[掲示板に戻る]
過去ログ
キーワード 条件 表示

[7] グリボエードフ(その2) 投稿者:惣田正明 投稿日:2003/08/12(Tue) 12:10  

逮捕

 1825年12月14日、ペテルブルクでデカブリストたちが蜂起します。暴動
の鎮圧後、1826年1月22日、グロズヌイの要塞でグリボエードフは逮捕され
ます。彼と親しい関係にあったエルモロフは、逮捕の用意がされていることを
予め密かに彼に警告していたので、グリボエードフは若干の書類を焼却するこ
とができました。グリボエードフはペテルブルクに連行され、およそ4ヶ月の
間拘留されます。拷問でも、彼は自分がデカブリストに属していることを否認
し、デカブリストたちもグリボエードフは秘密結社のメンバーでないと証言し
ました。

 グリボエードフは、6月初め釈放されますが、彼はデカブリストたちの政治
的社会的観点をすっかり共有していました。たとえ広範な民衆大衆からかけ離
れた彼らの運動の成功を信じていなかったとしても。


再びカフカスで

 グリボエードフは、エルモロフの退役でも免職されず、親戚のパスケヴィッ
チ(Паскевич)がカフカスの軍総司令官に任命されると、チフリス(Тифлис)
に帰ります。

 この時、ロシアはペルシアと戦争をしていました。1828年戦争が終わると、
グリボエードフはパスケヴィッチの委任で和平交渉を行うことになります。経
験ある外交官としてグリボエードフは、ロシアに有利な和平条約を作成するた
めに多くのことをしました。パスケヴィッチはグリボエードフの活動を評価し、
彼をトゥルクマンチャエ(Туркманчае)で締結された和平条約の報告のため
にペテルブルクへ派遣します。しかし、大使に任命されて、再びペルシアへ行
かなければならなくなります。このことは、グリボエードフを祖国から遠ざけ
ただけでなく、自国に不利な条約を結ばせた張本人とみなすペルシア政府が抱
く憎悪のために、大きな危険にさらされることになりました。重い気分で彼は
祖国を去ります。


ペルシアでの勤務と死

 ペルシアへの途上、グリボエードフはチフリスに留まり、そこで高い教養の
ある社会活動家で自由を愛する詩人、グルジイ・アレクサンドル・チャフチャ
ヴァジェ(Грузии Александра Чавчавадзе)の娘、ニーナと結婚します。

  1828年9月初め、ロシア使節はペルシアに入ります。2ヶ月後、グリボエ
ードフはチフリスで過ごし、締結された条約条件の遂行についての交渉を行い
ますが、交渉は難航しました。そこで、彼はペルシアの首都テヘランに行かな
ければならなくなりました。タフリス(Тавризе)に妻を残し、グリボエー
ドフはテヘランに出発し、新年にはそこに到着しました。

 和平条約の条項を正確に果たすようにとのグリボエードフの根気強い(執拗
な)要求は、ペルシア政府の強い反発と不満とを呼び起こしました。ペルシア
でのロシアの影響力を警戒していたイギリスの使節は、ロシア使節団に敵意あ
る態度を示していました。高官たちに煽動され、イスラム僧たちは、ロシア使
節に報復するよう国民(民衆)に呼びかけるアピールを発します。群衆が急に
暴れ出し、ロシア使節団のいる建物を破壊し始めます。グリボエードフはじめ
使節団のメンバーと警備にあたっていたコサック兵たちは、勇敢に抵抗しまし
たが、多勢の群衆に対して持ちこたえることはできませんでした。みんなで3
7人が殺されました。使節団の書記官だけが救われ、彼はグリボエードフの生
涯の最後の一日の記録を残します。グリボエードフの悲劇的な死は、1829年1
月30日のことでした。

