私の履歴書です

 氏名:小久保克道(コクボ ヨシミチ)

 19541114日  愛知県渥美郡渥美町に生まれる 
   


小学校の6年の頃、家の近くで初立池の建設工事が始まりました。初立池は、それまで雨水や乏しい井戸の水だけで農業を営んでいたこの地域に灌漑用水を導く豊川用水事業の一環として、渥美半島の先端にある平坦な田園地帯のほぼ中央部にハの字形に近接する二つの小山を、フィルダムタイプの本堤、副堤で堰き止めて、幹線水路の余剰水を貯留する調整池としたもので、私たちの地区にはこの池からパイプラインで灌漑用水が供給されています。この工事を見ていた私には、山を切り谷を埋めていく重機の姿が、鉄腕アトムも鉄人28号もかなわないであろう巨大な怪物に思え、この怪物によってゆっくりと盛り上げれれていく築堤の工事はとても興味深いものでした。

農家の長男として生まれた私は、将来は親の後を継いで農業をするつもりでいましたが、「こんなデカイものを造る人になりたいなあ」と漠然と思っていました。そんな頃、この工事の現場監督が三重大学の農業土木科出身だと言うことを聞き、大学と言うものもよく分からない私は「よし三重大学へいこう」と決心していました

 19733月  三重大学入学    

日本列島改造論が叫ばれ、土木建築業界が活気付いていたころ、私は難関

(?)を突破して三重大学の農業土木科に入学し初志貫徹を果たしました。 しかし、学生生活はというと、講義には出ず殆ど寝ていました。当時の友人は学生時代の私を思い起こすと、下宿の汚い布団にくるまって寝ている姿がまず浮かんでくるそうです。 

 19773月 Wコンサルタント株式会社入社

オイルショックがおこりトイレットペーパを求めて日本中が大騒ぎしていた頃、就職難で厳しい状況の中、Wコンサルタントに入社し、名古屋本社に勤務が決まりました(ほんとはSコンサルに入りたくて教授に推薦をお願いしたところ「Sコンサルは極めて優秀な人材のみと募集が来ているから」と却下されてしまいました)

入社直後、部長の机の上に実家の町内の図面を見つけ「ここは私の地元です、この仕事を担当させてください」と申し出たところ、なんと一式任せられてしまいました。ほ場整備の設計で簡単そうに思えたのですが、やはりプロの仕事は大変で、最終的には先輩諸氏に助けられて何とか成果品を完成したものの、ミスや不具合が多く、たびたび役所に呼び出されました。このときは何度も会社をやめようと思いましたが、今から思えばこれは部長の「愛のムチ」で、とても感謝しています。 また、日曜日に自主的に出勤して仕事をしていたら、次の日、直属の上司が、たまたま日曜日に会社に来ていた社長から注意を受けたという事でした。組織の中での在り方を教えられました。

 この会社では随分勉強させてもらいました。農林省の電算を使った(当時は農林省がプログラムを開発・保有しており、農政局管内の技術事務所と言うところに出向いて電算を使用していた)農地造成設計、排水計画検討業務での不定流のシミュレーション、本社では初めてだったダムの計画検討業務、水資源開発公団発注のデカイ揚水機場、湛水防事業の排水機場、堤防が流されても橋は残したいといわれて設計したダムのような重力式橋台、等々、思い出深い仕事が数々有ります。

今から思えば、とても良い会社だったのですが、工期に追われ残業続きの毎日に耐えきれなかったのと、役所の下部のようなコンサル業界に愛想を尽かして、たった6年で辞めてしまいました

 19835月 Tエンジニアリング株式会社入社

当時、福井県敦賀市では公共下水道が一部供用開始となり、市内の水道設備業者は今後増大する下水道関係の仕事への対応に追われていました。こんな中、市内で管工事を営む数社が新会社を設立することになり設計技術者を探していると言うことで、当地の知り合いから私の所へ問い合わせがあり、この会社に入る事になりました。

ここでの仕事は、宅内排水の下水道への接続工事の申請書類作成、上下水工事の施工管理業務、建築設備関係の設計及び施工図作成、その他諸々で、仕事は前の会社に比べ随分楽でしたが、殆どが単純作業の繰り返しでした。暇だったので、土木管施工管理技士、管工事施工管理技士、下水道技術検定二種、二級建築士の資格を取得しました。おまけに嫁さんも

GETしました。

 

