音楽史

[ピエール・ド・ラリュー][ヤコブ・オブレヒト]

ピエール・ド・ラリュー

 私たちが知る限り、オケゲムもラリューもイタリアを訪れたことは一度もない。また、オブレヒトは、一般に、非常に短い期間であるが2度だけ訪れたことがあると信じられ(1)、2度目の訪問中にフェッラーラで没している。オケゲムはフランスへ行ったが、ラリューは忠実な「ブルグンド(ブルゴーニュ)人」であり続けた。ブルグンド(ブルゴーニュ)の主人たちは、今やハプスブルク帝国の大公になっていたが。彼は、宮廷の礼拝堂にマクシミリアン(後の皇帝)からシャルル(後のシャルル5世)までの間、20年間勤めた。1502-3年の間、アグリコラやウェールベケなどの人々とともに、フィリップ大公に随伴して - フェルディナンドとイザベラの義理の息子 - スペインに行き、そこで、14人の歌い手と数名の楽器演奏者の小さな「カピッラ・フラメンカ(capilla flamenca)」は、スペインの大規模な王宮合唱団の歌とは著しく対照的であった。そこで、彼は、スペインの作曲家たち、アンキエタ、エンシーナ、エスコバルそしてベニャローサと出会ったに違いない。彼らは、恐らく、ヨハネス・ウレデ(Johannes Urrede(or Wrede))、アラゴンのフェルディナンドお抱えの音楽家で極めて人気の高かった歌「Nunca fue pena maior」の作曲家であるが、彼からネーデルランドのポリフォニーのいくらかを学んでいただろう。スペインへの訪問の1つの結果が、この歌に基づくミサ曲であった。それは、ペトルッチのラリューミサ曲集では「ロム・アルメ」のとなりにある。(その歌自体は、オデカトンに作曲者不詳で出版されていた。)ラリューは、その歌のスペリウスとほとんど同じにキリエのスペリウスを始めるが、テノールは、その歌のテノールに全般に似ているだけに過ぎない。

 譜例 45

 ラリュー最大のミサは、恐らく問題なく、大公フィリップの1507年の葬儀のための「ミサ・プロ・デフンクティス(Missa pro defunctis)」(2)であろう。モテトゥス「Delicta juventutis」が明らかにそうであったように、音節的な作曲は、一音対一音の朗唱でさえあり、レクイエムで重要な役割を果たしている。それは、また、彼の幾つかのモテトゥス(e.g. 'Vexilla regis/Passio domini' and 'Delicta juventutis')やシャンソン(e.g. 'Autant en emporte le vent', 'Cueurs desolez')(3)でもそうであるように。そのレクイエムは、幾つかの他のラリューの作品のように、著しく低いピッチで作曲されて、(ジョスカンによる譜例 47参照)-- その暗い荘厳さを深めている。ラリューの数少ないシャンソンでさえ、メランコリーが全曲漂う。その2つ--最初のバスが長い音価で「Dies irae」を歌う「Cueurs desdez」と2つのバスがカノンで「Requiem aeternam」を歌う「Plores, gemies, cries」--では、彼は若くして2度後家となった女主人摂政マーガレットの為に書いていた。彼女は、今回兄弟を失った。彼の曲「Cueurs desolez」の言葉(歌詞)は、彼女のものである。(正しくはコンペールのものであるが、Album de Marguerite d'Autriche(Brussels, Bibl.Roy.28)(5)の中で、しばしばオブレヒトのものとされる一つのモテトゥス-シャンソンは(4)、彼女のもう一つの悲しい詩「O devots cueurs」とエレミア書との引用とを結び付けている。そのエレミア書の引用で、彼女は兄弟へのラテン語の墓碑銘「O vos omnes ...」を終えているのだが。)

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ヤコブ・オブレヒト

 いかなる感情的高まりもオブレヒトの音楽の滑らかな表面を乱してはいない。ラリューのポリフォニーに時折見られる粗さのようなものは何もない。彼の明晰であるが常に十分織り込まれたテクスチャは、しばしばスペリウスとバスとの10度で平行の動きのセクエンツィアや短いモチーフのオスティナートのような繰り返しによって生み出されている。明確なアーティキュレーション(言葉の発声)は、上の2声部で歌われたばかりのパッセージを2つ下の声部で、文字通りくり返すことで確実なものとされている。ジョスカンによっても非常に好まれた工夫(技法)である。フライエ(Frye)のモテトゥス(そのテノールを彼はまた自分の別のモテトゥスから借りているが)に基づく彼のミサ「Ave Regina coelorum」(6)は、これらすべての特徴を示している。それは、また、オブレヒトの文字通りの引用の習慣も例示している。クレドとベネディクトゥスの「Qui propter nos homines」の部分の彼の作曲したスペリウスは、ともにフライエ(Frye)のスペリウスを本質的に変えずに不当に利用している。彼の「カプト・ミサ」(7)のグロリアを、デュファイのミサのグロリアから8小節引用して使っている。しかし、彼のテノールの自由な扱い、異なる声部間にテノールを分節した音を配分し、(「Ave Regina」でのように)テノールだけでなく、モデル曲の他のパートでも用いられているのは非常に注目すべきである。また、ドイツの旋律 -「Maria zart」「Der Pfobenswanz」- をミサ曲のテノールとして採用しているのも注目に値する。

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原注1

 しかし、Bain Murray in 'New Light on Jacob Obrecht's Development', MQ,xliii (1957) p.500,では、オブレヒトは、若い時、恐らくイタリアで教育を受けただろうと述べている。

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原注2

 Ed.Friedrich Blume, with 'Delicta juventutis' in ChW,xi.

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原注3

 ともに in ChW, iii.

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原注4

 Loyset Compere, Opera Omnia,(CMM15)v,p.4.

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原注5

 Martin Pickerによる編集。(Berkeley, 1965)

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原注6

 Werken (ed.Wolf),Missen iii, p.141.

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原注7

 Ibid.,iv,p.189.

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