[中世前期(BC3世紀-AD7世紀)][中世後期(AD7世紀-13世紀)]
[モンゴルの影響(13-14世紀)]

中世前期(BC3世紀-AD7世紀)

 秦の民の短い王朝(BC221-206)が、周王朝の後を継いだが、秦の始皇帝は、すべての書物、音楽、楽器を破壊することを命じた。しかし、いくつかの資料がその難を逃れ、漢王朝(BC206-AD220)は、復興の時代であった。
 この時代から、また様々な王朝(漢、呉、晋、六朝、隋)の時代の間に、いくつか新しく重要な前進があった。帝国の音楽の役所(Yueh-fu=楽府)が、音律(ピッチ)を標準化し、音楽を指導監督し、音楽の文献を収集するために、武帝の下に創設された。中国人は、ずっと以前から、音楽の音高と管の長さや容量と関係があることを認めていた。それで、この組織は、度量衡の役所に付属して作られた。音楽は、また、帝国の宮廷でも花開いた。そして、漢の時代、そこで維持されていた楽団は、四つの部署に分かれ、800人以上の音楽家を採用していた。
 紀元1世紀、インドの仏僧が中国に到達した。仏教は、中国で、紀元200年から600年の間、盛んな勢力となった。これらの仏僧が、彼らとともに歌(声明)をもたらした。今日見られるように、仏教の儀式は、一人の先詠者と見習い僧でなされ、言葉が応唱されたり朗詠されたりし、時折、楽器による中断がある。その歌は、狭い音域の音に焦点が集まる傾向にあり、特徴的なトリルを含む。歌が進むにつれて、速度は速まり、幾重にも重なり、楽器の中断がより頻繁に起こる。伴奏は、全く打楽器(大きな太鼓、大きな鐘、銅鑼(ゴング)、シンバル、トライアングル、小さな鐘、そして木魚)で成り立っている。先の章で見たように、インドの旋律は、その装飾的な特色(ガマカ=gamakas)によって特徴づけられる。これらの初期の仏僧たちは、それを中国のツィター(琴=ch'in)に取り入れ、それまでより静的で抑制された音楽しかなかったところに、導入した。ツィターの音楽は、現代になって、描写的で印象的な仕方で、ずっと演奏されている。--グリッサンド、ポルタメント、スタッカート、開放弦、弦を押さえる音、ハーモニクス、そして26種類ものヴィヴラートが、そこから(派生している。)
 ch'in(琴)という言葉は、文字通りには「禁止する」の意味である。すなわち、悪の情念をチェックし、心を正し、身体の活動を促すことである。それは、瞑想する上で、とりわけ哲学者の道具となった。なぜなら、それは、宇宙の大きさと構造の委細までも支配する宇宙の知の全体系を具体化したものだから。さらに、それを演奏することを学ぶということは、幅広い訓練を積むことであり、それに相応しい儀礼の準備をしなければ決して近づけられるものではないだろう。五弦あるいは七弦が、五音音階によって、すなわち五度の順に調弦される一方で、同じこれらの弦が、全く異なった原理でも留められている。指板(fingerboard)に沿って、多くのスタッドがどの弦からも5度の周期ではなく、上昇及び下降の調和級数(harmonic series)に基づく一連の音が得られるよう配列されている。歴史的に言えば、私たちに、その二つの体系、周期的な(cyclic)体系と和声的な(harmonic)体系の二つの体系は、異なる文明を連想させる。周期的体系は、中国の、ピタゴラスの、そして一般に巨石文化を。和声的体系は、メソポタミアの、インドの、そしてヨーロッパの文化を連想する。それ故に、これらが一つの楽器で結びつけられているのを見いだすのは面白い。これは、インド仏教の影響による結果であったということもできる。いくつかの琴(ch'in)の音楽は、伝統的に、遥か遠い古代に帰せられている。(例えば、孔子の時代)初期の楽譜は全く残っていないので、そのことを実証することは難しいけれども。しかし、BC2世紀には、明らかに琴(ch'in)には、何らかの記譜法が存在していた。
 この時期、中国語の音調(現代中国語では声調(四声)にあたる=訳注)が、沈約(441-513)によって初めて分類された。中国語は、結局は、限られた数の単音節に属し、その抑揚によって、単音節の単語はいくつかの異なった意味を持つ。主なネウマ(単音節の発音の音高の向き(平仄))は、平声(level),上声(rise),去声(fall),と入声(enter)であり、この音調のアクセントの高低が歌の旋律の技法の発達を促してきた。
 同じ頃(AD485)に、舞踏が儒教の儀礼の公式の一部分になった。残存する儒教の6つのスタンツァ(連)の讃歌では、私たちは、踊り手が、左手には横笛あるいは棒、右手にはキジの羽を持って、三人で演じられたことを知っている。それぞれのスタンヅァでは、彼らは32のポジションをとった。これらのポジションは、漢字の書の象徴が本当にその言葉のネウマであるという意味で、その詩の書に基づいていた。そして、この故に、それら自身の仕方で、その言葉固有の旋律形を繰り返した。これより高度な総合芸術を想像することは難しい。そこでは、言葉と音楽と舞踏が、極めて緊密に結びついている。古代の「礼記」に書いてあるように、「詩は思想を表現する。歌は音を長くする。舞踏は態度を活気づける。」言葉と音楽と動きは、また、中国の人形劇でも結びつけられた。これらは、初期の儀礼儀式を模倣したが、世俗の音楽であり、中国の音楽劇の発展の初期の段階を代表するものである。
 そうこうしている間に、中国の音楽資源は、4世紀から外国の影響によって、かなり豊かになった。384年、トルキスタンのクチャ王国の崩壊に続いて、中国はペルシアのハープ、シンバル、そしていくつかの新しい型の太鼓を輸入した。宮廷では、外国の国の音楽に特別な好みを示し、581年までに、「七つの楽団」を歓待していた。クチャ、ボハラ(Bokhara)、サマルカンド、カシュガルその他の土地から楽団が来た。実際、宮廷では、外国の様式で演奏する楽団を常時維持するようになり始めた。6世紀から9世紀終わりまでの間、宮廷の人々の間で、最も好まれた音楽は、普通「辺境」のものであった。これは、中国の音楽にとって、ある程度の刺激を与えたが、私たちが次の章で見るように、日本の音楽にとっては、さらに一層刺激を与えた。

