漢文入門 39
さて「于公決獄、未嘗有所冤」の前回の部分を訳しておきましょう。
「太守はついに孝婦を殺した。郡中で旱魃が三年続いた。太守が変わり新
しい太守がその理由を求めて占った。于公は、「孝婦は死刑に該当しなか
った。前の太守が無理矢理孝婦を殺したからだ。咎はまさにここにある。」
と言った。そこで、牛を殺して孝婦の塚に祭り、太守以下の役人がそこに
参列した。すると、たちどころに天から雨が降り、豊かな実りを収穫する
ことができた。」
さて、今回で「于公決獄、未嘗有所冤」も最後になります。
「郡中以此益敬重于公、于公築治廬舎、謂匠人曰、為我高門、我治獄、未
嘗有所冤、我後世必有封者、令容高蓋駟馬車、及子封為西平侯、」
読み下しておきましょう。
「郡中此を以て益々于公を敬重せり。于公廬舎(ロシャ)を築治(チクチ)
せしとき、匠人(ショウジン)に謂って曰く、「我が為に門を高くせよ。
我獄を治むるに、未だ嘗て冤(エン)ずる所有らず。我が後世必ず封ぜら
るる者有らん。高蓋駟馬(コウガイシバ)の車を容(イ)れしめん。」と。
子に及んで封ぜられて西平侯(セイヘイコウ)と為る。」
やさしくない英語193
バーミサイドの饗宴(BARMECIDE FEAST)
バーミサイド家は、「アラビアン・ナイト」に出てくる裕福な家族で
す。彼らの一人が乞食を饗宴に招待し、そこで非常に高価な食物を出すふ
りをしました。その乞食は、その冗談に合わせ、存在しない料理を楽しむ
ふりをしました。最後には、バーミサイドは本当の饗宴で彼に報いました。
バーミサイドの饗宴(barmecide banquet or feast)とは、豊富にあるとい
う幻想のことです。Barmecidは、「架空」のという意味になります。
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初等数学史178
数学と文学におけるイタリアの新しい精神の何らかの思想が、ほぼ同じ
頃にスペインに達していました。バルボサ(Barbosa)のような人々が、サラ
マンカでギリシア語の講義し、レブリクサ(ネブリセンシス)(Lebrixa
(Nebrissensis))は、1474年、イタリアから帰り、セヴィリア、サラマンカ、
そしてアルカラ(Alcala)で講義をしましたが、学者たちの関心は中世の神
学にあって、科学の発展にはほとんど注意は向けられませんでした。
15世紀のスペインの著作の性格は、アロンソ・デラトーレ(Alonso
Delatore)によって書かれ、1489年にトロサ(Tolosa)で出版され、1538年に
セヴィリアで再び出版された一種の総合百科全書である「Visio
delectable de la philosophia & artes liberales」から推測できるでし
ょう。この著作の第四章は、Dela arismethica y de sus inuetores と題
されていますが、数世紀前にカペッラ(Capella)やイシドルスによって与え
られた算術の扱い以上に優れたものはほとんどありません。
スペインは、この頃、貴族強盗(bandit nobles)の鎮圧、スペインの法の
再編纂、そして最後のムーア人の追放に専念していて、1492年になってや
っと将来の平和に必要な政治的統一が果たされます。それでも、そのころ
は商業数学と航海術の科学の急速な発展のための新しい土台が築かれる過
程にあったように思えます。
コロンブスが、そして次の世紀には、ポンセ・デ・レオン(Ponce de
Leon)がなしたような航海は、植民帝国の拡張と急激な富の増大へと導きま
した。しかし、残念なことに、スペインの指導者たちはその機会をつかむ
ことができず、新しく獲得した富を無益な戦争へと導くことになる野望に
満ちた計画に浪費してしまいます。
メディチ家があれほど幸福へと導いたその機会は、スペインの支配者た
ちには脇へ投げ捨てられ、芸術も学問も育まれませんでした。それ故、そ
の世紀のほとんどの間、学問への情熱はそがれ、15世紀にはスペインで
は、重要な数学的著作は何ら一つも出版されませんでした。
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