音楽史[ラウダとカーニヴァル(謝肉祭)の歌][フロットラ] |
ラウダとカーニヴァル(謝肉祭)の歌 1400年代(15世紀)初期のイタリアは、音楽で満ちあふれていた。しかし、その宮廷の音楽は、主に即興のモノディで、自らの詩を自ら自身のリュートの伴奏に合わせて歌った知識人たちからなっていた。例えば、ヴェネチア人、レオナルド・ジュスティアーニ(Leonardo Giustiniani(c.1388-1446))は、すべてのジャンルで名が挙げられている。新プラトン主義者で人文主義者であるマルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino(1433-1499)) は、リラ・オルピカ(lyra orphica)(1)で、自ら伴奏しながらギリシア語をラテン語に翻訳して歌った。そして、セラフィーノ・ダクィラ(Serafino d'Aquila(Aquilano)(1466-1500)は、ジョスカンと同じ時にアスカニオ・スフォルツァ(Ascanio Sforza)に仕えた。しかし、彼らの音楽は失われてしまった。最も初期のポリフォニーの宗教的ラウダ(laudi spirituali)(p.99を見よ)の音楽もそうである。その歌は、1400年にフィレンツェのカントール(cantor)、アンドレア・ステファニー(Andrea Stefani)による5曲の3声のラウダだと聞いているのだが。(2) 私たちがポリフォニーのラウダを発見するとき、それらは2声で、しばしば Ex.13(p.89)のタイプの非常に初期オルガヌムのように原始的で、ほとんど音節(シラビック)的でカデンツァ(終止部)の前の最上声部に短いメリスマがあるだけのものである。15世紀後半になっても、典型的な3声のラウダは(3)、ほとんどまったく「和音的(chordal)」 - 「基本(根音)位置(root position)の3和音」とも言うべき - で、カデンツァの前でだけ穏やかに活気づいていた。(例えば、終止形の「ランディーニ終止」のように)この極度に味気ない貧弱なタイプの音楽が、人気のあったフロットラやストランボット(strambotti)、フィレンツェのカンツォーニ・アバッロ(canzoni a ballo)(舞踊歌)やカンティ・カルナシャレスキ(canti carnascialeschi)(謝肉祭の歌)のための、普通声だけあるいは声(ディスカント)と楽器によって演奏できる4声で用いられた。これは、時代が俗語を水没させるよう脅かしていたラテン語使用の一時的発作から回復し始めたときに、イタリア人によって、特にフィレンツェの人々によって大量に書かれた。ロレンツォ豪華王(Lorenzo the Magnificent)(1448-92)自身は、トスカナの俗語を愛し、それが文学イタリア語として磨かれ編纂されるずっと以前から、それで宗教的ラウダや謝肉祭の歌を書いていた。そのジャンルは、音楽的には、それほど違わないが、サヴォナローラが、例えば、「Regina del cor mio(私の心の女王)」を「Regina del paradiso(天国の女王)」のように、世俗のテキストを宗教的テキストにただ置き換えるだけで、別のものにすることができることを証明したように。 また、予想されるように、ロレンツォのお気に入りの音楽家イザークが、それらに音楽を付けている。(4) 完全に残っているものは一つもないが。しかし、私たちは、彼の5月の歌「Or'e di Maggio」、ストランボット「Morte che fai」そしてクォドリベット(quodlibet)「Donna di dentro/Fortuna d'un gran tempo/Damme un pocho di quella maza chroca」(5)を持っている。この最後の曲で、イザークは、3つの曲の旋律及び言葉上の小断片を繋げるのにかなりの技法を駆使している。その3つ目の最も長い(持続的な)曲は、- その論争となった文字通りの意味が何であれ - 疑いなくわいせつである。これは、これらのジャンルで自ら楽しむ時のネーデルランド人の典型である。音節的な一音対一音の様式の単純さを損なうことなく、職人として、技法は注意深く隠すことはできるが、普通なくすことができない。そのように、ジョスカンは、その「スカラメッラ(Scaramella)」で、「ロム・アルメ・スーペル・ウォーケス・ムシカーレス(L'homme armee super voces musicales)」のと比較できる工夫を少し音部記号にしている。一方、コンペールは、同じコミカルなテキストに作曲し、最初2拍子でテノールを、それから同じ音価を保持しながら3拍子でテノールを作曲している。(6)