 グリボエードフは、遺言に従って、聖ダヴィデ修道院に埋葬されました。墓
に建てられた墓碑には、妻によって書かれた銘が刻まれています。「あなた
の知と行為は、ロシア人の記憶の中に永遠に残るでしょう。でも、私のあなた
への愛は、なんの為に生きながらえたらいいのでしょう。(Ум и дела
твои бессмертны в памяти русских, но для чего пережила
тебя любовь моя.)」



[6] グリボエードフ 投稿者:惣田正明 投稿日:2003/07/08(Tue) 18:45  

 グリボエードフ

 「グリボエードフは、ロシア精神の最も力強い現れである。(Грибоедов
принадлежит к cамым могучим проявлениям русского духа.)」
とベリンスキーは語っています。深い知力、多方面の天賦の才、広い教養、知
的好奇心、多様な興味関心が、グリボエードフの特徴です。そして、自らの豊
かな才能すべてを、祖国への奉仕に捧げました。彼の不朽の名作「知恵の悲し
み(горе от ума)」は、民衆への愛と、最もよき未来へのロシアの運動を妨
げるあらゆるものに対して宥めがたい憎悪を込めた作品です。


伝記:幼少年時代と大学

 アレクサンドル・セルゲーヴィチ・グリボエードフ(Алекcандр
Сергеевич Грибоедов)は、古い貴族の家柄で、1795年1月4日にモスクワ
に生まれました。

 家庭の養育と教育は、教養ある外国人家庭教師と大学教授が指導しました。多
くの注意が外国語の学習に向けられています。才能に恵まれ、グリボエードフ
は、早くからラテン語、ギリシア語、フランス語、ドイツ語と英語とを習得
し、後には--さらに、イタリア語、ペルシア語、アラビア語を習得します。ま
た、ピアノを上手に演奏しました。

家庭での教育の後、モスクワ大学付属の貴族の子弟のための寄宿中等学校で、
その後、モスクワ大学で学びます。大学では、続けて三つの学部で学びます。
1808年、文学部を卒業し、1810年には、法学部を卒業。その後、自然科学の
学部に入学しますが、この学部の終了は、戦争のためにできませんでした。グ
リボエードフは、その当時の最も教育ある人々の一人でありました。

 当時の大学付属貴族寄宿中等学校と大学には、将来のデカブリストたちが多く
学んでいました。18世紀終わりから、19世紀初めの進歩的作家たち(フォ
ンヴィージン、ノヴィコフ)や禁止されていたラジーシチェフの書の読書は、
進歩的若者たちの心の中に、国や社会制度への批判、あらゆる外国のものに対
する貴族の追従への批判を育みました。

 1812年、グリボエードフは、愛国的衝動にとらわれて、結成された軽騎兵隊
に志願兵として入隊します。しかし、軍の活動に参加することは、グリボエー
ドフには相応しいものではありませんでした。グリボエードフは退役し、
1817年に外務省の勤務につきます。


ペテルブルク

 グリボエードフは、1818年9月までペテルブルクで過ごします。これらの年
月は、彼にとって極めて重要な意味を持っています。正に、この時期に、ペテ
ルブルクに秘密の政治結社が生まれ、後になって(1823年)デカブリストたちの
「北の結社(Северное общество)」が形作られたからです。

 これらの進歩的な人々の仲間の間で、グリボエードフの政治的観点は形成さ
れ、彼の自由を愛する心は強まり、熱烈に祖国に奉仕したいという願望が育ま
れました。彼の知人や親しい友人たちの中には、グリボエードフがペルシアに
発った後に、秘密結社に入ったものもいます。

1817年に、グリボエードフは、プーシキンと知り合いになっています。当時の
一人はこう書いています。「プーシキンは、グリボエードフとの最初の出会い
で、明晰な知力と才能を正当に評価し、彼の性格を理解した。(Пушкин, с
первой встречи с Грибоедовым, по достоинству оценил
светлый ум и дарования, понял его характер.)」

