴリその他の作家たちの作品の発展に影響を及ぼした。
 グリボエードフは、自らの作品「知恵の悲しみ(Горе от ума)」で、ロシア・リアリズムの喜劇の模範を示した。
 しかし、様々な文学ジャンルにリアリズムの作品の完璧な模範を与えたロシア・リアリズム文学の正真正銘の創始者は、偉大な国民詩人、プーシキンであった。

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文学言語発達の問題に関する論争

 当時、文学言語に関する問題で激しい論争が生じていた。それは、激しい反動主義者、海軍大将、А.С.シシュコフ(Шишков)の登場で始まった。彼は、1803年、カラムジンとその追従者の文学的文体に反対して書いた最初の労作--「ロシアの言語の古い文体と新しい文体についての論文(Рассуждение о старом и новом слоге российского языка)」--を発表した。すでに、私たちは知っているように、カラムジンは、宮廷社会の言語に基づき、生きた民衆の言葉を軽視し、多くのフランス語の言葉や表現をロシア語に採り入れて文学言語を構築した。往時を偲んで、カラムジン一派の人々は、ロモノーソフの「三文体(трёх штилей)」の理論を拒否し、「フランス語の貧しい基盤の上に(на скуднои основании французского языка)」言語を発達させ始めたことを、シシュコフは暴いた。シシュコフは、カラムジン派の人々の文体の洗練さと気取り、外国の言葉による汚染を攻撃したが、彼の根本の立場は、文学言語の発展を阻害したので、全く非学問的であり反動的であった。
 言語の分野でのカラムジンの新しい体制に反対して登場しながら、シシュコフは、文学的と言うよりむしろ政治的目的を追求した。彼は、世論(общественность)、産業(промышленность)のような新しい言葉に反対して戦った。なぜなら、それらはシシュコフのような反動主義者には受け入れがたい新しい観念を自らにもたらしたから。彼は、新しい言語に、彼が表現するところの「奇怪なフランス革命の言語と精神の痕跡(следы языка и духа чедовишной француской революции)」を見た。
 シシュコフの書物は、カラムジン派の側から決定的な反撃にあった。その論争には、シシュコフの側の者もその反対者からも絶えず新しい人々が参加した。1811年、18世紀の古典主義者と古い文体を擁護する人たちを特に統一するための協会「ロシアの言葉愛好家の座談会(Веседа любителей русского слова)」が開かれた。
 彼らの反対者は、初めはばらばらに出ていたが、1815年、協会「アルザマス(Арзамас)」を創設した。そこに、ヴァゼムスキー(Вяземский)、ヴァトゥシュコフ(Ватюшков)、遅れて--А.С.プーシキン、デカブリストのН.И.トゥルゲーネフなどの人々が入った。その会の会議での詩作の記録をとった心のまた書記は、ジュコフスキーであった。
 「アルマザス(Арзамас)」の会員は、様々な政治的文学的見解を保持し続けたので、最後には会の崩壊につながった。論争の過程では、文学の進歩的活動家たち--デカブリストたち、若いプーシキンなどにとっては、シシュコフの言語観、カラムジンの言語観も共に認めることができず、会での「シシュコフ派の人々(шишковист)」と「カラムジン派の人々(карамзинист)」との間の論争は、保守的な貴族の陣営内での論であることが明らかになった。保守的な陣営の作家たちとは異なって、デカブリストたちは、高い市民の気分を表現するためには、教会スラブ語の要素を利用することを拒み、文学言語の発展の根底に生きた民衆の言葉を置くことを志した。彼らは、外国の言葉でロシア語を話すことに反対した。
 ロシア国民文学言語の発達に、不朽の喜劇、グリボエードフの「知恵の悲しみ(Горе от ума)」は、非常に大きな役割を果たした。民衆の基盤の上に言語の発展を行うというデカブリストたちの見解を実践に移して。
 本質的に政治的観点で、デカブリストたちと緊密に繋がりながら、ロシアの文学言語の問題を解決したのは、天才プーシキンであった。

