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Nevertheless -- pity the poor government worker with a sword of Damocles hanging over his head! ダモクレスは、シチリア島のシラクサに住んでいた人で、その町の統治 者ディオニシウスの友人で追従者でした。王の幸福、富、権力について絶 えず語られるのに飽き飽きして、ディオニシウスはダモクレスに教訓的な ことを教える決心をします。 彼はダモクレスを豪華な饗宴に招待します。ダモクレスが最初のコース を楽しもうとすると、ディオニシウスはダモクレスに上を見るように言い ます。ダモクレスは、頭の真上に一本の馬の毛で吊された鞘から抜いた剣 に気づき恐怖に脅えます。言うまでもなく、彼は食事への関心を全く失っ てしまいました。 今日、ダモクレスの剣(sword of Damocles)には二重の意味があります。 それは人間の願望の虚しさを象徴している--「王冠をかぶる頭には常に不 安がある」ということです。より具体的には、繁栄の中にも危険が常にせ まっていることの喩えとして用いられます。
「先んずれば即ち人を制し、後(オク)るれば則ち人の制する所と為る。」 「為a所b」の形式。 「手足処(トコロ)を異にし、卒(ツイ)に天下の笑と為る。」「為ab」 の形式。「為a所b」の「所」のないもの。元来こちらが古い形式。 「凡そ国に三制有り。人を制する者有り、人の制する所と為る者有り、人 を制する能(アタ)はず、人も亦制する能はざる者有り。」「為a之所b」 の形式。 次回も続けて「受動文」です。 「為□(けものへんに賓)獺之笑者、蓋十八九年矣」 「秦少出兵、則晋楚不信也、多出兵、則晋楚為制於秦」
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さらに、ユマニスタ(人文主義者)ジョヴァンニ・アウリスパ (Giovannni Aurispa)(1369-1460年頃)も、コンスタンチノープルからヴ ェネチアヘ、およそ238の古代ギリシアの写本をもたらしています。 しかし、これらすべての活動にもかかわらず、イタリアは15世紀には、 数学において何ら自国で才能を見せることはありませんでした。全般に、 トスカナ文化について、シモンズ(Symonds)が言ったことが特に数学に当 てはまるでしょう。 「月が太陽から反射した光で輝いているように、フィレンツェはアテネか らの光を借用した。(文芸)復興は、ギリシアの古い黄金時代の銀の時代 であった。」 この時代、算術を学ぶ人にとって、国家という精神はまだ発達していな かったことは明らかです。人々が忠誠を誓ったのは、私たちが知っている ような国家ではなく、都市でした。私たちに、ヴェネチア芸術というのが あるように、ニュールンベルクの作品とピサの作品とが互いに異なるよう に、私たちは、ヴェネチアの算術、フィレンツェの算術、ローマの算術と いった異なる算術を見いだします。 大学は、この頃には、これまでより数学に触れ始めていましたが、それ だけです。1408年のオックスフォード大学規則の断片では、ほんの少しの 算術だけが学士(bachelor)の試験に要求されただけですし、1431年になっ てもほとんど改善はされていません。パリでも同様で、明確なものは何も 規定されませんでした。全般に、算術とユークリッドのわずかなもの以上 は要求されなかったのです。
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