 当時のロシアの進歩的人々を突き動かしていた根本の問題は、専制と農奴法と
でした。未来のデカブリストたちは、彼らの祖国にのしかかるこの悪を否定す
ることでは一致していました。しかし、話が専制を何で交替させるか(立憲君
主制か共和制か)、また、如何にこれを実現させるか、どんな方法で農奴制を
廃止するかという事になると、激しい論争が燃え上がったのです。

 グリボエードフは、文学の問題と演劇に強い関心を持っていました。彼は、当
時の有名な劇作家、А.シャホーフスキーの家にしばしば行き、多くの作家たち
と知り合いになります。その頃に、グリボエードフの文学活動が始まります。

 「知恵の悲しみ(Горе от ума)」の構想は、この時にグリボエードフに生ま
れたのです。ペテルブルクで過ごしたことは、グリボエードフには重要であっ
たでしょう。しかし、正にその時に、彼は首都を捨てることを余儀なくされま
す。決闘があり、グリボエードフは、その一方の決闘者の介添人であったから
です。決闘は厳しく禁じられていました。この決闘に参加したすべての者が罰
せられ、グリボエードフは、ペルシアに送られます。


東方での勤務

 1819-1821年、グリボエードフは、ペルシアで過ごし、(初めはテヘラン、
次にタヴリス(Тавриз)で)ペルシア語とアラビア語を学び、喜劇「知恵の悲
しみ」に取りかかります。しかし、それには時間がかかりました。1822年、グ
リボエードフは、カフカスの軍総司令官、将軍エルモロフのところ、外務秘書
官としてチフリス(Тифлис)での勤務に異動することに成功します。

チフリスで、グリボエードフは、デカブリストのキュヘリベケルと親しくな
り、文学の問題について語り合い、彼に喜劇「知恵の悲しみ」の場面を読んで
聞かせます。しかし、その喜劇を完成するためには、モスクワの生活を回想す
る必要がありました。エルモロフ(Ермолов)のお陰で、彼はモスクワとペテ
ルブルクで4ヶ月の休暇を得ることができました。


モスクワとペテルブルク

 グリボエードフは、1823年3月末にモスクワに到着します。その頃、彼は喜
劇の初めの2幕を書いていました。モスクワで6月まで過ごして、グリボエー
ドフは、戦後(1812年以降)のモスクワ貴族(階級)の生活を十分観察しま
す。6月初めに、彼は友人のベギチェフの村に去り、そこで、自分の喜劇と取
り組み、あらかた完成することができます。モスクワに帰り、彼はその原稿を
改良します。やがて、グリボエードフは、「知恵の悲しみ」を多くの家で読
み、大成功を収めます。

 1824年頃、彼は、ペテルブルクに去ります。ペテルブルクの友人・知人たち
は、有頂天になって彼を歓迎しました。グリボエードフは、作家や俳優たちの
家で自らの戯曲を読み、ここでも大成功を収めます。グリボエードフは、喜劇
の出版に関して奔走しました。しかし、検閲は、その戯曲の出版も劇場の舞台
での公演も許しませんでした。それでも「ルースカヤ・タリヤ(Русская
Талия)」(1825年)に戯曲の一部を公刊することができました。

 全く出版されなかったわけではなかったので、グリボエードフの喜劇は、広く
知られるようになり、多くの手書きの冊子でロシア中に広まります。デカブリ
ストたちのサークルで、特に広く読まれました。

 ペテルブルクで、グリボエードフは、デカブリストたちの間に新しい知己を得
ます。К.Ф.ルィレーエフ(Рылеев)、А.А.ベストゥージェフ(Бестужев)そ
の他の「北の結社(Соверный общество)」の活動家たちと知り合いになりま
した。彼らは、彼にすっかり秘密打ち明けます。グリボエードフは、秘密結社
の存在だけでなく、その蜂起の構想計画も知ることになったのです。



