モテトゥスの発展--世俗のポリフォニー

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世俗のポリフォニー

 典礼の形式が互いに影響しあい、借用したり借用されたりして新しい形式や様式が生じるのと同じように、中世の世俗の芸術形式も互いに著しく影響しあった。基盤となる単旋律の型から、あるいは特定の調べに基づいてさえ、愛の歌や牧歌的短詩を作ることは一般に起こることであった。そして、同様に、その機能や性格が何であれ、モテトゥスのテノールとして世俗の歌を使うことは(13世紀も終わりの頃には)、一般的なことであった。しかし、容易に舞曲のテーマが歌になったり、踊りのための歌の調べの素材となることができた。音楽の流通の連邦は、最も偉大な作曲家も最も卑しい歌い手も、最も高貴なトルバドールも最も卑しいジョングルールも、みなある定型、決まり文句を共有し、大規模に枯れることなく移植したり、悪い影響もなく接ぎ木するという考えが可能になったのは、まさにこの共有という行為によってであった。
 時折、この音楽的要素の移植に関する理論は、余りにも先に進みすぎたように思える。例えば、多くのコンドゥクトゥスの曲の末尾の部分は、典礼のものであれ政治的なものであれ、中世の吟遊詩人たちによって「舞曲組曲(suites of dances)」として用いられたと一般には考えられている。なるほど、調子よく歌うリズムは多くの典礼の形式に共通であり、もし、三声の曲の言葉のない部分が充分速い歩調で楽器で演奏されるなら、舞曲のような韻律(リズム)が結果として生ずることは真実であろう。しかし、このことが起こった証拠は全くなく、一方、形式の類似性からよく知られた中世の舞曲であるエスタンピエ(estampie)は、その対となったプンクトゥム(punctum)すなわちフレーズを典礼のセクエンツィアに負うていたという証拠がある。しかし、この表面上明白な派生においてさえ、一つ重要な違いがある。セクエンツィアとエスタンピエは、対となる詩という考えは共有しているが、エスタンピエにおいては、最初と二度目のエンディングは、恐らく6音程度、そしてもちろんカデンツァも、異なっている。さらに、その異なるエンディングは、それぞれの対に、むしろ一種のリフレインのように、一貫して現れる。
 宮廷舞曲(ダンス・ロワイヤル(danses royales))は、このパターンに従っている。また、概して、よく知られたイギリスの舞曲もそうである。イギリス舞曲は、トレブル(最高声部)の繰り返しの音の下の二重唱(デュエット)のパッセージの最後の数小節のモノフォニー的な性格を放棄している。この短いパッセージは、3声のハーモニーであるけれども、二人以上の演奏家を要求していなかったかもしれない。なぜなら、その繰り返された音は、ヴィオルが意図された楽器であったと仮定して、開放弦であって当然であったから。二人の演奏家で、その曲はアンティフォナのように演奏することができた。それで、最初の演奏家は常にその調べの最初の(主題)を提示し、第二の演奏家がそれを clos エンディングで繰り返す。中世の吟遊詩人たちは、しばしば二人あるいは3,4人のグループで放浪し、普通、彼らは二つ以上の楽器の技法に精通していた。彼らの曲目は、広く、エスタンピエとよく似た形式であるが、より短いノータ(nota)とドゥクティア(ductia)で成り立っていただろう。それらはしばしば中世文学に言及されている。ちょうど、楽器が彫刻や彩飾画に描かれているように。ドゥクティア(ductia)の名に相応しい2声の舞曲の例があり、これらは、また上声部に新しい素材を用いて3対のフレーズを繰り返すことで曲を拡張するだけでなく、旋律と一致したフレーズという期待されたパターンをも示している。その結果生じたパターンは、基礎低音(ground base)上の変奏といった考えや原理と似ていなくもない。それは、ウスター楽派の作曲家たちにとっては、非常にうまく働いていた。
 彼らの舞曲のレパートリーの他に、宮廷の吟遊詩人もブルジョワ(中産階級市民)の吟遊詩人も、確かに、作曲家たちが世俗の歌詞のあるモテトゥスに何度も何度も用いたテノールの調べのいくつかを暗記していた。ヨハネス・デ・グロケオ(Johannes de Grocheo)が「ヴィオルで、すべての音楽形式は性格に区別される。・・・よい芸術家は、ヴィオルですべてのカントゥス、カンティレーナ、また全般にすべての音楽形式を演奏する。」と言ったように。ほとんど例外なく、テノールは弦楽器での演奏に最も適している。その音を保持する力は、オルガンに匹敵したヴィエル(vielle)(すなわちハーディ・ガーディ(hurdy-gurdy)をも排除せず。