[明王朝(1368-1644)][清王朝(1644-1911)][共和制の中国(1912年以降)]

明王朝

 時の経過とともに、中国人(漢民族)はモンゴル人を駆逐し、自らの新しい王朝、明(1368-1644)を建てた。音楽の理論、実際は、歴史を網羅する極めて貴重な19巻のHand book of Musicであるが、を残した偉大な学者である皇子、(朱)載土へんに育(Tsai-Yu)によって、1596年、平均律の体系(新法密率(律))が首尾よく完成された。彼の平均律の公式は、ヨーロッパでヴェルクマイスター(Werkmeister)によって、同じ公式が完成されるより、まる一世紀も前に現れた。しかし、それは、中国では、その後ほとんど注目を引かなかったように思える。
 明朝の時代から多くの版のツィター(琴、瑟)の曲が残っている。明朝の始まりまでに、最も有名な七弦の琴の曲の多くはすでに存在していた。そのほとんどは、今日、後の(清代の)版で演奏されており、音価はいくつか変えられている。これらは、とても魅惑的な曲で、すでに述べたように、同じく絵画のような標題音楽的な意味を持っている。それらは、二つの主要な型でできている。小曲(hsiao-chu)の構成は、音楽劇のところで議論した chuの旋律の構成に従い、言葉は、普通、曲が演奏されながら演奏者によって歌われる。大曲(ta-chu)は、純粋に器楽曲である。これらの曲は20−30分続くもので、旋律は高度に秩序づけられ、構成はロンド形式と共通のものを持っている。演奏者は、旋律の様々な音の上にとどまりながら、様々な調子の中心となる感覚を創りだしている。その結果、西洋人の耳には、この音楽には単一の調(monotony)がないように聞こえる。現実には、ある調から別の調に転調することは稀で、時折、特別の効果を出すために用いられる。これは、五音音階にない音を導入することで成し遂げられ、異なるが関連する音高の五音音階が、一時的に支配する。五音音階の急激な音階の移動は、西洋のアルペジオにかなり似たハーモニーの効果を出すことができる。様々な音質の楽器が、絶えず演奏される。音をスライドするのが特徴的で、ハーモニクスが多く用いられている。特に(短い曲では)コーダの部分に。また、クライマックスでは、音楽が飛翔するのを助けている。
 王朝の後半、16世紀中頃には、劇は魏良輔(Wei Liang-fu)によって創出された新しい様式の歌い方で豊かにされた。彼の、崑曲、すなわち崑山出身の人々の歌は、今日でも南京や北京のプロ奏者によって演奏されている。南派(sothern school)の曲を改訂し、魏良輔(Wei Liang-fu)は、ほとんど南の様式で、三十幕以上ある数時間続く音楽劇を導入し、それまでの音楽劇に取って代わった。作品の長さは、歌う役の数によって決められた。それは6にもなることがあった。連続する幕は、物語の朗読(散文の朗誦)と歌(韻文の詩)とが交互に交代するように計画された。琵琶記(P'i-p'a Ch'i)(琵琶演奏の歴史)は、1530年頃に作曲されたか再作曲されたもので、今日でも魏良輔(Wei Liang-fu)自身に帰せられている音楽のあるとても有名な劇であるが、それには、対話(ダイアログ)の部分と交互に100以上のアリアがある。演奏では、がさつな声の発声法が特徴的であり、女性のパートを歌う男性によって歌われるファルセット様式は、王朝の終わりから男性が分離して一座が生じたことに始まるが、古典様式の標準的な特徴となった。男と女の役者は、実は、帝国(王朝)時代の終わり(1911年)まで、中国ではずっと分けられていた。
 明朝で歌われた旋律は、古代から中国の歌ではずっとそうであったように、必ずしも音節的なものではなく、時折、メリスマ的になったりして、恐らく、より民衆の起源であっただろう。拍子は、2−4あるいは4−4で、それぞれ第一拍に強いアクセントが置かれた。崑山様式の主な楽器は、クロスフルート(cross-flute)(ti)、それは一種のリトルネッロで、スタンツァの間を演奏し続けるが、一方、声は次のスタンツァに入ると再び旋律を歌う。フルートは、ギター(san-hsien=三弦)や短いリュート(p'i-p'a=琵琶)で伴奏されることもあっただろう。他に、フルートやマウス・オルガン(笙)、オーボエ型のリード管が時折加えられた。打楽器は、常に重要な役割を演じている。アンサンブルは、輪型の太鼓(hoop-drum)(pan-ku)によって導かれた。また、銅鑼、シンバル、打棒(拍子木?)などもある。場面の変わり目や幕の初めと終わりは、打楽器だけによるエネルギッシュな間奏曲によって示される。これらは、伝統的には、一つのセクションあるいはスタンツァを他のものと区別するために使われる。

