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前回読み下しましたが、おおよその意味はおわかりになると思いますので、ここでは、「謂」について少し。 「いう」を意味する語には、「曰」「云」「言」「道」「謂」などがあり、それぞれいろいろな用法がありますが、原則から言いますと、「曰」は口から音を発すること、「云」は「曰」と似ていますが、多くは過去の言説や世人の言説に用いるということです。「言」「道」は意味内容のあることばを言うのに用い、「謂」は人にものを告げることだそうです。 「謂」には、他にもいろいろ用法があるということですので、その例を書いておきます。 「謂我舅者、吾謂之甥也。」(我を舅と謂う者は、吾これを甥と謂うなり)「名付ける、呼ぶ」の意味。「王者孰謂、謂文王也。」(王とは孰をか謂う。文王を謂うなり)「意味する」 「子謂南容、邦有道不廃、邦無道免於刑戮。」(子南容を謂う、邦に道有れば廃せられず、邦に道無ければ刑戮より免ると)「批評する、うわさする」 「君謂我欲君也。」(君われ君を弑せんと欲すと謂へるなり)「おもう」 「子謂子夏曰、女為君子儒、無為小人儒」(子子夏に謂ひて曰く、女君子儒と為れ、小人儒と為るなかれ)「つげる」
前回の問題文を訳しておきます。 「シニカルな若いドイツ知識人の間の現代のシニカルな思想の一つの例は、ハイデルベルク大学のスクールマガジンの最新号に載っている「ディオゲネス」と呼ばれる詩である。」 今回は、これです。 「DRACONIAN Of the three measures taken against the communists, the most draconian were probably those taken by the Amalgamated Clothing Workers.」 Draco(ドラコン)はアテネの立法者で、その紀元前 621年に制定された法は、非常に小さな罪にも非常に厳しい罰を要求しました。それで、彼の法は、インクではなく血で書かれていると言われました。 ということで、draconianの同意語としては、severe, stern, rigidなどが挙げられます。
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さて、これまで2回にわたって、14世紀は、数学の著しい発展が望める時代でしたが、現実には、そうはならなかったと述べてきました。それを阻止する要因があったということですが、今回はその要因について書いてみましょう。 その要因の一つは、百年戦争(1338-1453年、1328-1492年とも言われる)でした。この戦争は、アルプス以北のヨーロッパで最も発達した二つの国の経済的政治的システムを覆してしまいました。クレシー(Cresy)の戦い(1346年)は、封建主義以外にも、かなりのものを打ち砕いたのです。 二つ目の阻む要因は、黒死病(Black Death)の恐るべき猛威でした。それによってヨーロッパの人口の 1/3から 1/2が失われたと考えられています。 14世紀の大学に関していうと、それらは数学にはほとんど寄与しませんでした。イタリアの大学は、パリやイングランド、ドイツの同時代の人々に遅れをとっていて、1387年の大学規則には、そのテーマ(数学)に関して何の言及もありません。イングランドでは、オックスフォードのマートン・カレッジ(Merton College)が数学の中心でした。一方、パリでは、計算法(algorism)、天文学、幾何学のの講義がありました。新たに設立されたドイツのエアフルト大学(University of Erfurt)(1392年)では、数学の基本的知識が提供されましたが、明らかに世間では求められていませんでした。 この時代、数学を必要としていたのは、特に商人階級だったのです。
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