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「小人閑居(カンキョ)して不善を為し、至らざる所無し。君子を見て而(シコウ)して后(ノチ)に厭然(エンゼン)として、其の不善を[手へんに合に廾](オオ)いて其の善を著(アラワ)す。人の己を視(ミ)ること、其の肺肝(ハイカン)を見るが如く然(シカ)れば、則ち何の益かあらん。此れを中に誠なれば外に形(アラ)わると謂う。故に君子は必ず其の独りを慎む。」 「小人閑居して不善を為す」というのは有名な言葉ですが、その意味するところは「いかに悪を為す人も、善を為すべきであり悪は捨て去らねばならないことを知っているのだが、実際に実践する力がないのでそのように悪を為すようになってしまっている」と言うことで、「独りを慎む」とは、「自己において道徳性を維持する」ことだということです。 今回は、島田虔次著「大学・中庸」(朝日新聞社)の「大学 伝第七章」からです。 「所謂修身在正其心者。身有所忿□。則不得其正。有所恐懼。則不得其正。有所好樂。則不得其正。有所憂患。則不得其正。」
前回、間違いと書きましたが、間違いとは言えないようですね。どちらでもいいということなのでしょうか。 問題となっているのは、self-deprecationです。
基本的には、deprecateは、「ある行為に対して強く反対の意見を言うことで、一般に後悔の気持ちが込められている」のであり、 この場合「自己軽視、卑下」は、self-depreciationが正しいと言いたかったのですが、多くの辞書で、self-deprecationの方が主に載っていますね。辞書によっては、self-depreciationは載っているけれどself-deprecationは載っていないものもありましたが(リーダーズ英和辞典)、ウーン、難しい。 かつては誤用とされていたものでも、現在では正しいとされることも、言葉の世界(日本語でも)ではよくあることですから、あまり気にすることではないかも知れません。
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プラフマグプタの後、北インドでは、学問の発展はあまりなかったように思えますが、南インドでは、マハーヴィーラが残した偉大な著作から、何らかの発展があったものと考えられています。 マハーヴィーラは、マハーヴィーラーカリヤ(Mahavirakarya)、学識あるマハーヴィーラと言われ、ガニタ・サーラ・サングラハ(Ganita-Sara-Sangraha)という著作を書いています。年代は 850年頃、ちょうどプラフマグプタとバスカラとの間にあたるだろうと推定されています。 その著作は、宗教的な性格の挨拶で始まります。ジナ(ジャイナ)教の始祖マハーヴィーラに向けられたものです。マハーヴィーラといいますと、ジャイナ教の創設者、ヴァルダマーナのことを思い起こす人もいるかと思いますが、当然ですが別人です。 全般に、彼はプラフマグプタの著作を知っていたようで、それを改良しようと努めたように思えます。彼の著作で特徴的なのは、零の規則に言及しているものです。 「(零をかけた数は=ある数に零をかけると)零であり、その[数]は、零で割られても、零を加えても、減じても変わらない。」 バスカラによって零で割るときに与えられた規則はここでは認められていず、零による除法は効果がないと見なされています。
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