[5] 19世紀第一四半期--諸芸術 投稿者:惣田正明 投稿日:2003/06/04(Wed) 12:37  

芸術

 当時の建築では、その様式の特徴は古典主義であり、「アムピル(ампир)」
様式へと移る発展の中で、この時期最も広まっていました。アムピルは、列
柱のある荘厳な建築様式のことです。この時代の優れた建築家は、ペテルブ
ルクのカザン大寺院(Казанский собор)を建てたヴォロニヒン(Воронихин)
と海軍省の建物の設計者、ザハロフ(Захаров)でした。

 この時代の絵画は著しく貧しいものでした。特に、初めの20年間は。19
世紀の第一四半期に、初の肖像画家で、20年代に「ロシア風俗画--すなわ
ち、日常生活の場面を描く画家--の父(отец русского жанра)」となっ
たА.Г.ヴェネツィアノフ(Венецианов)」が現れます。センチメンタリズ
ムからリアリズムに移り、彼はロシア絵画の学派の創始者となりました。

 優れた画家として、傾向としてはロマン主義者であるキプレンスキー
(Кипренский)がいて、彼は、ロマン主義の精神に満たされたプーシキンの
肖像画を描きました。20年代には、壮麗な肖像画家で風俗画家として、農
奴農民生まれのВ.А.トロピニン(Тропинин)がでます。彼は、プーシキン
に最も似た肖像画の一つを描きました。構想において、ヴェネツィアノフは、
農民と農民の生活を描写する一方、トロピニンは、平凡な町の人々を描きま
した。

 彫刻では、当時わずか二つだけの記念碑が芸術的に価値があり、当時の市
民感情を満足させていました。これらは、ペテルブルクのスヴォロフ(Суворов)
(1801年)とモスクワのミニン(Минин)とのポジャルスキー(1826年)への彫
像で、二つとも古典主義様式でできていました。

 貴族たちの間だけでなく、商人階級、軍人、知識人や官吏、小市民の間で
も、音楽への関心が高まっていました。19世紀の第一四半期に、民衆の旋
律に基づく小詩曲(романс)や歌が最盛期を迎えます。この分野での優れた
典型的作品を、А.Н.アリャビエフ(Алябьев)(「うぐいす(Соловей)」)
(А.Е.ヴァルラモフ(Варламов)(「赤いサラファン(Красный сарафан)」)
「雪嵐(Метелица)」А.Л.グリリョフ(Гурилёв)(「霧の青年時代の空や
けに(На заре туманной юности)」)などの作曲家たちが創作しました。

 オペラ創作の分野では、А.Н.ヴェルストフスキー(Верстовский)が仕事
をしました。この時代に、音楽でのロシア国民楽派の創始者--М.И.グリン
カ(Глинка)しかし、彼の有名なオペラ「イヴァン・スサーニン(Иван
Сусанин)(1836年)と「ルスランとリュドミラ(Руслан и Людмила)」
(1842年)は、次の四半世紀になってやっと現れます。

 演劇の分野では、文学であったような様々な傾向の論争が進行しています。
劇場の舞台では、古典主義の悲劇やセンチメンタリズムの性格の戯曲、ロ
マン主義の戯曲が上演されていました。この時期のロシア演劇に特徴的なこ
とは、劇とオペラとの緊密な繋がりであります。劇場は、ペテルブルクやモ
スクワだけでなく、他の都市にも裕福な貴族地主の屋敷の中にもありました。
私有の劇場の舞台では、農奴の役者が演じました。

 農奴の人々の役者の中に、少なからず舞台芸術の優れた巨匠がいました。
農奴の人々の中から、優れた芸能人、ロシア芸能芸術のリアリズムの創始者、
М.С.シチェープキン(Щепкин)(1788-1863)が出ます。農奴の優れた役者と
しては、П.И.ジェムチュゴヴァがいました。この時代、演劇は、19世紀
の初め、社会文化的生活において、重要な位置を占めていました。



