[ガムランとその音楽][現代 - 西洋への遺産]  [目次]


ガムランとその音楽

 合奏形式の最も古典的な形式、バリのガムラン・アングクルング(gamelan angklung)は、太鼓(kendang)を除いて、調律されたチャイム楽器からなっている。湾曲したシロホン(gambang-金属製あるいは時に木製);様々な青銅のチェレスタ(gender;saron;demung);ゴング・チャイム(bonang);一対のケトル・ゴング(reyong);そして竹のラトル・チャイム(angklung)。これら楽器はすべて、固定のピッチを持っている。より大きなガムラン・ゴング(gamelan gong)として知られているジャワの合奏は、上のものに、更に、打楽器、すなわち、一つの音に調律されたゴングと調律されていないシンバルと、全く異なるグループに属するフレクシブルな旋律楽器--笛(suling)とスパイク・フィドル(rebab)--が加わる。そして、詩を歌うために、ソロの声やコーラス、あるいはその両方が必要に応じて加えられるだろう。
 ガムランの曲--それは、ヨギャ(jogya(Java))だけで、宮廷のレパートリーは、500曲以上ある--は、常に、むしろ等しい2分音符で動く、いわば中世ヨーロッパのカントゥス・フィルムスのような核となる広いテーマに基づいている。このテーマは、そのテキスチャーの動くパートの最も低い部分を形成して、チェレスタ(saron)で、また、時に、ゴング・チャイム(bonang)で演奏される。こうした旋律は、特別の全音のパターンで作り上げられた5音音階の様々な旋法の形式に基づいている。バリでは、更に厳格な4音音階がしばしば用いられる。それぞれのパターン(patet)は、特別のムードと関連しており、インドのラーガと幾分似ている。いくつかのパターンは魔力を持つと信じられ、その演奏には、香をたくというような、それにふさわしい準備が要求されている。そうした例として、影絵芝居の一つに、英雄に語りかけるゲンディング・キドゥング(gending Kidung)がある。これらの調べのいくつかは、最も古代の中国の儀礼音楽の旋律を思い起こさせ、いくつかきわめて精密な比較がなされている。与えられた核となる旋律の主な楽節は、小節ごとに、規則的であれ不規則的であれ、一種の終止符として用いられる大きなゴング(gong ageng)のドーンと響く深い音によって区切られる。一方、小さな分割は、小さなゴング(kenong,ketu)で区切られる。
 ガムランの曲の構成の第二の要素は、もとの旋律より高いピッチで演奏される様々なチャイム(gambang,gender,bonangを含む)による主要な旋律のパラフレーズである。これらチャイムは、主要なテーマに隠されていたり(例えば、ハーフタイムで1音を繰り返す)、テーマと一種のかくれんぼをしたりしている。(先行したり、遅れたりして)あるいは、また、テーマをめぐる装飾楽句で装飾的にテーマを変奏する。その方法は、伝統によって多少規定されているが、ある限界内で創造的な即興的演奏の余地が残されている。同時に演奏されると、同じ旋律のいくつかのヴァリエーションが、一種のハーモニックなテクスチャーを創造する。そのハーモニーは、別個に考えられた音楽の要素というより、むしろ偶発的なものである。
 そのテクスチャーは、アンサンブルの第三の最も高いピッチのパートを形作る楽器のグループによって、一層豊かにされる。これらは、テクスチャーで満たすのを助け、主要テーマの周りに一種独特の雰囲気を醸し出す。惑星をめぐる水銀の惑星の被膜のように、力強く闊歩する音の周りを巡りながら。
 これら3つの要素は、バリの合奏の曲においては普通のものであるが、ジャワのガムランは、それらに、更により自由で創造的なラインを付加する。実は、これは、笛やスパイク・フィドル(rebab)に託される多少独立した対旋律(counter-melody)であり、ジャワ(特に西ジャワ)の美学による特別な要求に応じて、中間音やピッチの微妙なバリエーションをもたらしている。大きな合奏においては、ツィターも重要な役割を演ずる。
 曲において、様々な要素を演じる楽器は、上の図式で考えられたものとは異なって分割されるかも知れない。なぜなら、この音楽は、非常に多様であり、それらは常同じ役割を果たすとは限らないからである。
 これまで述べてきた構成は、普通、二重の枠組みの中に入れられる。リズムの多様性は、半拍や1/4拍のような様々な中間拍での微妙に交差したアクセントの付け方によって生み出されている。この機能は、太鼓が重要な役割を果たす。それは、拍子の変化を示しており、さらに、そのリズムのイニシアティブを取ることで、すべての演奏者をまとめ上げる。バリでは、ガムランの先導する楽器は、事実上、たいていは太鼓である。シャムとカンボジアでは、シロホンである。一方、ジャワでは、スパイク・フィドル(rebab)であり、前奏曲を奏で、曲の基づいている旋律を告げる。このように、gendingそのものは、一種の序奏によって先行される。その序奏で、演奏者たちは、それを予期させる断片的な調べを奏で、その雰囲気の中へ手探りで入っていく。--インドのラーガ音楽を結果として思い起こさせる。
 ガムランの最大の音域は、大きなゴングの深いドーンという響きから、チェレスタの最も小さな鍵盤の最も高いちりんちりんと鳴る音まで、6ないし7オクターブに及ぶ。インドのソロ・ヴォーカルと室内音楽とはきわめて対照的に、また、中国のツィターやリュートの独奏楽器とは全く異なって、インドネシアの合奏の効果は、音楽においては、他のどんなものとも全く似ていない。飽和しているが半透明であり、活力に満ちているが繊細であり、それは、深い神秘性と壮大な祭典の陽気さとを兼ね備え、流水のように、常に変化しているが、常に同じである。

