音楽史

[ポリフォニーの言葉][イタリアのネーデルランド人作曲家]

ポリフォニーの言葉

 オブレヒトは、わずか一握りだけのフランスの歌を残した。1曲は「La Tortorella」でイタリア語の歌詞が付いており、また、十数曲のオランダ語に作曲したものもある。(1) 恐らく、オランダ語の人気のある曲の編曲であろう。その最も著しい特徴は、多くの音節での一音対一音の言葉への作曲であろう。ヒューマニズム(人文主義)の時代、言葉に非常な重要性を付与した純粋なポリフォニーは、その言葉を用いるが、吸収され溶解する。15世紀後期の対位法の線の最初のモチーフは、言葉でインスピレーションが与えられたものかも知れないが、続くものは、本質的に音楽的であり、他の対位法の線との関係によって支配されている。まったくでたらめに、それに適応されたテキストとの関係によってではない。(2) 言葉によるインスピレーションがさらに与えられた時でさえ、声とテキストとの連続するエントリは、言葉を不明確なものにしている。これに対処するために、デュファイ自身は、シャンソンの3声すべてに言葉を付ける時には、それらを「J'attendray tant qu'il vous playra'」でのように「和声的に(chordally)」一音対一音で作曲したり、それらを澄んだように(透明に)するために別の拍子を取ったりしている。この声の音楽の「和声の」概念は、ポリフォニーのテクスチュアの部分を同様に重要なものにする傾向を増大させるとともに、究極的には、次の世紀の半ば、ツァルリーノ(Zarlino)が「4つのパートが完全なハーモニーの完成を含む」だけでなく、「声のハルモニアとコンチェルト(un harmonia et un concerto de voci)」が音楽の最初の形式であったことを宣言するのを可能にした。(3)  そうした音楽は、--しばしばであったかどうかはともかく--楽器の参入なしで歌われることができただろう。同様に単に言葉がないだけでなく、--ペトルッチのオデカトンやその後継書カンティB(Canti B)(1502)(4)とカンティC(Canti C)(1504)は、ほとんど言葉(歌詞)はない--オデカトンのギセリン(Ghiselin)の「La Alfonsina」やフィレンツェ写本(Bibl.Naz.Panciatichi 27)(5)の中の「La Spagna」のような、明らかに楽器だけのために意図された資料の中に現れるそれらのポリフォニーの曲は、過去の異質的な(異なる楽器の)アンサンブルの一つによってより、同じ族に属する楽器によって演奏されたように思える。そして、お気に入りの楽器の族は、カスティリオーネが「宮廷人(コルテッジャーノ)(1514年に書かれたが、1528年まで出版されなかった)」の中で呼んでいるように、疑いなく「弓の4つのヴィオル(quattro viole de arco)」で「非常に甘美で技巧的(suavissima e artificiosa)」であっただろう。

目次へ

イタリアのネーデルランド人作曲家

 イタリアである時期かなりの期間過ごしたネーデルランド人作曲家たち、ウェルベケ(Weerbeke)、コンペール、ジョスカン、そして彼自身がそう称したようにヘンリクス・イザーク・デ・フランドリア(de Flandria)、の中で、最も注目されるのは、音節の一音対一音への言葉の作曲である。  イザークは、実際のところ、1484年にフィレンツェで初めてその名を聞く。彼は、ロレンツォ・イル・マニフィコ( 豪華王)によってそこに招待された。(6) ウェルベケもイタリアで初めてその名が聞かれる。1472年に、彼はガレアツォ・マリア・スフォルツァによってミラノ宮廷礼拝堂の職務に就けられ、ガレアツォ・マリア・スフォルツァは、彼をブルグンド(ブルゴーニュ)へ歌い手の新規募集のために派遣した。コンペールは、その時の歌手の一人で、ジョスカンは 1459年以来すでにミラノ大聖堂合唱団の一員であったが、宮廷によって新たに採用された。1480年代の間、--あるいは、多分それより前--コンペールは、フランスの宮廷に去り、ジョスカンとウェルベケは、教皇の礼拝(堂)へと去った。ウェルベケは、後にしばらくの間、ブルグンド(ブルゴーニュ)宮廷礼拝堂にいて、その後、人生の最後の10年ほど、もう一度ローマで過ごし、一方、ジョスカンは、順に、枢機卿アスカニオ・スフォルツァ(Ascanio Sforza)、フランスのルイ12世、フェッラーラのエルコレ1世(Ercole I)に(そのエルコレ1世の宮廷には、同じ時、イザークが訪問者としていた)、そして人生最後の14年間は、彼の故郷でレゲント・マルガレット(Regent Margaret)に仕えた。イザークは、マルガレットの父親マクシミリアン皇帝の宮廷作曲家となったが、1517年にそこで死ぬまでフィレンツェとの個人的なつながりは持ち続けた。チコニア以後の彼らの先行者たち同様、彼らはイタリア語のテキストに作曲し、その音楽にイタリアの旋律の快い甘美さとイタリアの透明感あるテクスチャーを浸透させることができた。しかし、今や新たな要因があった。それらは、新しいタイプの人気あるポリフォニーと接触し、複雑な作曲がほとんど行き詰まりを見せた時代、15世紀の間、イタリアで成長した。

目次へ


原注1

 それらの信憑性は証明されておらずあらゆる疑いの中にある。2つは、- 'T'saat een meskin'と 'T'Andernaken' - オデカトン(Odhecaton)の中にあり、Van Ockeghem tot Sweelinck, pp.70 ff.(Amsterdam, 1941)に10曲(ed.Smijers)ある。

もとに戻る

原注2

 例えば、Helen Hewitt's editionの Isabel Popeの Odhecatonのテキスト研究を見よ。

もとに戻る

原注3

 Istitutioni harmoniche (Venice, 1558),p.166.

もとに戻る

原注4

 Ed. Hewitt (Chicago, 1967).

もとに戻る

原注5

 Ed.Clytus Gotwald, Ghiselin: Opera Omnia(CCM 23),iv,pp.36 and 32. 'La Spagna'のテノールは、最も有名なものの一つで、黒のブレヴィスの長音のカントゥス・フィルムスにしばしば用いられた。それに合わせて宮廷のバスダンスが踊られ、テノールに合わせて実際のステップが踏まれた。

もとに戻る

原注6

 Frank A.D'Accone 'Heinrich Isaac in Florence: New and Unpublished Documents',MQ,xlix (1963),p.464を見よ。それは、イザークのフィレンツェでの初期の活動を訂正している。

もとに戻る