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中世後期(AD7世紀-13世紀)

 唐王朝と共に、中国は平和な時代に入り、芸術が栄えた。五つの王朝(五代)(907-60)時代の幾分混乱した時代の後の宋(960-1279)の偉大な文化の時代、芸術は最も洗練されたものとなった。この時代全体は、実に、中国音楽の黄金時代の一つと言ってもよかった。
 これらの時代、儒教の儀礼音楽は、後の時代の版本にだけ残っている。それらは、中世ヨーロッパのカントゥス・フィルムス(canti firmi)に非常によく似ている。いわば、同じ全音符(セミブレヴィス)で、普通、八つのまとまりで進行していく。そのような題材の扱いは、当然、特別な社や祠のリソースに応じて様々に変化した。これらのリソースは、時折、極めて手の込んだ程度にまで発展した。というのは、声に加えて、私たちは、120のツィター(琴 =ch'n)、120の瑟(se)、200の笙(mouth-organ,sheng)そして、20のオーボエと太鼓や鐘、編鐘などのことを読んで知っているから。
 有名な中国の音楽学者、16世紀の Tsai Yu([朱]載土へんに育)皇子はやその他の資料から判断して、私たちは、この音楽がどのような響きをしていたか、ある考えを導き出すことができる。合唱は、全音符(セミブレヴィス)すなわち保持する音でできており、各音節が一つの音で歌われる旋律に合わせて、讃歌を歌っていた。ユニゾンで声と共に、送風楽器や編鐘が演奏され、笙が、恐らく、吸い込む二分音符と吹き出す二分音符で演奏していただろう。それぞれの全音符に、二つの型のツィター(琴と瑟)が十六の16分音符を演奏し、こうして持続音(tsao-man=?)を定めるのに役立っていた。この厳密に定量化された音楽は、リズム的に丹念に仕上げられたヒンドゥー音楽と極めて対照的である。笙、そしてそれほどでないにしても、ツィターは、二声部のハーモニーを奏で、その音程は、最も初期の中世ヨーロッパのオルガヌムに似ていないわけではない様式の、4度と5度とオクターヴに常に限られていた。儀礼の讃歌の詩の間や前には、(時に行間に)他の楽器が言葉を区切ったり音を伝えるために加えられた。それには、石の編鐘、大きな鐘、大太鼓そして「虎の箱=?(tiger box)」が含まれる。声が長い音を保持し、これらすべての楽器が鳴り響くと、音質は、私たちの全く知らない絶妙なものになったに違いない。中国人にとって、儀礼音楽というのは、本質的に、音色のあるいは音質の相互作用による音楽であった。そのことは、なぜ中国の音楽にはハーモニーが全くなく、極めて単純なものであるのかを説明する上で役立つ。その響きは、それにハーモニーが加わると、曖昧なものになってしまう。更なるハーモニーは、すでに豊かに存在する内部のハーモニー--すなわち倍音--と比べると粗雑に思えるだろう。中国の古典の讃歌の全体的な効果は、象徴主義によって綿密に規定された要素に応じて組み立てられ奏でられるすべての楽器を伴い、それに相応しい環境の中で演奏されると、深遠な印象を与えるようなものであったに違いない。疑いなく、この上ない繊細さに、非常な清澄さが結びつけられていた。その清澄さは、全体として、中国音楽の著しい特徴の一つである。それは、実に、儒教の処世訓の音調の表現であった。「高貴な心の人の音楽は、穏やかで優美で一定のムードを保ち、心を鼓舞する。そうした人は、苦痛を隠さず、心の中で悲しまない。激しく大胆な動きは、彼らには適さない。」
 詩経(Book of Songs)の旋律は、後の時代の写本を通して私たちに伝わっているけれども、唐王朝時代から残っている写本が一つだけあって、千崖仏(Thousannd Buddha Caves)で発見された。それは、明らかになっている最も初期の中国音楽の写本である。それには「拡張された旋律(ta-ch'u'=?)」に基づく八つの連続する動きの儀礼の合奏組曲のように見えるもの--その構成はロンドに似ていなくもないもので、唐の時代以降の音楽に見いだされる--を含んでいる。
