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「LIEとLAY(の用法)は極めて優れた人々をもペンを滑らせる(間違えさせる)。昨日ベッドで layしていたとは言えるが、今日ベッドで layすると、あなたは雌鶏になる。」 お分かりの人も多いと思いますが、layが過去で用いられると、lieの過去形で「横たわる」の意味ですが、現在で用いると「卵を産む」の意味になるということですね。 さて、今回も、これに関連した問題です。
(a) Lie down, Fido!
(a) I lied in the hammock all afternoon.
(a) The townspeople lay down on the highway in an attempt to slow up the advancing enemy tanks. もうお分かりですね。
「故に諺(コトワザ)に之(コ)れ有り、曰く「人其の子の悪を知るもの莫く、其の苗の碩(オオイ)いなるを知るもの莫し。」と。」 当時の諺(愛するわが子の欠点を知る者は少ないし、自分の畑の苗が人並みに大きいことを認めうる者も多くはない)を引用して、「溺愛するものは明確な判断を下すことができず、利益を貪るものは満足することがない」と言います。 修身とは内容的には人倫の道の実践なのですが、修身の方法として、特に公平と言うことを中心に解説がなされているということは、大変興味深いと著者は書いておられます。 その背景には、中国の大家族制度というものがあり、そこでの族長、もしくは家長の徳として、公平ということがもっとも重要だと考えられていたのだろう、ということです。 では、今回は、島田虔次著「大学・中庸」(朝日新聞社)の「大学 伝第九章」からです。 「所謂治国必先斉其家者。其家不可教而能教者無之。故君子不出家而成教於国。孝者所以事君也。弟者所以事長也。慈者所以使衆也。」
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さて、セボクトの議論ですが、シリア人を見下すギリシア人の学者たちの横柄さに対して、彼はこう反論します。 ギリシア人はバビロニアのカルデア人の弟子に過ぎなく、そのカルデア人というのは、まさにギリシア人が見下すそのシリア人であったと主張します。そして、学問とは普遍的なものであり、それを探究する努力労力を惜 しまないいかなる国、いかなる個人にも得られるものである。それ故に、学問とはギリシア人の独占物ではなく、国際的なものであると言うのです。 なかなか感動的な議論だとは思いませんか。シリア人がカルデア人であったかどうかは知りませんが。 また、ヒンドゥーの学問については、こう証言しています。 ヒンドゥーの天文学の発見は、ギリシア人やバビロニア人の発見よりも独創的なものであり、彼らの優れた計算法は言語を絶する。ギリシア語を話すだけで学問の極致に達したと信じている人が、万一この事を知ったなら、彼らは相当の学問に通じている人々が、他にもいることを確信するだろう。 このセボクトという人は、当時としては稀有な視野の広い学者であったと思うのは、私だけではないでしょう。その言葉は、現代にも通用しそうなものですね。
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