[衰退期の音楽(BC4世紀--AD2世紀)][理論家と理論]

衰退期の音楽(BC4世紀-AD2世紀)

 5世紀後半にすでに、世間ずれした民衆のより劇場的な形態への進展とともに、詩人・音楽家たちの間には不安の兆しが見られた。詩人たちは、バランスのとれた詩を創造するというより、むしろ直接的な楽しみや快楽を与えようとした。例えば、バッカスの賛歌の作家、ミレトスのティモテオス(Timotheus)(BC446-357,BC400年頃活躍)は、半音階主義またより小さな(半音以下の音程の)音の分割を導入、声の表現の濃密な形式を創造し、その時代のより大きな、より精巧なキタラに疑いなく魅了され、器楽だけの音楽を多く採り入れただろう。フィロクセノス(Philoxenus)(BC430-380)が、すぐにそれに続いた。彼らの革新は、最初は非難されたが、急速に新しい流行を生み出した。しかし、彼らには後継者がほとんどなく、すぐにその創造力は引き潮になった。これを埋め合わせようと、演奏の質がこれまでになく強調された。4世紀から、音楽家たちは自らを作曲家としてよりもむしろ演奏者とみなし始めた。彼らは、よく知られたテーマの再編曲やパロディに真の職業を見いだすようになっていった。その結果、演奏の妙技の向上と熱狂的な喝采(称賛)とがさけられない状況になった。
 真の古典主義の落とし子、プラトン(BC429-347)は、彼の時代の偉大な批評家となった。ギリシアの学問学派の大きな二つの支流は、ともに人間に自由な教育を与えようと企図されたものであり、体育(gymnopedia)すなわち身体の文化と音楽(mousike)すなわち精神の文化とであった。後者は、歌、詩、楽器の演奏、踊り、そして雄弁術を含むものだが、明らかに衰退していた。異なるギリシア音階(harmoniai)の内的な性質、あるいは倫理的意義を考察しながら、プラトンは、これらが真の意味でその価値が評価されていた時代を振り返った。アリストテレス(BC384-322)とともに、彼は、気高いドーリア人、頑固なフリギア人、女々しいリディア人の時代を思い起こす。プラトンは、古典音楽は自然を真に模倣したものと信じていた。すなわち、フェノメナ(phenomena)ではなく、ヌメナ(noumena)自然の原理を模倣したものであると信じていた。そして、そこからそのモード(旋法)に応じて避けられないエトスを生み出すものと信じていた。彼は、若者の理想的な音楽教育を略述する上で、モデルとしてエジプトに言及している。
 エジプトの実際の音楽が、この時代には目に見える程度にギリシアで知られていたに違いない。歴史家ヘロドトス(BC484-425年頃)は、エジプトの神々、儀式、連祷(litany)がギリシアに伝えられたと私たちに語っている。イシス神とセラピス神との儀式は、その礼拝、賛歌、聖歌、送風楽器そしてシストルムとともに、完全にギリシア中に広まり、後には、ローマ帝国を通して、まさに西ヨーロッパにまで広まった。シストルムは、事実、遠くフランスでも発見されている。