 この時代、中国の帝国は、大いに繁栄し、あらゆる種類の外国の影響にさらされていた。宮廷の音楽は、更に「蛮族」の音楽(胡楽)によって豊かにされ、今やインド、ボハラ、東トルキスタン、モンゴル、チベット、カンボジア、ビルマそして安南(ベトナム)の楽団も含んでいた。玄宗(Hsuan-tsung)(713-56)帝の時代には、室外の1300人を超える楽団の他に、室内の6つの立った楽団(立部)と8つの座した楽団(座部)があった。(立部八曲、座部六曲と書いてある書がある=訳注)「梨園」として知られる300人の俳優の一座が、714年、玄宗帝によって創設され、今日でも中国の劇に見いだされるいくつかの旋律は、彼によるものとされている。音楽劇「小さな羊飼い(The little Shepherd)」は、五音音階の 2/4拍子の一種のドラマ化された民謡である。
 唐の詩人は、歌われる詩を書くだけでなく、漢の時代初めて中国に伝えられた中央アジア起源の楽器、短いリュート(p'i-p'a=琵琶)を採用した。彼らは、中国が、室内楽で長く好んできた一種の標題音楽の曲を作曲した。そうした曲は、今日でも人気があり、Hsiang Yuの最後の戦い(The Last Battle of Hsiang Yu)は、現代でも演奏されているが、戦いの様々な場面を描写するために、スライドや弦をクロスさせて出す奇妙な衝撃音を使っている。その多くの様々な技法は、ツィター(ch'in=琴)に由来していると言われている。実際、その短いリュートは、人気の面でツィターと争った唯一の楽器である。今では、ずっと普通に見られる。それは、七音音階を採用し、資料には繰り返し演奏されるコードと伴奏のバス・パートがある。(多少、ground-toneのために役立つ。)
 短いリュートのための記譜は、宋王朝(960-1276)から残っている。道教の詩人・音楽家である陳暘?(Chiang Kuei)によって書かれた。彼は、また、Nine songs for(the people of)Yuehを残した。その中で、彼は七音音階と--中国音楽には新しいが--九音音階の両方を採用した。九音音階では、いくつか微分音程が生じる。これは、印刷された音楽が残っている最も古いものである。それは、書写者(編者)で儒教哲学者の Chu Hsi(朱喜にれんが)が、唐の資料に帰している詩経(Book of Songs)の12の詩のいくつかの旋律を含んでいる。
 宋の時代に、民謡が劇に向かういくつかの動きがあった。人形劇をまねて、歌と踊りからなる「肉体の人形」による娯楽が街中に現れ始めた。後に、そう呼ばれることになった南曲(Nan-ch'u)(The songs of the South)は、この時代の饗宴音楽の言葉に由来するが、旋律は、それ自身の厳密な五音音階で与えた。ch'in yueh=?では、声を主に支えるのに cross flute(ti=?)を採用した。北曲(Pei-ch'u)(The Songs of the North)は、饗宴音楽の言葉と音楽(七音音階)の両方に由来し、北方の外国音楽の影響にさらされていた。声は、主として、短いリュートによって支えられた。歌の両方の型の歌詞(叙情詩)は、特別な韻形式(tzu'=?)であり、その行は、長さが不規則で、音節は先に述べた4つのネウマを用いた秩序立てられた音の型で互いにうまくいっていた。その形式は、様々なタイプの旋律の構成を生み出し、それが新しい詩の雛形として役立つことができただろう。これらの要素から、中国の真のオペラ、音楽劇がやがて発展することになった。