[4] 19世紀第一四半期--文学言語論争 投稿者:惣田正明 投稿日:2003/06/04(Wed) 12:36  

文学言語発達の問題に関する論争

 当時、文学言語に関する問題で激しい論争が生じていました。それは、過
激な反動主義者、海軍大将、А.С.シシュコフ(Шишков)の登場で始まります。
彼は、1803年、カラムジンとその追従者の文学的文体に反対して書いた最初
の労作--「ロシアの言語の古い文体と新しい文体についての論文(Рассуждение
о старом и новом слоге российского языка)」--を発表します。

 カラムジンは、宮廷社会の言語に基づき、生きた民衆の言葉を軽視し、多
くのフランス語の言葉や表現をロシア語に採り入れて文学言語を構築しまし
た。カラムジン一派の人々は、ロモノーソフの「三文体(трёх штилей)」の
理論を拒否し、「フランス語の貧しい基盤の上に(на скуднои основании
французского языка)」言語を発達させ始めたことを、シシュコフは暴
いたのです。シシュコフは、カラムジン派の人々の文体の洗練さと気取り、
外国の言葉による汚染を攻撃したのですが、彼の根本の立場は、文学言語の
発展を阻害するものであり、全く非学問的であり反動的なものでした。

 シシュコフの書物は、カラムジン派の側から猛烈な反撃にあいました。そ
の論争には、シシュコフの側からもその反対の側からも絶えず新しい人々が
参加します。論争の過程では、文学の進歩的活動家たち--デカブリストたち、
若いプーシキンなどは、シシュコフの言語観、カラムジンの言語観も共に認
めることができず、「シシュコフ派の人々(шишковист)」と「カラムジン
派の人々(карамзинист)」との論争は、保守的な貴族の陣営内での論にす
ぎないことが明らかになります。

 保守的な陣営の作家たちとは異なって、デカブリストたちは、高い市民の
気分を表現するためには、教会スラブ語の要素を利用することを拒み、文
学言語の発展の根底に生きた民衆の言葉を置くことを志しました。彼らは、
外国の言葉でロシア語を話すことに反対しました。不朽の喜劇、グリボエー
ドフの「知恵の悲しみ(Горе от ума)」は、ロシア国民文学言語の発達に
非常に大きな役割を果たします。

 本質的に政治的観点で、デカブリストたちと緊密に繋がりながら、ロシア
の文学言語の問題を解決したのは、天才プーシキンでした。



[3] 19世紀第一四半期--リアリズム 投稿者:惣田正明 投稿日:2003/06/04(Wed) 12:34  

リアリズム

 19世紀第一四半期に、ロシア文学に新しい傾向--リアリズムが確立しま
す。ゴーリキーはこう語っています。「人々とその生活の状況を真実にあり
のままに描くこと、それをリアリズム(現実主義)と呼ぶ。(Реализмом
именуется правдивое, неприкрашенное изображение людей
и условии их жизни.)」

 古典主義者たちは、主に、国家への責務という側面から人物を描き、そ
の生活、家庭や個人的生活に関心をもつことは極めてまれでした。反対に、
センチメンタリストたちは、人間の個人的生活、心の感情描写へと関心が移
りました。ロマン主義者たちは、人間の生の心、感情や欲望の世界を描くこ
とに関心がありました。しかし、彼らは、主人公たちに異常な力や感情、欲
望を与え、特別の条件下に彼らを置きました。

 リアリズムの作家たちは、人間を多くの側面から描いています。彼らは、
典型的な性格を描き、いかなる社会的条件の下で、作品の主人公が形成され
るかを示しています。この典型的な状況下で典型的な性格を与えるこの技法
がリアリズムの主要な特徴です。

 典型的というのは、何らかの社会的グループあるいは現象にとって一定の
歴史時代に特徴的であるきわめて重要な特徴がより鮮やかに十分に実現され
た形象のことを意味します(例えば、フォンヴィージンの喜劇のプロスタコ
ーヴァ--スコチーニンは、18世紀後半のロシア中層地方地主貴族の典型的
な代表者です。)