 偉大な理論家、アリストクセノス(320年頃)の時代までには、ギリシア音楽の古典的な様式はほとんど記憶から薄れていた。しかし、新しい民衆の様式が前面に出てきていた。その中で、パントマイム(無言劇)が長く重要であり続け、そのパントマイムの役者たちは、パロディやコミック劇、バレー、アクロバットや露骨なジョークからなる一種のバラエティショーを提供した。その影響のもと、演劇は今や一層崩壊する傾向となり、BC2世紀の後半までには、ティモテオスやフィロクセノスといった人気ある古典でさえ、事実上忘れ去られた。
 残念なことに、BC400年頃のギリシア音楽の嗜好の変化は、ギリシア人が音楽を書き留めるのに適当な方法を見いだす以前のことで、音楽の記譜がやっと使用されるようになったとき、恐らく、4世紀から発作的にだと思われるが、その人気のある様式は保存する価値はほとんどないと考えられた。更に、伝統的な旋律(nomoi)を基に即興演奏する習慣は、何らかの静的に結晶させた形態で音楽を保存しようとすることを、いかなる場合も妨げることになるだろう。実際、ギリシア音楽の20にも満たない断片が、石やパピルスに刻まれたり書かれたりして伝わっているだけで、それも、ローマ人によるギリシアの征服がすでに進行中であった(BC200-30年頃)BC2世紀より古いものは一つもない。現存する曲の中で最も古いものは、まだ、言葉と音楽との緊密な関係を示しているように思える。より初期の詩人・音楽家は、互いの芸術の限られた部分しか理解していない詩人や音楽家によって受け継がれた。最初のデルフィの賛歌(First Delphic Hymn)が、BC2世紀後半のアポロンへの賛歌だが、デルフィの石に刻まれているのが発見された。第二のデルフィの賛歌の記譜は、アテネのリメニオス(Limenius)という人物の作品である。妻への「セイキロスの碑文(Epitaph of Seikilos)」の記譜は、トルコのアイディン(Aidin)の墓に由来するもので、BC2世紀かそれより後に年代付けられるだろう。すべての現存する例は、単一の旋律線でできている。
 しかし、一般に、音楽は単なる娯楽になってしまったように思える。そこから、音楽家は、社会的立場の多くを失った。音楽を教えることは、学校では非常に衰退し、上層階級のギリシア人やローマ人たちは、実際の音楽作りとあまりに関係し過ぎることは堕落していると考えた。この市民と専門家との間の断絶は、ヨーロッパ音楽が、今日でもまだ苦しんでいる分離を引き起こした。そして、それに伴う俗物根性が、私たちの音楽生活でもまだよく見られる特徴となっている。市民たちは演奏しないが音楽について「語ること」は、極めてファッショナブルなことであった。たとえ実践において無能であったとしても、理論を説明することができた。こうした曖昧で贅沢な概念の下、プラトンの時代には決して出会わなかったような音楽的エトスが発達した。理論、あるいは、むしろ理論化が音楽芸術の地位を奪ってしまったような例は、例えばヴァッロ(Varro)(BC116-28)の中に見られる。彼は、ムシカ(musica)という言葉を、もはや音楽の意味ではなく、ハルモニア(調和)の科学(Harmonic Science)すなわち音程の理論と楽器の調音の意味で使っている。