これは、後の世紀優勢であったこととは全く異なる状況である。その頃には、テノールは送風(管)楽器によって、より角のあるアルペジオ風の基準を求める演奏になっていた。にもかかわらず、13世紀のモテトゥスの中には、最も良い効果を出すために、二三のハンドベルを要求する特異なテノールがいくつかある。Dieus! comment puet li cuers/Vo vair oel のテノールは、2音、CとDとだけでできている。また、モンペリエ写本に唯一出てくる Amor potest/Ad amorem は、すでにその「グラウンド・テノール(ground tenor)」への関心から言及されているが、それは3音、F、E、Gだけで成り立っている。これら3音での恐るべき主張とほとんど崩れない長短短(強弱弱)格のリズムにおいて、カール・オルフ(Carl Orff)さえ、それは中世を超えている。
 しばしばテノールそのものが、フランス語の題名を持っていて、これらのテノールに付けられた調べが、時折、その歌と形式が単なる失われた曲の影ではなく、今一度具体性のあるものになるほど再構築できることがある。いくつかの旋律は、ヴィルレ(virelais)(ソロとコーラスのためのリフレインのある歌)として現れている。「Entre Copin et Bourgois/Je me cuidoie tenir」は、Bele Ysabelos に基づいて作られているし、同様に、Nouvele amour/Haute amour は、He'/dame jdie に基づいている。この後の例のオリジナルの形式は、前の例ほど明確ではないけれども。He', resveille-toi, Robin (しばしば中世文学に引用されている)は、ダブル・モテトゥス En mai quand rosier/L'autre jour のテノールとして使われており、後にアダン・ドゥ・ラ・アルによって Jeu de Robin et Marion でリフレインとして借用されている。一連のリフレインの断片でできたテノールの稀な例が、Qui amours veut maintenir/Li dous pensers の中にあり、そのテノール Cis a cui je sui amie は、そうしたリフレインが9つも含まれている。同様に、ユニークなのは、異なる理由からであるが、パリの呼び売り商人の声、Frese nouvelle! である。それは、大都市の美食の楽しみを称える二つのテキスト(On parole de batre/A Paris soir et matin)のテノールとして優れた役割を果たしている。
 しかし、他のテノールは、エスタンピ(estampie)から大規模に取り上げられた部分に基づいている。そして、それらは一般に作曲家の名が与えられている。ショーズ・タサン(Chose Tassin)(フィリップ・ル・ベル(Philippe le Bel)に仕えていたタッシヌス(Tassynus)という名の吟遊詩人)やショーズ・ロワゼ(Chose Loyse)。これらのテーマは、予想されるように、著しく楽器の芳香を放っており、そのいくつかは、後のテノールの作曲家たちに非常によく知られることになるトランペットのようなテーマの徴候を示してさえいる。(譜例27を見よ)

  譜例 27

フランスの歌は、フランス語が宮廷で話されていたという言語であったという正にそのよき理由でイギリスの作曲家によっても用いられ、また、ある国家の行政分野でも用いられた。
 コンドゥクトゥスの議論で、クラウスラやその他の様式とのつながりが強調された。しかし、さらに別の特徴もある。それは、あるコンドゥクトゥスを以前からあったモノフォニーのロンド、すなわちリフレイン・タイプの世俗歌に結びつけているものである。よく知られた調べ、A l'entrada del tens clar, Eya は、Veris ad imperia, Eya の最低声部として再び現れ、ラテン語のコントラプンクトゥムは、旋律だけでなく、歓呼もとり入れている。しかし、別のコンドゥクトゥス Legis in volumine は、道をはずし自分の道を歩む前に、Veris の3声すべての初めを引用している。トルヴェール、ブロンデル・デ・ネスレ(Blondel de Nesle)による2つの歌は、コンドゥクトゥス Ma joie me sement の旋律として用いられた。それは、ゴティエ・ドゥ・シャティロン(Gautier de Chatillon)による新しいテキストが付けられ、2声の Ver pacis aperit (1179年、フィリップ・アウグストゥス(Philip Augustus)の戴冠のための)になった。