音楽史[15世紀初期鍵盤音楽][パウマンとブクスハイム・タブラチュア] |
15世紀初期鍵盤音楽 音楽史という観点から見ると、ドイツの歌の曲集は、鍵盤のタブラチュアによってその影が薄くなる。というのは、ここでは、ドイツ人は急速に特別な卓越性を示した分野に入りつつあったから。孤立したロバーツブリッジ写本(Robertsbridge Codex)とレイナ写本(Reina manuscript)の二つのような切り離された2,3の曲を除けば、鍵盤音楽の初期の唯一の資料は、前の章で言及した(p.131を見よ)ファエンツァ写本117(Faenza Codex 117)である。ファエンツァの鍵盤音楽は、「バー」--小節線--のある二つの6行譜表に書かれている。(1)左手の譜表には、多少なりとも正確にオリジナルのテノールが、ときおり移調されているが書かれている。右手の譜表には、完全に自由な、あるいはオリジナルのカントゥスの高度に装飾された形式の華やかなパートがあり、再帰的な定型を採用している。オリジナルのコントラテノール(そしてマショーの「De toutes fleurs」でのように、あればトリプルム)は無視される。正に最初の曲「Biance flour」では、両手で共有されたひどい装飾は、ヴァージナル型の楽器のために書かれたことを示唆している。しかし、その写本は、また、疑いなく、典礼使用のためのオルガン音楽を含んでいる。二つのキエエ・グロリアの対と一つだけのキリエは、すべて好まれていたミサIVの単旋律聖歌(「Cunctipotens Genitor Deus」のキリエを持っている)に基づき、再び単旋律聖歌が左手にあり、華やかな右手のパートがある。(図版34を見よ)
これらは、いわゆる「アルテルナティム(alternatim)」の実践の、私たちが持っている最も初期の証拠である。例えば、その中で歌われる単旋律聖歌と交互するオルガンで演奏される単旋律聖歌キリエの祈り、マニフィカートと賛歌の奇数や偶数の韻文。
|
パウマンとブクスハイム・タブラチュア ベルリン写本 Deutshe Bibl.40613は、Lochamer Liederbuchだけでなく、極めて有名なパウマンの4つの Fundamenta organisandiを含んでいる。それは、1452年に編集された。ちょうど、オルガンの巨匠というだけでなく、「あらゆる楽器の」巨匠パウマンが、ミュンヘンのバヴァリア公(Duke of Bavaria)の宮廷オルガニストとなったすぐ後である。この Fundamentum(6)は、先ず第一に、定型旋律の宝庫であり、長い音の低音部に付く華麗な上声部の書法に適用することができた。それは、初めの音階から3度、4度、5度、6度カデンツァを上昇したり下降したりする。パウマンは、それから実際の例を提示する。最初のは、マニフィカートの為の第6音での曲であるが、ほとんどは、ドイツの歌、例えば、ヴォルケンシュタインの「Wach auff」や作曲者不詳の「Des klaffers neyden」と言った歌のテノールに基づいている。後者の曲の彼のヴァージョンは、Ex.38(ii)と比べられるだろう。テノールだけが、ここでは、十字マークが付けられているが、両方に共通で、それは自由に変えられてさえいる。 譜例 41. 最後にパウマンは、イレボルク(Ileborgh)のより形の整った3つの praeambulaを与えている。 パウマンの影響は、また、イレ(Iller)のブクスハイム(Buxheim)修道院の大タブラチュアでも(1460年から1470年の間に編纂)極めて明白である。(7)これは、彼の Fundamentumの2つの続きを含むだけでなく、初期のコレクションとの多くの音楽的関連を示している。それは、遙かに大部であり、--250曲以上を含む--音楽は、1452年の巻の本質的に2声のテクスチュア(Ex.41参照)と比較すると、ほとんどが3声である。ミュンヘンでの最後の数年に、パウマンの指導の下で書かれた可能性がある。第3パートは、コントラテノールと見なされ、写本の終わりには、「コントラテノールがテノールより高い時は、ペダルで低いテノールを演奏しなさい。しかし、コントラテノールが低いなら、テノールを上で、コントラテノールを下で演奏しなさい。」という指示がある。パウマンは、--もしブクスハイム曲集の編纂に関わっていたなら--恐らく、コントラテノールの概念は、ブルグンド(ブルゴーニュ)楽派のから派生しているのだろう。私たちが気付いているように(p.73を見よ)、彼は、彼らの音楽を十分よく知っていた。と言うのも、ドイツの歌のテノールに基づく作曲と相並んで、当然最大の作品群を構成しているが、その曲集には、多くのアングロ・ブルグンドの曲が含まれているから。ダンスタブルの「O rosa bella(3つのトランスクリプション)」「Puisque m'amour」と「Sub tuam protectionem」(2つ)(8)、Fryeの人気のあった「Ave, regina」の3つのトランスクリプション(9)、デュファイの「Se la face ay pale」が2つ、「Franc cueur gentil」が1つ、バンショワの「Je loe amour」(「Geloymors」や「Jeloemors」のように様々に変えられている)が少なくとも7つ。また、Arnold de Lantins, Franchois, Guillaume Legrant, Tourontの曲や、イタリア人1人2人(Jacobus Viletti, Bartholomeo Brolo)の曲が。 トランスクリプションの技法は、全体としてかなり一様である。右手のパートは自由に作られたか、シャンソンのカントゥスに基づいており、典礼の曲(ほとんどがキリエ)でさえ極めて華麗で、Fundamentaに書かれた定型に基づいている。オリジナルのメロディは、ほとんどあるいは全く認められない。「Se la face ay pale」の Ex.35(i)に引用したファンファーレのようなパッセージの2つの transcriptionは両方とも、驚くほどはっきりと現れている。時に、テノールは、忠実に保存され--「Des klaffers nyd」では、Fundamentumの版(Ex.41)でより、そうである。しかし、右手のパートは、遙かに装飾されている。また、時に複雑にされたり、あるいは逆に、長い音価で単純化されたりして認識できなくなっている。長い音価の扱いの例として「Mit gantzem willen」、これも Fundamentumの版を精巧にしたものであるが、ある。一方、多様性の創意は、バンショワの歌のテノール(やカントゥス、コントラテノール)の扱いに見られる。(10)ドイツ、イギリス、ブルグンド、またイタリアの曲をも含み、ブクスハイム・オルガン曲集(Buxheimer Orgelbuch)は、15世紀中期のヨーロッパ音楽の著しい記念碑である。
|