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「心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治めらる。」「於」を用 いるもの。 「天下道有れば、小徳は大徳に役せられ、小賢は大賢に役せらる。」上の 形式から「於」を省略したもの。受動文かどうかは文義によって決まる。 「信にして疑はれ、忠にして謗らる。」「見」「被」「遇」などを用いる もの。 さて「受動文」の続きをいきましょう。 「臣人與見臣於人、制人與見制於人、豈可同日道哉」 「先即制人、後則為人所制」 「手足異処、卒為天下笑」 「凡国有三制、有制人者、有為人之所制者、有不能制人、人亦不能制者」
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ルネサンスとして知られるあの学問の復活をもたらしたその最大のもの は、東方の学問のイタリアへの伝播と印刷術の発明でありました。前者、 東方の学問のイタリアへの伝播は、コンスタンチノープルの陥落、すなわ ち 1453年のトルコ人による占領と年代付けて語られるのが通例となって います。 しかし、私たちは、このギリシア文明の伝播は、コンスタンチノープル の陥落より一世紀も前にすでに始まり、ローマもフィレンツェも、印刷機 がその内容を世に知らしめる用意が整ったときに有効になるべき、ギリシ アやラテンの写本の獲得収集を始めていたことをすでに見ています。 15世紀の初め頃、ニコロ・デ・ニッコリ(Niccolo de' Niccoli)(1363 -1437年)は、フィレンツェで価値ある写本の収集を行っています。そして、 1414年には、ローマ教皇庁(Roman curia)の秘書官(事務官)、ポッジョ ・ブラッチョリーニ(Poggio Bracciolini)が、古典作品の筆写と収集を始 めます。 その世紀の間、フィレンツェのメディチ家やローマのニコラス5世のよ うな学問の擁護者(パトロン)がいて、彼らの労作を、今日でもロレンツ ォ図書館(Laurentian Library)やヴァチカン図書館で見ることができます。また、モンテフェルトロ(Montefeltro)伯爵、フェデリゴ(Federigo)も いました。ヴィットリーノ・ダ・フェルトレ(Vittorino da Feltro)は、 シクストゥスIV世(Sixtus IV)からウルビノ公爵(Duc d'Urbino)の称号 を受けますが、写本で満たされたウルビノの彼の図書館は、イタリアの学 者たちのたまり場でした。
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