一方、L'amour donc sui espris は、さらに一層変化に富んだ経歴をたどった。それは、ゴティエ・ドゥ・コワンシー(Gautier de Coincy)によって宗教的モノディ、モノフォニーのコンドゥクトゥス Suspirat spiritus として編曲された。このテキストは、パリの大法官(Chancellor)フィリッペ(Philippe)によるものとされている。3声のための2つのコンドゥクトゥスがあり、まだ、同じ旋律--気晴らしの娯楽のよさを激賞している Procurans odium とユダヤ人たちをキリストに向けようと熱心に説く Purgator criminum が使用されている。
 ベルナール・ドゥ・ヴァンタドルン(Bernard de Ventadorn)の有名なヒバリの歌(戯れ歌)(lark song) Quan vei L'aloette mover は、さらに一層激しい一連の変転が進行していた。それは、あたかも世に知られずに受けていたというより、変化・分断という仕方で評判(名声)が旋律にもたらされていた。しかし、より多くの版が存在すればするほど、現代の学者にとってはこれらの旋律について学ぶことが容易になるというのは真実である。たとえ、多くの版からは、純粋に音楽的なこと以外の判断をしなければならないという問題が起こってくるかもしれないとしても。ベルナールの歌は、その古フランス語のヴァージョンだけでなく、オリジナルのラング・ドク(langue d'oc)で歌い手たちに知られていた。後の世代すべてに、戯れ歌(lark song)--Plaine D'ire et de desconfort とそれほど関係なくはないほどに繋がっているテキストによって知られていた。さらに、一層奇妙なことに、大法官フィリッペ(Philippe)によってラテン語の歌詞が与えられていて、Quisquis cordis et oculi という題名で、ヨーロッパの修道院中に知られ歌われていた。また、ラテン語のテキストのフランス語訳 Li cuers se vait de l'uiel plaignant も聖アーニュの神秘(the Mystery of St.Agnes)の中に、神聖なコントラファクトゥム Seyner mil gracias ti rent もあった。それほど多くの伝説がこの歌を巡って成長したことは、それほど驚くべきでないし、ダンテが「天国編」の第20歌に、この同じ戯れ歌とほとんど違わないものに言及しているのを見出しても驚くべきことではない。
 世俗というよりむしろ典礼に準ずるコンドクトゥスに戻ろう。この種の音楽は、先に議論されたタイプのものとは異なっていた。というのは、それは、全般に、作曲の初めや終わり(また、時に中間に)あるそれらの華やかなパッセージはなく、すべての声部に共有された注意深くアレンジされた朗吟風のフレーズだけから成り立っていたから。これらのコンドゥクトゥスの主題は、大部分、教会や国家の行事と結びつけられており、時には、特定の人、たいていは教会の高聖職者や王族のメンバーたちであるが、彼らと結びつけられていた。初めのカテゴリー(高聖職者)には、十字軍への力強い熱心な勧告である Crucifigat omnes を含み、それは12世紀終わり頃に書かれたもので、今日でも7つのヨーロッパの写本に保存されている。それは、また、数少ない知られた4声のコンドゥクトゥスの一つ、Mundus vergens、13世紀初期のフランスの政治的闘争を嘆いているもの、2声の Ut non ponam os、これは統率指導の先行条件に語っているもの、そして、大法官フィリッペ(Chancellor Philippe)の Suspirat spiritus との関係で述べられている二つのテキストを含んでいる。
 第二のカテゴリー(王族)の中には、王と王子を称えたいくつかのコンドゥsクトゥスがある。Ecclipsim patitur は、ブリタニーのジョフリー(Geoffrey of Brittany)(1186年)の死について哀歌である。一方、3声の Nemo sane spreverit は、1179年の彼の戴冠時には、すでに Ver pacis aperit を生み出していたフィリップ・アウグストゥス(Philip Augustus)(1223)の死を祈念したものである。リチャード・クール・ドゥ・リヨンが 1189年に王位に就いた時には、コンドゥクトゥス Redit aetas aurea が歌われた。それは、率直で楽天的な曲で、黄金時代への帰還と平等、邪悪と悪徳の追放について歌っている。