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フロットラ しかし、ジョスカンは、彼の甘美な「El grillo」(7)でのように、時折、イタリア生まれの人々と同じくらい無邪気(素朴)でありえる。イタリアの現地の人の曲は、ペトルッチが 1504年と 1509年との間に出した9書の膨大なフロットラ曲集を構成している。これらの中で、主要な人は、3人のヴェローナ人、マルケット・カラ(Marchetto Cara)、ミケレ・ペゼンティ(Michele Pesenti)、それにバルトロメオ・トロンボンチーノ(Bartolomeo Tromboncino)とヴェネチアのオルガニスト、フランチェスコ・アンナ(ダナ)(Francesco Anna(d'Ana)(8)(同じ音楽家が、また、インノケンティウス・ダンモニス(Innocentius Dammonis)とともに正確に同じスタイルで、ポリフォニーのラウダの作曲家として現れている。1508年に出版された2書のペトルッチの中では、しばしば単旋律聖歌のメロディを織り込んでいるが)(9) これらの作曲家たちは、決して、彼らの真のフロットラが示唆するように素朴ではなかった。ペトルッチの第一書(First Book)にある、トロンボンチーノの「Se ben or」の真ん中の部分は、彼に模倣の点のあるテクスチュアを示している。 譜例 46 彼が、有名なペトラルカのソネット「Hor che'l ciel et la terra」(10)に曲を付けたものは、--彼の曲は、1516年に出版された -- それは生き生きとした楽器のパートのあるソロの歌としてである。 アインシュタインが言ったように、フロットラは、ネーデルランドもどきのポリフォニーのパッセージの侵入によって、結局解体された。(11) しかし、事実として、ポリフォニーは、フロットラにとって代わるよう非常に早くから脅かしていた。ペセンティ(Pesenti)の「O dio che la brunetta mia」は、これも 1504年のペトルッチの第一書にあるが、完全にポリフォニーである。この曲は、最初のマドリガーレ作曲家に知られていた。ヴェルデロット(Verdelot)(以下の p.228を見よ)が、6声部のマドリガーレの最初の書の同じテキストに作曲したとき(Venice, 1541)、彼はペセンティのスペリウスをほとんど一音対一音借用し、また、コスタンツォ・フェスタ(Costanzo Festa)は、ペサンティの作品を自分自身のものとして、Vero libro di mmadrigali a tre voci(Venice, 1543)の中に、1パートを省略しただけで載せている。 しかし、この文化の接触の結果は、単に、フロットラ作曲家たちが、ネーデルランドのポリフォニーにインパクトを受け16世紀のマドリガーレを導くことになっただけでなく、フロットラとラウダの精神によるネーデルランドのポリフォニーが普及浸透することであった。コンペールとジョスカンの実際のフロットラは、彼らの他の音楽でのフロットラやラウダの要素ほど重要ではない。が、シャンソンでは、これは極めて明らかである。- 例えば、オデカトンの中にあるコンペールの「Vostre bergeronette」や彼の「Et dont revenes vous」(12)あるいは真面目なものだが、ジョスカンの「Plaine de dueil」(13)のように。同様に、それは、彼らの教会音楽にも入っている。ウェルベケのモテトゥス「Virgo Maria」や「Verbum caro factum est」、また彼の「Lamentationes Jeremiae」(14)(すべてペトルッチによって出版されている)、イザークの「Missa Carminum」(15)、ジョスカンの「O Domine Jesu Christe」や「Tu solus」、続くすべての世代を通じて、星のように輝くあの芸術作品の一つである(17)彼の最高傑作のミサ「Pange lingua」(16)を含む彼のミサ曲の多くのページに。
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