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現代

 インドネシアのガムラン音楽は、18世紀終わりあるいは19世紀初め頃に頂点に達したと思われるかも知れない。これが、どのようなものであれ、東南アジアは、それよりずっと以前にヨーロッパ音楽と最初に触れたことは確かである。16世紀のポルトガルの船乗りたちは、ポルトガル起源の小さな幅の狭い5弦のギターにちなんでそう呼ばれているクロンチョン(kronchong)として知られるよく知られた旋律を残している。
 17世紀までには、オランダの商人が、マレー半島全体を支配し、この世紀及び次の世紀まで、オランダの旋律や子供たちの遊びの歌がまだ歌われていた。これは、その地域の音楽の、ほんの小さな部分を形作っているに過ぎないのだけれど。
 18世紀中期には、すでに、その本来の宗教との関連を断つようになる傾向があった。土地の支配者たちは、それを奨励し、新しいより人気のある形式が現れるようになった。バリの宮廷劇のように、そのいくつかにおいて、西洋の影響が、事実、すでに認められるだろう。また、宮廷劇は、宮廷以外でも演じられるようになり、一層民衆的な形で模倣された。愛、政治、民衆のテーマは、現在でも、ビルマの滑稽劇の中に描かれている。
 ギター、マンドリン、ウクレレ、そしてヴァイオリンなどすべてが亜大陸に移入され、時には、固有の楽器と共同で演奏されることもある。ピアノは、イギリスの統治下のビルまで人気を博した。
 西洋文明の影響は、それまで東南アジアが経験したいかなるものとも本質的に異なるものであることは疑いない。中国やインド、またイスラムでさえ、その文化的影響は、容易に同化し得たように思えるが、西洋音楽とは、原則的に相容れないように思える。後に、それを認めなければならないようになっていく。多くの地域で、その土地の音楽が(西洋音楽に)取りかえられていくような傾向があるが、実質的には、その最もポピュラーな形態でだけである。いくつかの国では、固有の伝統が深刻な危機に陥ったところもある。シャムでは、ほとんどの作曲家が、このインパクトの影響を深く受け、ほとんど伝統的な作曲家は残らなかった。インドネシア共和国によって、現在国家として受け入れられている曲は、その急激な変化の刻印を著しく明確に帯びている。
 恐らく、自分たちの音楽が最後には失われてしまうのではないかという不安から、また、ある程度は、西洋によって影響を受け、東南アジアの音楽家たちは、しばらくの間、記譜の実験を試みている。シャムやビルマの音楽家たちは、必要に応じ、西洋の記譜法を適用しようとしている。ジャワでは、7つあるいは8つの異なる固有の体系が、この70年間の間に進化しており、そのほとんどは、大ガムランの曲の核となるテーマを決めることを目的としている。いくつかの体系では、パラフレーズされる楽器のパートが付け加えられ、中央ジャワや東ジャワの器楽楽器では、カパティティアン(Kapatitian)体系が、今日、もっぱら用いられている。これらの器楽パートは、それほど固定的ではないにしても、あまりに自由になりすぎたことへの反発は、生き生きとした伝統の中では好ましくないように思える。そして、そうしたパートを厳格に固定することは、美しいパラフレーズを創造する能力を破壊してしまうという可能性が同様にある。演奏において、奏者が書かれた記譜を用いるということは、いかなる場合でも一般的ではないのだけれど。
 実に、今日、インドネシアには、まだ数多くの合奏音楽がある。ほんの数年前に実施された調査によれば、ジャワとマドゥーラには、およそ17000の合奏団が存在することを示している。バリでは、その数は、恐らく、同じ位の割合で存在し、どの村にも自分たちの合奏団と舞踊団がある。その音楽は、今日でも、すべての人たちが参加でき、すべての人たちに理解され、すべての人たちに愛される、全く伝統的で共同体の芸術であり、社会のまさに構造の中に根ざした著しい要素であり、西洋におけるような、個人的な特徴は認められない。しかし、時の経過とともに、お米に関するものであれチャイムであれ、搗いたり叩いたりする音は、かなり少なくなってきている。

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西洋への遺産

 ヨーロッパに対する東南アジア音楽の影響は、わずかなものであるが、幸運な結果をもたらした。17-18世紀に、オランダのベル(鐘)鋳造師は、恐らく、新しく獲得された植民地で使用されていた金属製のチャイムについて、何らかの知識を得ていて、彼らの鍵盤の一組のベルをブロンズ製の平板と置き換えることで、グロッケンシュピール(glockenspiel)を作り出したのだろう。これは、ヘンデルの時代(1738年)まで、オーケストラですでに用いられていた。19世紀後半(1886年)には、恐らく、パリで見たジャワの金属の genderの共鳴する竹を見てインスピレーションを得、オーギュスト・ミュステル(Auguste Mustel)は、チェレスタを発明したのだろう。1511年に初めて言及されるシロホン(木琴)は、ロシア人やタタール人の間では、古くから知られていて、ヨーロッパでのその由来は、なにか明確な仕方では、東南アジアと結びつけることはできない。しかし、アフリカのバントゥー・ニグロのマリンバは、マレーのシロホンに直接関連付けられるだろう。
 東南アジア音楽の西洋の作曲家への影響に関して言えば、ガムランが1889年のパリの万国博覧会で演奏され、ドビュッシーは、それに深く印象づけられたと言われている。後に、インドネシアやその他の東南アジアの音楽がレコードに録音され、ヨーロッパやアメリカで聞かれるようになると、ヨーロッパの作曲家たちは、インドネシアを訪れるようになった。ベンジャミン・ブリテンのバレー曲「パゴダの王子(The Prince of the Pagodas)」の音楽は、チャイム楽器の演奏を多く取り入れ、明らかにこの影響の下にある。

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