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モンゴルの影響(13-14世紀)

 13世紀の初め、中国は、チンギス・ハーンの下のモンゴルの攻撃を受けた。完全に征服されるのは、その孫のフビライ・ハーンの時代であったが。中国は、生活の面では元王朝(1283-1368)に大きな代価を支払ったが、受けた恩恵の中に、モンゴルの皇帝によってなされた音楽の奨励というのがあった。さらに、彼らは、新しい楽器と新しい音階を採り入れた。
 演劇でも、急激に成長した。そのアンサンブルは、元曲(Yuan ch'u)(元朝の音楽)として知られるようになった。幾分現代でも基本的なものである、この時代の北と南の様式で書かれた最初の完全な音楽劇、すなわち歌劇が現れた。初めは、北の楽派(北曲?=tsa-ch'u)が、13世紀終わりまで優勢であった。その劇は、しばしば所作(マイム(身振り狂言)やパントマイム(無言劇))、朗詠、そして韻律のある歌からなる4幕ものであった。それぞれの歌の韻の形式は、歌の標号(ラベル)(ch'u-pai?)によって示され、特定の劇の状況にふさわしいものが選ばれた。
 韻の形式は、特定の旋法・音階と関連し、インドのラーガのムードの中で、私たちが見いだしたものと似ていなくもない、一種の連想を発達させた。また、旋律の数は、(叙情)詩の数より少なかったので、聞き手に劇の内容を広く伝える糸口となった。13世紀の終わりには、北と南の様式は混じり合い、作品は両方の所作を含んでいるだろう。一方、元朝の終わり頃には、南の流派が支配的になった。この時代の五つの作品が現在まで伝えられ、今日でも、特にアマチュアの人たちによって演じられている。これらの劇では、特別なテーマ(横笛=ya-ti,文字通りの意味は、「優雅な横笛」)が、喜びや怒り、また、それと関連する状況といった、ある感情を表現するための主要なモチーフとして用いられている。

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