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清王朝(1644-1911)

 劇の発展を別にすれば、明王朝は、それほど創造的な時代ではなかった。事実、宮廷と寺院の儀礼音楽は衰退してしまい、様々な皇帝によって何か古代の輝きを取り戻そうとする試みがいくつかなされたにもかかわらず、中国は文化のサイクルを完成してしまい、音楽生活は、帝国の終わりまで衰退し続けたように思える。古典劇でさえ、19世紀までには引き潮になっていた。この世紀には、より民衆的な運動が活発に起こった。ある程度、北の古典の伝統に近づきながら、京劇(ching-hsi)(「首都の劇」すなわち満州の首都、北京)と呼ばれる多数の音楽劇を創造した。これらは、今日、中国で最も普通に見いだされる共和制以前の音楽劇である。その tz'u韻文形式は、対称的な旋律によって置き換えられ、中国古典音楽の 2-4,4-4周期(拍子)に加えて、3/4拍子の音楽を発見する。疑いなく、民謡起源である。伴奏楽器は、1弦のフィドル(fiddle)であり、たいていは、ある種の hu-ch'inである。
 しかし、これよりずっと以前から、ヨーロッパの人々が中国を訪れ始めていた。先の王朝の後半でさえ、マテオーリッチによってクラヴィコードの作品が中国に現れていた。清王朝の間、様々な人々が帝国の宮廷を訪問した。その中にペレイラ(Pereira)とペドリーニ(Pedrini)がいるが、ペドリーニは中国人のために楽器を作った。ヨセフ・アミオ神父(Pere Joseph Amiot)は、1780年、中国音楽で作品を書いた最初のヨーロッパ人となった。西洋音楽が中国でも聴かれるようになった。中国人によって評価されるようになるには、長い時間がかかったけれども。
 この王朝の期間に、少なくともヨーロッパ音楽には、中国音楽の何らかの影響があったように思える。18世紀、中国の笙がサンクト・ペテルスブルクにもたらされ、そのフリー・リードは、ドイツのオルガン制作者によって、広くヨーロッパに紹介された。19世紀の初めには、新しい仲間の西洋の楽器ができるが、フリー・リードの原理に基づくものであった。そのうちのマウス・オルガンとアコーディオンは、今日でも使用されている。後に、その原理は鍵盤に応用され、ハルモニウム(1840年)(リードオルガン=訳注)は、その原理によっている。ヨーロッパでロマン主義音楽が興隆したときのシノワズリー(chinoiserie=17・18世紀、欧州で流行した中国趣味)は、作曲家たちに開かれていた異国趣味の結果の一つであった。また、私たちは、ウェーバーの時代から、作品の中に中国の「ローカル色」を見いだす。彼の序曲「ツランドッド(Turandot)(1809年)は、実際の中国の五音音階の旋律を用いている。
 しかし、西洋の中国音楽の影響の範囲は、東洋での影響と比較すれば何もないに等しい。極東全体への刺激とその遺産は卓絶したものであり、これについては、次に続く三つの章の中で、しばしば言及する機会があるだろう。