言葉と音楽とにおいて、ほとんどエピグラムのようであり、それにもかかわらず、それは各々の詩が終わりにくるにつれて、自然な適切な装飾へと入り込んでいく。他に有名な祈念のコンドゥクトゥスには、トマス・ア・ベケット(Thomas a Becket)の死を祈念するものが含まれている。一つはモノフォニーで(In Rama sonat gemitus)、大司教のフランス亡命に関するものである。もう一つは(Novus miles sequitur)、彼の殉教を強調し、2声のために書かれている。長さにおいても、メリスマ部分の使用においても、普通でないのは、ある時、ポンティニ(Pontigny)の小修道院(prior)で、後に 1200年にブルジェ(Bourges)の大司教となったギヨーム・ドゥ・ダンジョン(Guillaume de Donjeon)と呼ばれるシトー会修道士を称えるコンドゥクトゥス O felix Bituria である。1218年の彼の列聖は、ほぼ確実にコンドゥクトゥスが書かれたその祝典であっただろう。
 ブリテン諸島では、ポリフォニーが極めて初期の時代から栄えた。ウェールズス・ジェラルドによるウェールズとアイルランド、スコットランドの12世紀後半の描写は、声と器楽双方のポリフォニーにおいて、いかに活力ある伝統があったかを証明している。
 これらの人々の間に、私は、楽器に関してだけ優れた勤勉さを見出す。彼らは、それに関して、私たちが見てきたどこの国よりも優れた技能を有している。というのは、彼らの間では、演奏は、私たちが慣れているイギリスのように遅く荘厳なものではなく、音は柔らかで快いものだけれども、速くて生き生きとしたものであるから。そうした指の素早い動きで音楽のリズムは保たれ、どんなことにも損なわれない技法で、非常に滑らかな速さ、並ぶべきもののない均質さ、不協和の協和、様々な曲とパート音楽での多くの複雑さを通して、旋律は抑えられ快さを保っている。
 ジェラルドは、ここで言葉の音楽を描こうとしている。そして、彼以後の数世紀に及ぶ数え切れない批評家と観察者のように、彼は、それが非常に困難であることを見出している。「並ぶもののない均質性」とか「不協和の協和」といった語句は、私たちが rubatoや掛留音をうまく使用しているというような全般に共通な工夫との可能な関係を考えると、彼らの明らかにパラドクシカルな意味(感覚)のある部分を失っている。そうしたものによって、最も耳障りな不協和音さえ、耳への害を与えることのないよう緩和され解決されるようである。後の一節では、ジェラルドは楽器を論じている。
 スコットランドとウェールズは、--前者は類縁関係と貿易により、後者は伝播により--彼らの曲は、アイルランドの実践を真似る努力をした。アイルランドには、二つの楽器、キタラ(cithara)[リュラ(lyre)]とティンパヌム(tympanum)[ダルシマー(dulcimer)]を用いて満足し、スコットランドは、三つ、キタラとティンパヌムとコルス(chorus)[小さなクルス(srwth)、弓で弾く弦楽器]で、ウェールズでは、キタラとティビア(tibia)[パイプ(pipe)]とコルスで満足していた。さらに、彼らは革ではなく、真鍮でできた弦を用いている。多くの人々の意見では、スコットランドは、音楽において、女主人であるアイルランドに匹敵するだけでなく、今日では、遙かに凌ぎ優っている。こうした理由から、人々はスコットランドを芸術の泉と今日みなしている。
 この記述は、私たちが聖アンドリュー写本(St.Andrew's manuscript)の第11小束(分冊)の、実際はスコットランドのものでないとしても、島国(イギリス)の音楽の量を思い出すとき、特に意義深い。その写本は、ノートルダムのオルガヌムとこの有名な楽派の模倣者たちの主要な資料としてすでに議論されている。オークニー諸島(Orkney Islands)で書かれた聖マグヌス(St.Magnus)への賛歌のような最も単純な種類の合唱音楽でさえ、連続した3度の著しい好みを示しており、より完全な音階でのこのタイプの音は、後のイギリス・ディスカントゥス様式の「存在理由(raison d'etre)」であった。再び、ジェズアルドの「ウェールズの描写(Description of Wales)」にもどると、そこには、合唱音楽をウェールズが著しく愛好した証拠が見いだせる。