 古典主義者、センチメンタリスト、そしてロマン主義者たちの作品の根底
に横たわっていた葛藤も、また一面的でした。古典主義の作家たちは(特に
悲劇において)、主人公の魂の中で国家のために遂行する必要性の意義と個
人の感情・渇望との葛藤とを描きました。センチメンタリストにおいては、
根本的な葛藤は、様々な階級に属する主人公たちの社会的不平等の基盤の上
に成長したものです。ロマン主義者たちにおいては、葛藤の根本は、夢と現
実との不一致の中にありました。

 リアリズムの作家たちにおいては、葛藤は人生そのものと同じように、多
面的になっています。19世紀初めのロシア・リアリズムの形成において、
クルィーロフ(Крылов)とグリボエードフ(Грибоедов)が大きな役割を果
たしています。クルィーロフは、ロシア・リアリズムの寓話の創始者となり
ました。クルィーロフの寓話は、農奴制ロシアの生活の本質的特徴が、真
に深く描かれているものです。グリボエードフは、作品「知恵の悲しみ(Горе
от ума)」で、ロシア・リアリズム喜劇の模範を示しました。

 しかし、様々な文学ジャンルにリアリズムの作品の完璧な模範を与えたロ
シア・リアリズム文学の正真正銘の創始者は、偉大な国民詩人、プーシキン
でありました。



[2] ルィレーエフ 投稿者:惣田正明 投稿日:2003/05/15(Thu) 00:36  

 19世紀10 -20年代の文学運動においては、デカブリストの詩人たち
の作品が目立つ場所を占めています。

 ルィレーエフ(Рылеев)、オドエフスキー(Одоевский)、キュヘリベケ
ル(Кюхельбекер)、В.ラエフスキー(Раевский)その他多くの人が、
18世紀末にツァーリの圧制と農奴制に反対する闘争の旗を大胆に掲げたロ
シア最初の革命家、作家であるラジーシチェフに最も近い後継者として、ロ
シア文学史の中に入ってきます。

 中でも最も輝き才能豊かであったのは、「北の結社(Северного общества)」
の指導者であったルィレーエフでした。

 彼の生命は強制的に絶たれるのですが(デカブリストの乱の首謀者として
絞首刑にされる)、その詩の根本的モチーフから市民の詩人と呼ばれていま
す。


 「成り上がりの寵臣へ(К временщику)」

 この諷刺頌詩で、ルィレーエフは当時の人々に知られるようになります。
この詩は、当時、絶大な権力を振るったアラクチェエフ(Аракчеев)に対し
て向けられた諷刺でした。それは次のような始まりです。

  傲慢な、そして卑しく狡猾な寵臣
  君主のずるくおべっか使いで恩知らずの友
  荒れ狂う自らの祖国の暴君
  重要な高位に狡猾さで就いた悪人
   (Надменный временщик, и подлый и коварный
    Монарха хитрый льстец и друг неблагодарный
    Неистовый тиран родной страны своей
    Взнесенный в важный сан пронырствами, злодей!)

  ルィレーエフは、「傲慢な成り上がり者の寵臣(надменному временщику)」
を、民衆に対するあらゆる悪業のための報復が避けられない時だと脅してい
ます。「暴君よ、恐れおののけ!彼が生まれる。(彼とは民衆の復讐者であ
る。)そして、その時はいかなる容赦もしないだろう。」

 アラクチェエフ(Аракчеев)は、描かれた成り上がりの寵臣が自自身で
あることを認めないわけにはいきませんでした。そして、人々は詩人への残
虐な制裁があるものと息をのんで見守りました。しかし、成り上がりの寵臣
は「公然と告白することを恥じ、嵐の通り過ぎるのを待った。(постыдился
признаться явно, туча пронеслась мимо.)」のです。