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芸術

 19世紀の第一四半期、造形芸術(建築、絵画、彫刻)では、芸術文学におけるような開花は見られないが、それでも、そこに当時の複雑な社会事情と思想思潮の論争とが反映された変位が認められる。
 最も目立つのが、当時の建築の成果であった。その様式の特徴は古典主義であり、「アムピル(ампир)」様式へと移る発展の中で、後者はこの時期最も広まっていた。アムピルは、列柱のある荘厳な建築様式である。この時代の優れた建築家は、ペテルブルクのカザン大寺院(Казанский собор)を建てたヴォロニヒン(Воронихин)と海軍省の建物の設計者、ザハロフ(Захаров)であった。モスクワでは、モスクワや地方に多くの建物が農奴の建築家によって、古典様式やアムピル様式で建てられた。
 この時代の絵画は著しく貧しい。特に、初めの20年間は。
 19世紀の第一四半期に、初の肖像画家で、20年代に「ロシア風俗画の父(отец русского жанра)」、すなわち、日常生活の場面(「脱穀場(Гумно)」「畑で(На пашне)」など)を描く画家、となったА.Г.ヴェネツィアノフ(Венецианов)」が現れる。センチメンタリズムからリアリズムに移動して、彼はロシア絵画の完全な学校の創始者となった。
 優れた画家として、傾向としてはロマン主義者であるキプレンスキー(Кипренский)がいた。彼は、すばらしいロマン主義の精神に満たされたプーシキンの肖像画を描いた。
 20年代には、壮麗な肖像画家で風俗画家1として、農奴農民生まれのВ.А.トロピニン(Тропинин)がいた。彼は、プーシキンに最も似た肖像画の一つを描いた。トロピニンは、構想においてヴェネツィアノフとは異なっている。ヴェネツィアノフは、農民と農民の生活を描写したが、トロピニンは、つまらぬ町の人々を描いた。(「ギター弾き(Гитарист)」「レース編みの女工(Кружевница)」)

  1. Жанрист - 日常生活の場面を描く画家

 彫刻では、当時わずか二つだけの記念碑が芸術的に価値があり、当時の市民感情を満足させていた。これらは、ペテルブルクのスヴォロフ(Суворов)(1801年)とモスクワのミニン(Минин)とのポジャルスキー(1826年)への彫像であり、二つとも古典主義様式でできていた。
 貴族たちの間だけでなく、商人階級、軍人、知識人や官吏、小市民の間でも、音楽への関心が高まっていた。19世紀の第一四半期に、民衆の旋律に基づく小詩曲(романс)や歌が最盛期を迎える。この分野での優れた典型的作品を、А.Н.アリャビエフ(Алябьев)(「うぐいす(Соловей)」)(А.Е.ヴァルラモフ(Варламов)(「赤いサラファン(Красный сарафан)」)「雪嵐(Метелица)」А.Л.グリリョフ(Гурилёв)(「霧の青年時代の空やけに(На заре туманной юности)」)などの作曲家たちが創作した。言葉と結びついて、プーシキンの影響は、小詩曲(романс)、歌曲、そしてオペラの音楽の発展に有意義(好都合)なものであった。オペラ創作の分野では、А.Н.ヴェルストフスキー(Верстовский)が仕事をした。この時代に、音楽でのロシア国民楽派の創始者--М.И.グリンカ(Глинка)(小詩曲「必要もないのに私を誘惑しないで(Не искушай меня без нужды)」1825年)、ロシア歌曲「あぁ、あなた、愛しき娘、美しき乙女(Ах ты, душечка, красна девица)」1826年)が現れる。しかし、彼の有名なオペラ「イヴァン・スサーニン(Иван Сусанин)(1836年)と「ルスランとリュドミラ(Руслан и Людмила)」(1842年)は、その世紀の次の四半世紀になってやっと現れる。
 演劇の分野では、文学であったような様々な傾向の論争が進行している。劇場の舞台では、古典主義の悲劇やセンチメンタリズムの性格の戯曲、ロマン主義の戯曲が上演されている。
 この時期のロシア演劇に特徴的なことは、劇とオペラとの緊密な繋がりである。オペラには、会話での対話が挿入され、劇の興行には、その中に多くの音楽--序曲、合唱、歌曲、アリア、諷刺歌(куплеты)、バレーの演目--などが挿入されていた。
 劇場は、ペテルブルクやモスクワだけでなく、他の都市にも裕福な貴族地主の屋敷の中にもあった。私有の劇場の舞台では、農奴の役者が演じた。オペラ・バレーの興行、コミック・オペラ、喜劇が上演された。農奴の人々の役者の中に、少なからず舞台芸術の優れた巨匠がいた。農奴の人々の中から、優れた芸能人、ロシア芸能芸術のリアリズムの創始者、М.С.シチェープキン(Щепкин)(1788-1863)が出た。農奴の優れた役者としては、П.И.ジェムチュゴヴァがいた。この時代、農奴農民階級は、多くのその他の才能ある芸能人を生み出した。
 演劇は、19世紀の初め、社会文化的生活において、重要な位置を占めていた。自らの優れた戯曲と、優れた役者たちの演技で、演劇は、観客を育て、1812年の祖国戦争の日々には、愛国的精神を昂揚させた。

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