目次へ


理論家と理論

 伝承によれば、ギリシア音楽の理論の起源は、主にピタゴラスに帰せられている。彼は、エジプトの神官や恐らくメソポタミアの学問学派から音楽の原理をもたらし、共同体を形成し、道徳的向上を図る目的で創られた訓練の一部としてこれらの原理を教えたと信じられている。ピタゴラス学派の人々は、音階を宇宙の構造の要素と考えていた。更に、天空は一種の調和(ハーモニー)として描かれ--「天球のハーモニー(the harmony of the spheres)」--音の空間は、張られた一本の弦(モノコード)の助けを借りて、この調和が反映されるよう分割された。その実験を倦むことなく繰り返し、ピタゴラス学派の人々は、今日、西洋音楽で知られているすべての音程や更に多くの知識を残した。最も完全なデータは、エウクレイデス(ユークリッド)(BC300年頃)に帰せられている著作に書かれているし、また、プラトン(BC427-347年)の著作、特に「ティマイオス(Timaeus)」からは、多くの情報が得られるだろう。
 しかし、ギリシアの音楽家を訓練する上で、彼らの資質を判断するときに、精神の役割について気づいていないわけではなく、当然、思弁的な理論家たちの数学よりも自らの耳による判断により強調が置かれた。重要な最も実際的な理論家であるタレントゥムのアリストクセノス(BC322年頃活躍)は、音楽家の息子であり、自らBC4世紀の音楽と最も初期の古典の伝統の音楽で詩作をした。彼の音楽理論に関する分析的な著作は、他に類を見ない価値を有している。
 数多くあるギリシアの音楽理論に関する著作の中には、曖昧なものがたくさん、また、著者自身が十分に理解していなかったとは言わないまでも、多くの専門用語の矛盾した使用によって、かなり混乱したものがたくさんある。更に、ギリシア思想は、いかなる場合も、数学的な先入観が強く、その思弁そのものにぶら下がりがちであった。多くの音楽理論は、数の象徴主義や天文学、神秘主義、形而上学と結びつき、後には、特にAD2世紀からは、実際の音楽とはほとんど結びつかない方向で発達した。特に、音楽が古典ギリシア時代に知られていたように。これは、これら思弁から何ら興味ある発見が生まれて来なかったということではなく、その発見は、主として他の分野においてであったということである。
 何人かの後の著述家の著作は、彼らが提供できるある情報のために重要である。その中に、プルタルコス(Pultarch)(AD50-120);ニコマコス(Nichomachus)(AD2世紀);アレクサンドリアのクラウデオス・プトレマイオス(Claudius Ptolemy);プロティヌス(Plotinus)(AD204/5-70);ポリュフュリオス(Porphyry)(3世紀)とイアンブリコス(ヤンブリコス)(Iamblichus)(d.363)が含まれる。しかし、上で概説した困難さは、ギリシアの音楽理論の研究をすべての研究の中で最も手強く満足いかないものの一つにしている原因の一つにすぎない。
 本質的なデータ資料は、手短に語ることができる。ギリシア人たちは、オクターブの音程を知っていた。それは、ディアパソン(diapason)(文字通りの意味は「すべてを通して」)と呼ばれた。しかし、彼らの音空間(tonal space)の単位は、完全4度の音程(4:3の比率)であった。それは、人間の声で自然に上げられる音程であることがわかる。これは、テトラコード(テトラコルドン、文字通りの意味は、4弦)と呼ばれ、リラの4弦に採用された。両端の二つの音は、固定され(ヒストーテ)その間の2音は動くことができる(キノーメノイ)と考えられた。動ける音は、これらのゲノスの中で微妙なヴァリエーションがあるだけでなく、三つの異なるゲノスに応じて、様々な位置を占めることができた。テトラコードの4つの音は、最も高い音から最も低い音の方へ数えられ、西洋音楽でごく普通に見られる最も低い音から最も高い音へではない。
 4つの音は、必然的に3つの音程を定める。全音階(ダイアトニック)のゲノス、三つのゲノスの中で最も一般的なものだが、3つの音程は(上から)全音、全音、レイムマ(leimma)であった。レイムマは、文字通りの意味は「残り」で、4度の音程から2つの等しい全音を切り取った後に残ったものを意味した。実際は、西洋の半音よりも小さな音程である。半音(クロマティック)のゲノスでは、音程は、短3度、半音、半音であった。エンハーモニック(半音以下の音程)のゲノスは、ギリシアの声の音楽で多く用いられたもので、二全音(ditone=長3度)(2つの全音の音程)、1/4音、1/4音、あるいは、恐らくもともとは、二全音、レイムマ--すなわち、第5章で言及した日本の陽音階の5音音階のそれぞれのテトラコードのように、2つの音程だけ--であっただろう。
