|
「所謂(イワユ)る其の家を斉(トトノ)うるは其の身を修むるに在りとは、人其の親愛する所に之(オイ)て辟(ヘキ)す。其の賤悪(センオ)する所に之(オイ)て辟(ヘキ)す。其の畏敬する所に之(オイ)て辟(ヘキ) す。其の哀矜(アイキョウ)する所に之(オイ)て辟(ヘキ)す。其の敖惰(ゴウダ)する所に之(オイ)て辟(ヘキ)す。故に好んで而も其の悪を知り、悪(ニク)んで而も其の美を知る者は、天下に鮮(スクナ)し。」 ここでは、「修身」の意味を説いているということです。人は、その親愛することろ、賤しみ悪むところ、畏れ敬うところ、哀れみ矜れむところ、傲りないがしろにする所の対象、そうした点において必ず偏愛や偏憎をおかす。 それを避けるためには、ある対象を好む場合も、同時にその悪い面も冷静に認識し、憎む場合も、同時にその美点をも冷静に認識すべきである。そのような人は天下に実に数少ないが、しかし単に情に溺れるのではなく、あくまで理性的にそれぞれの場合の「当然の則」を求めること、そこに修身の根本義が在るというのですね。 現実には、なかなか難しいことだとは思いますが。 さて、今回も、島田虔次著「大学・中庸」(朝日新聞社)の「大学 伝第八章」からです。
「故諺有之曰。人莫知其子之悪。莫知其苗之碩。」
イスラムの勃興の時代頃、やがてはアラビア人によって征服される地域には、キリスト教の学問の中心がありました。それは、前回お話しした中近東に散在していた修道院なのですが、そこで教えていた学者の中で、7世紀最も学識ある人物は、セウェルス・セボクト(Severus Sebokht)でした。 彼は、ユーフラテス川のほとりにあるケンネシュレ(Kenneshre)の修道院に住んでいて、哲学、数学、神学の研究で秀でていたそうです。当時、ケンネシュレの修道院は、西シリアでギリシアの学問の主要な地位を占めるようになっていました。 662年に年代付けられている彼の著作の断片では、彼はヒンドゥーの数詞に触れています。この頃には、ヒンドゥー(インド)の数字が伝わっていたことを示すものですが、一方で、彼はシリア人を見下すギリシア人学者たちの横柄さにひどく傷つけられたように思えます。 この後の議論が、私にとっては面白いのですが、次回に回すことにします。
|
I am (lying) down. I (lay)down yesterday. I've (lain) in bed all day. 前回の解答ですが、現役の受験生なら結構できるかもしれませんね。
lie(横たわる), lay, lain 年配の人でも、覚えた記憶があるでしょう。でも、これだけではありませんでしたね。 それでは、今回の問題です。
LIE and LAY offer slips to the pen これは、Christopher Morleyがこの用法について書いたリメリック(limerick)(五行の俗謡)です。まあ、英米の作家でも間違いかねないほどですから、私たち日本人が取り違えても仕方ないかも知れません。
|
|