 音楽を演奏するときには、彼らは、他の国々の民族のようにユニゾンでは歌わないで、ポリフォニーで歌う。それで、歌い手たちのグループ(ウェールズでは、非常によく出会う)では、そこにいる人々と同じ数だけの旋律をきくだろう。そして、各パートの明らかな多様性は、最後には、Bフラットの甘い柔らかさで、唯一の協和とハーモニーに結びつく。イギリスの北方地域、ハンバー(Humber)の彼方、ヨーク周辺では、住民たちはハーモニーと同様の種類の歌い方を用いているが、二つの異なるパートでだけは、一つは低い声域で静かに歌い、もう一つは、上述の耳を宥め魅了する。二つの国のいずれも技巧を通してではなく、長い習慣によってこの腕前を獲得した。それが自然ななじみ深いものになっている。そして、この実践は、非常に固く根をおろしているので、ユニゾンで歌われることは決してなく、(ウェールズでのように)いくつかのパートで、あるいは北部でのように少なくとも2声で歌われるのを聞く。さらに、一層すばらしいことには、子供たち--幼少時代からすでに--同じように歌う。イギリスでは全般にこの歌い方を採用しているのではなく、北部の人達だけなので、それは、そこの住民が歌い方や話し方を得たデーン人やノルウェー人(その島のこれらの地域は、彼らによってより長い期間、しばしば侵入されたから)の起源によると私は信じている。
 Nobilis, humilis の様式は、極端に簡単なコンドゥクトゥス様式である。イギリス島内起源で、より複雑な例は、中世イギリスのテキストを持っているが、Foweles in the frith, Edi beo thu hevene quene と Jesu Christes milde moder のような曲の中に見いだせるだろう。これらはすべて2声のための曲であり、すべて新しい協和音の理想への前向きな態度を共有しており、それ以前の世紀の作曲家たちによって好まれた4度、5度、オクターヴの協和音よりもむしろ3度と6度を十分使用している。Foweles in the frith は、とても短いが、簡潔な空間の中に、人類の最も暗い絶望を要約している。劣った獣が人間の要素の中にはあるように、人は狂気になりかねず、肉と血の生物が悲しみに暮れて歩む。それは、グロスターシア(Gloucestershire)のランソニー小修道院(Llanthony Priory)の礼拝堂付き司祭(chaplain)あるいは教師の作品であったように思える。そのテキスト--Blessed be thou, green of heaven--は、様々によく知られた聖母マリアのセクエンツィアの詩行の中世イギリス版である。最初の行は、明らかに Benedicta es, celorum regina の訳であるが、セクエンツィアの旋律を用いようとする試みは全くない。2つの声部は、それぞれの位置に留まらずに(Nobilis や Foweles のように)お互い交叉しあい、より単純ではあるがより繊細な方法で3度の繋がりを生み出している。2声の下のパートは、3つの音、F,G,Aだけを歌うが、上の声部はより敏活で、5度の音程を通して上下に跳ね、それが結びついて、感情豊かな協和音と変化する音の色調の極めて流麗で満足感のある効果を与えている。これと Jesu Christes milde moder は、共に、ストロペ(strophic)タイプであり、前者は8行詩で、後者は11行詩である。
 Jesu Christes milde moder の場合、セクエンツィアとの類似性はまだ強い。というのは、テキストは好まれた聖週間のセクエンツィア Stabat iuxta Christi crucem のテキストに他ならないから。しかし、また、セクエンツィアの旋律を使うのには気が進まず、(これは別の中世英語のヴァージョンに使われている。今回は、1声だけの Stond wel moder under rode)、2声は厳しく範囲が限られている。ともに、7度の範囲を超えず、それ故に、その印象は隠された悲しみ、鬱積した情熱といった印象である。事実、音楽の印象の強さは、ここでは採用された方法に反比例している。
 当時、世俗のコンドゥクトゥスは、戴冠、王や王子、殉教者たちの死の祈念といった政治的出来事、地誌的哲学的な性格を持つ全般的テーマ、そして、フランシスコ会士たちによって広められたような民衆に広まった宗教を包摂する一つの様式であった。しかし、その世俗の性質は、必ずしも俗人に演奏家や解説者としての資格を与えるものではなかった。音楽の技法を学問とは、教会のものではないにしても、少なくとも教育を受けた階層の領域内に保たれた。そして、当時、この旋律のいくつかの素材だけでなく、その方法もほとんど常に教会から借りられた、そうした人気のあるポリフォニーであった。私たちが見てきたように、反対のことが時折起こりえたし、実際に起こった。しかし、作曲家や演奏家たちを維持し奨励する富は、豪族、大富豪や司教の手中にあった。

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