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「ヘルメスの封印がなされた ヘルメスは、ローマ神話ではマーキュリーと呼ばれる魔術の守護神です。中世には、錬金術がヘルメスの技として知られていました。実験室の瓶にヘルメスの封印をするというのは、炎で瓶の首をねじり取って瓶を気密状態にすることでした。それで、この表現は、しばしば比喩的に、人の心が思想や情報の浸透に対して閉ざされていることに用いられます。 さて、今回はこれです。
HYDRA-HEADED
「徳は本(モト)なり。財は末(スエ)なり。」 徳は本であり、財は末であるのに、人君が本である徳を外的なものとみなし、末である財を内的なものとみなすなら、人民に対して苛斂誅求(物欲主義)をこととすることになり、ひいては物欲主義に感化された人民を財をめぐって争わせることになる。財というのは、人間誰もが「同じように欲望する」ものであるのに、自分だけでそれを専有しようとするなら、民もまた起って奪い合いの争いをするようになるのはあきらかだから、というのですね。 さて、島田虔次著「大学・中庸」(朝日新聞社)の「大学 伝第十章」から続きです。
「是故財聚則民散。財散則民聚。」
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ボエティウスの死後数世紀は、古典時代の文学にも学問にもほとんど関心を示さなかった時代です。聖オーエン(サン・トゥアン)(St.Ouen)のような優れた人物でさえ、ホメロスやヴィルギリウスの作品を、不敬なつまらぬ詩人であると語り、トゥリウス(Tullius)やキケロは特別な人物だとしています。 一方、トゥールのグレゴリウス(Gregory of Tour)は、こう嘆いています。「私たちの時代は不幸だ。なぜなら、文学の研究は私たちの中では死んでしまっているから。これらの時代の歴史を記録できる人は誰もいない。」古典の文化はこのように衰退していました。古いラテンの儀式の遺風にわずかな価値を見出した少数の人々が、へぼ詩を作ったり古典文学者たちの学識の一部を百科事典という形で示したにすぎません。 その人々の中で優れた人物は、歴史家で文法学者、雄弁家で神学者、全般にわたる学者であって、司教であり中世で最も有名な政治家の一人でもあったセヴィリヤのイシドルスです。聖マルティヌス(St.Martin)は、彼の葬儀の演説で、高潔で有名な人として描写し、死後数年後のトレドの公会議(653年)では「並はずれた博士、カトリックを支える最も新しい人、常に尊敬をもって語られる」人物として真に語られました。 しかし、彼の「起源(Origines)」、しばしば「語源論(Etymologies)」として知られる20書からなる著作は、第3書が数学に関するものですが、その扱いは平凡なもので、算術はボエティウスの単なる簡略化にすぎません。
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