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共和制の中国(1912年以降)

 1911年に、中国を支配し、数千年にわたって宮廷の音楽を育んできた帝国の王宮が終わりを告げた。その伝統音楽は、当時、はるかに衰退していたし、今では消滅の危機にある。宮廷音楽は存在しなくなった。あるとすれば、儒教の儀礼音楽だけが、孔子の故郷である 曲阜(Chenchu)の礼廟に存在するだけである。道教の音楽に関しては、私たちにはほとんど情報はない。仏教の儀式は、あちこちでまだ出会うことができるけれども。民衆歌謡の真剣な研究はほとんど始まってもいない。古典劇は、まだ時折見られるけれども、今日ではアマチュアの間での方が盛んである。19世紀の演劇がはるかによく見られる。街頭や音楽ホールでの吟遊詩人(大道芸人)の芸は、疑わしい非常にわずかの料金でまかなわれている。古典の形式で器楽音楽を見いだすことはまれである。哲学者たちのツィター(ch'in)の演奏家は、実際まれであり、ツィターの他の形式のいくつかもまれになりつつある。短いリュート(琵琶=p'i-p'a)は、今日でも聞くことができる。
 また、今残っているような伝統音楽は、西洋の影響にますますさらされる傾向にある。帝国(王朝期)の中国では、西洋音楽はまだほとんど評価されなかった。しかし、今の世代の多くの人々は、ヨーロッパで教育を受け、中国で教えるために帰国している。ヨーロッパの教師がそれに続いた。西洋のアーティストたちは、主要都市を演奏旅行した。中国には、今日、西洋の系譜のシンフォニー・オーケストラがたくさんある。中国人たちはついに、自らの音楽の代わりに西洋の音楽を受け入れるようになった。このことは、疑いなく、伝統の形式の衰退を速めている。さらに、ポピュラー音楽の面では、西洋音楽が中国音楽と入り混じって、ハイブリッド(雑種)な形を生み出した。特に、映画音楽において。
 満州を日本が占領したことは、さまざまな新しい音楽形式を吹き込んだ。煉瓦積みや道路建設、その他の労働のために歌が作曲され、愛国的な学生たちは、中国で最初のユニゾンの歌を作りだした。合唱音楽というのは、実は、中国の世俗音楽では、まったく新しいものであった。が、急速に好まれるようになり、後には、音楽劇にその道を見いだす。新しい音楽劇は、また、男性と女性の歌手を両方含み、さまざまなスタイルの声を生み出し、西洋のスタイルを含んでいることもまれではない。西洋の楽器が、特に弦楽器が、伴奏に加えられたり、西洋の和声が五音音階の曲に応用されたりしているが、全くうまくいかなかったわけではない。
 しかし、軽い形式の中国の音楽だけで結びついたわけではない。自国のより高い文化に責任を感じている人々からも、西洋音楽は様々な反応を呼び起こした。それは、彼らを刺激して、いくつか残っている古典音楽を録音したり、古代の写本を探し求めて書き写したりさせるようになった。真剣な作曲家たちの間では、自国の楽器を使うことに未来を見ようとする人もあれば、国立の音楽学校で国際的な楽器を使うことに未来を見ようとする人もいた。西洋の系譜に沿って音楽を書く中国の作曲家たちは、まだ国際的にはほとんどあるいは全く注目されなかった。伝統的な理論に真面目に取り組む者たちは、その要求(周期的な体系の要求)を、西洋の全く異なる(和声的な)体系と調和させなければならないという問題と直面しなければならない。しかし、中国の音楽家たちは、古代の伝統と高度な特色ある音楽言語の様式を持っており、結局、現代の世界に貢献すべきものを持つことになるだろう。中国の歴史を通して、彼らの吸収力は常にずっと大きかった。今、彼らのところで及ぼしている影響は、これまで彼らに及ぼしてきたどの影響とも種類が違っているようには思えるが。

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