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「政府はこれらの組織の犯罪性を正直信じていたにもかかわらず、それらの二つ、S.S.と一般職員は罪を免れた。」 ということで、(c)と(b)が正解と言うことになります。indurate=hardenは「無感覚になる」とか「無慈悲になる」とかの意味ですね。 さて問題です。今回からまた選択肢はありません。
MONOLITHIC 接頭語のmono-は、ギリシア語のμονοs(alone,only)から来ています。monopolyやmonk、monasteryもそうです。monk(修道士)はmonastery(修道院)で一人で(alone)暮らす人ということなんですね。修道院では集団生活をすることもあるようですが、基本的には神の前に一人で立つというような意味もあるのではないでしょうか。キルケゴールの単独者のような感じで。(これは私の推論ですが)
「子曰く、「訟(ショウ)を聴くは吾れ猶(ナ)お人のごとし。必ずや訟無からしめんか」と。情(マコト)無き者は、其の辞(コトバ)を尽くすを得ず。大いに民志を畏(オソレ)れしむ。此を本(モト)を知ると謂(イ)う。」 「子曰く」の引用は「論語顔淵編」にあるもので、「訴訟を聞いて裁判をおこなう、ということならば、自分は人並みにできる。しかし、自分としてはそれよりも、そもそも訴訟というものの無い、従って裁判というものの無いような世の中を実現したい」という意味ですね。 これを釈して、吾の明徳が輝き出すと、虚偽の訴訟をおこそうとするような人も、自然にその心志を畏服せしめられ、虚偽の供述を主張し通すことができない。結局、訴訟そのものも自然になくなってしまい、民は新たになるというのですね。これが「本(モト)を知る」ということになりましょうか。つまり、何が本で、何が末か、何が先で、何が後か、ということをわきまえていることですね。 さて、今回は、島田虔次著「大学・中庸」(朝日新聞社)の「大学 伝第五章」からです。 「(此謂知本)此謂知之至也」
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さて、時代は下って、今回からAD500年からAD1000年までの時期を見てみることにしましょう。この時期は西洋は学問の休眠時代で、インドとの関連で言いますと、西洋からインドというよりインドから西洋への影響が見られます。東洋は、学問的というより迷信的ではあったのですが、好奇心溢れる時代でありました。 この時期、中国にはインドへ赴き多くの教典をもたらした玄奘がいました。その教典の中には数学に関するものも含まれています。また、800年頃、バグダードが急速に数学世界の中心になりつつあったとき、ハルン・アル・ラシドの使節が中国を訪れてもいます。 6世紀は中国の数学の歴史において重要な時代です。甄鸞は、五経算術(Arithmetic in the five classics)を著したり九章算術の注釈を書いたりしています。また、張邱建算経を書いた張邱建(575年頃)、夏侯陽算経を書いた夏侯陽(575年頃)もいます。 7世紀になりますと王孝通がいます。(623-626年頃)彼は暦学の専門家で、三次方程式について書いた最初の中国人の一人でした。彼は緝古算経を著しています。 8世紀以降は、一行の大衍暦や開元算経(925年頃)などが書かれていますが、数学的な発展は見られず、暗黒時代は東洋にも広がっていたということができるでしょう。
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