 この詩は、芸術的特殊性からは古典主義に近いものでした。広く演説調の
問いかけ、絶叫的な言葉、教会スラブ語の古風な言い回しの語彙
(「взирать(眺める)」「потщусь(私は努力する)」「вострепещи
(震え上がる)」など)、繰り返しの多い傾向のある言葉の使用などが見ら
れます。

 しかし、後の作品の中では、ルィレーエフは、自らの市民的愛国的志向を
表現するために新しい芸術的形式を探し求め、絶えず広くロマン主義を採用
し始めています。


 「市民(Гражданин)」

 デカブリストたちの蜂起の直前に書かれた、小さな、しかしとても力強い
詩作品です。


 長詩「ナリヴァイコ(Наливайко)」

 長詩「ナリヴァイコ」は、未完の作品で、そのテーマは、16世紀の終わ
りのポーランド人の地主とのウクライナのコサックの国家独立のための闘争
です。長詩「ナリヴァイコ」の英雄は、民衆に選ばれたウクライナ・コサッ
クの首領であり、彼は「祖国のために剣を取った。(поднял меч за
край родной)」のです。

 長詩「ナリヴァイコ」は、ルィレーエフの他の長詩同様--革命的ロマン主
義の精神で書かれた作品で、民衆の自由への戦いを褒め讃え、ロマン主義的
に重要な英雄の形象を描き、ナリヴァイコとポーランドの地主との軍人らし
い決闘という鮮やかなロマン的絵画を与えています。ロマン主義的に描かれ
た民衆は、人々の心的体験や気分と緊密に結びつけられています。


 詩作品(Песни)

 ルィレーエフの作品の中で、デカブリストのА.ベストゥジェフ(Бестужев)
と共同で著作されたいくつかの詩作品(песни)は、特別の位置を占めてい
ます。その独自の特徴は、その構成において、民衆と極めて近いという点に
あります。これは、その内容自体、暴君のツァーリ、地主貴族、官吏たちに
よって奴隷にされた民衆の考えを伝えていることで、十分な評価が与えられ
ています。


 ゲルツェンの最も近い戦友、詩人オガリョフ(Огарёв)は、ルィレーエ
フの死に際し詩を寄せています。この詩のもとに、すべての進歩的な人々、
デカブリストの思想の後継者たちは署名する用意がありました。

 一揆が起こり、消えた。苦悶が目覚めた。
 ほら、五人の絞首刑にされた人々・・・
 私たちの心は、黙って戦慄した。
 しかし、生きた思想は羽ばたきをした。--
 そして、道は人生すべてに徴付けられた。
  ルィレーエフは、私にとって初めての光だった。・・・
  私にとって、魂の生みの親--
  あなたの名は、この世界で、
  私にとって、尊き遺言
  導きの星となった。
   私たちは、あなたの詩を忘却の彼方から奪い取る
   ロシアの初めての自由な日には、
   若い世代に見えるところで
   あなたの苦難の霊は
   崇拝の対象へと回復される・・・
  (Бунт, вспыхнув, замер. Казнь проснулась
   Вот пять повешенных людей ...
   В нас сердце молча содрогнулось.
   Но мысль живая встрепенулась --
   И путь означен жизни всей
    Рылеев был мне первым светом ...
    Отец по духу мне родной --
    Твоё названье в мире этом
    Мне стало доблестным заветом
    И путеводного звездой.
     Мы стих твой вырвем из забвенья
     И в первый русский вольный день,
     В виду младого поколенья,
     Восстановим для поклоненья
     Твою страдальческую тень ... )




[1] はじめに 投稿者:惣田正明 投稿日:2003/03/09(Sun) 23:01  

 掲示板を設置しました。

 ロシア文学史のページにお立ち寄りのしるしに、なにか書き残し
 てください。ご感想などがいただけると嬉しいです。