 二全音は、ギリシアの旋律を後のヨーロッパの旋律と区別する主な特徴の一つである。この音程は、西洋の長3度より少し大きく、私たちの耳にはより鋭く聞こえる。西洋の長3度は、全く異なった音の分割に基づいており、ディドュモス(BC63年)の時代に実験的に用いられたかもしれない。プトレマイオス(AD2世紀)が、その最初の演奏者と一般にはみなされているけれども。1/4音は、ギリシアでは、少なくともBC4世紀には知られており、ギリシア人の耳は、私たちの耳より鋭敏であったかもしれないことを示唆している。このことは、今日の東洋の多くの人々のように、和声(ハーモニー)がなく、(ヘテロフォニーで)音楽表現の多くの部分を、旋律を一層繊細なものにするという可能性に頼っている人々においては、それほど驚くべきことではないだろう。微妙な声の抑揚は、ギリシアの旋律では重要な役割を果たし、ゲノスの動く音は、固定した点というよりむしろ重心のようなものとみなされた。
 ギリシアのテトラコードは、音程の順によって、更に三つに分類された。すなわち、全音階のゲノスでは、(下降の音程の)順が、全音、全音、レイムマ(ドリア旋法);全音、レイムマ、全音(フリギア旋法);あるいは、レイムマ、全音、全音(リディア旋法)かによって、3つの主旋法が形成された。それぞれの主旋法には、副旋法があった。主旋法の上に置かれたものは、ヒュペル-旋法と呼ばれ、下に置かれたものは、ヒュポ-旋法と呼ばれた。
 これが、当時、ギリシア人が音階を創り上げる上での素材であった。二つのテトラコードに全音を加えて分離型の、あるいは、その下降の音列を全音で結んだ結合型のいずれかで、二つのテトラコードをつなぐと、その結果、完全なオクターブの音階(ハルモニア)ができあがる。オクターブ音階は、7つの異なる音だけでできていて--8番目の音は、最初の音を繰り返す--もし、それぞれの音を順に出発点に取ると、7つの異なった旋法の音階が一つのゲノスについて可能である。ピアノの鍵盤をほとんど等価のものとみなすと、全音のゲノスの7つのハルモニアは次の通りである。(下降):a から A(ヒュポドリア旋法、後にアイオリス旋法);e から E(ドリア旋法);d から D(フリギア旋法);c から C(リディア旋法);b から B(ミクソリディア旋法、後のヒュペルドリア旋法)ハルモニアの名称は、これらの旋法が用いられていたと言われる小アジアの異なる地域の名から取られた。しかし、その分類は様々で、名称も時代によって変えられた。その連想は、時に、貧弱な(当てにならない)つながりに基づいていることもあった。最も重要な音はメーセと呼ばれ、それはギリシアの音階体系の中心であった。
 3つのゲノス、全音音階、半音音階、半音以下の音程の音階のすべての音を、一つのオクターブに詰め込もうとして、ギリシア人はあらゆる可能性を考え、21音の理論的な音階を持っていた。また、7つのオクターブ音階とテトラコードのグループを互いに関係付けるため、ギリシア人は理論的な連続した2オクターブ音階も持っていた。しかし、リラには限られた数の弦しか張れないので、どれかの音階がその音域内--上述したドリア・ハルモニアの音域内--にくるように移調されなければならなかった。移調されたそうした音階はトノス(複数形、トノイ)と呼ばれた。
 オクターブ音階の音のつながりは、時折、旋法として言及されることもある。私たちの目的のためには、これで十分に役立つ。しかし、旋法を意味するギリシア語(トロポス、複数形トロポイ)は、そうした音階は単なる骨子にすぎない大きな全体を表す。それは、特別なエトスを持つ旋律の様式やイディオムを内包する。それは、私たちがインドのラーガやその他のところで見てきた旋律の定型により近いというのが最も可能性があるだろう。
 ヨーロッパへの主なギリシアの遺産は、ギリシアの書かれた理論であった。これは、中世の教会旋法に重要な関係がある。後期ラテンの著述家ボエティウス(480年頃から 524年頃)とカッシオドルス(477年頃から570年頃)を通して断片で伝えられた。第10章で見るように、9世紀のアラビアの著述家によって、続いてスペインのアラビア人の支配によって幾分豊富に伝えられた。しかし、この伝播が始まるずっと前に、ギリシアの音楽芸術は過去のものとなっていた。

目次へ


 
mailto:VEM13077@nifty.ne.jp

[ホームページへ] [数学史] [小説]