 19897 小久保設計設立

もともと長男で家に戻らなければならない身の上だったので、子供が一歳になった年に故郷の渥美町に帰ってきました。敦賀での経験から建築設計(特に住宅の水廻りの設備設計)に興味を持ち、一級建築士をとって建築事務所としてやっていこうと思っていたのですが、失業保険欲しさに職安から紹介されて面接に言った測量設計会社から土木設計の仕事を依頼される羽目になり、期せずして土木設計事務所の小久保設計が誕生してしまいました(この会社から届いた注文書に「小久保設計」と書いてあったのでこの名前になってしましました)

仕事をする場所もないまま仕事が入ってしまい、とりあえず自宅の縁側の端に製図板をおき、最小限の製図用具で仕事を始めました。この時期はちょうどバブルが泡立ち始めていた頃なので、小さな地元の測量設計にも仕事があふれており、業務の入札前から仕事の下請け契約の確認を受けることもよくありました

19906月 Wコンサルを辞めてから暫く縁のなかったパソコンに久々に出会いました。Wコンサル当時は、ベーシックでプログラムを組んで動かしており、日本語入力など出来なかったのですが。画面がカラーで、プログラムを組まなくても使えて、しかも処理スピードがメチャメチャ早い、知らぬ間にこの世界は変わっていました。

19929月農業用倉庫として建てた(ちょっとした理由がありまして)建物の二階に事務所を移し(この前に縁側から八畳の部屋に移っていましたが)、CADシステムも導入しました。CADシステムは周辺機器も含め一式 10,000,000(ゼロ7)で、とても採算性は無いと思いましたが、時代の波に乗り遅れないようにと決断しました。しかしこの決断は少々焦りすぎたようでした。その後CADはどんどん安くなって、ついにはタダのCADまで出てきてしまいました。

 

 19997月現在

事務所設立後11年目を歩みだしました。相変わらず親木に寄生する宿り木のような下請け事務所を細々と続けています。最近は親木のコンサルさんも元気がなくて、事務所の存続も危ぶまれている状態です。私たちの年代だと、映画「黒部の太陽」を見て土木の世界に入った人が多いのですが、私の場合、そのきっかけが、あの巨大なアーチ式ダムでなくて、末端調整池の土堰堤であったことが、今の事務所の限界を物語っているのかもしれません。しかし、名も知らぬ技術者達の作り上げたあの池が、今も、この地域の農業を支えている。このことが、小久保設計を支える大きな力となっています。

 20007月現在

ミレニアムという言葉が盛んに使われていた1月から、21世紀まであと半年をきった今日まで、今年はずっと仕事に追われています。去年はこの時期殆ど遊んでいましたから、仕事があるのはいいことですが、将来的展望は相変わらず暗雲立ちこめた状況です。11年度業務では初立池に用水を導く豊川用水幹線水路改修の基本設計業務に参加する事ができ、30年ほど前の先輩諸氏の設計にふれる機会に恵まれました。水理計算の誤差を前提とした独創的な施設計画、使う人のことを考慮した構造計画、安全手すりの細部の収まりにまでこだわった詳細図が書かれた設計図、どれもこれも感心させられるものばかりでした。現在では設計が民間発注となり、設計作業の目的が利益の追求になってしまい、さらに会計検査等も厳しくなっているため、現行の基準に甘んじた無難な設計が良しとされている傾向がありますが、マウスを2回たたけば引ける一本の線が、20年、30年残る構造物を作る基になっていることを再認識して、次の世代の技術者達に、どんな些々ことでもいい、何らかの感動を与えるような、そんな仕事をこっそり残していきたいと思っています。

 20017月現在

何故か今年は忙しいです。このご時世に何本も仕事を抱えていられる事はありがたい事ですが、体力の限界を感じています。今やっているのは牟呂用水のチェック工の変更設計です。早くから予約の入っていた仕事ですが、6月末に打ち合わせにいき、7月第一週に一般図を仕上げる期限を切られたことから始まり、毎週月曜日期限の宿題をこなしてきました。先日やっと1つが終わってほっとしていたら、もう一つのチェック工が早速動き出しました。盆明けまでには他の仕事も仕上げなければなりません。その上まだ2本の仕事が置いてあります。こんな状態でこの先やっていけるか心配です。もっとも、ほんとうの心配は、この先も「こんな仕事でやっていけるか」なのかも知れませんが、とにかく目の前のものを処理する。そんな思いで、暑い(らしい)夏を過ごしています。

 20027月現在

「もはや公共事業の復活は、絶望的に望めない」新聞でこんな文面を目にして始まった今年も、今のところ仕事が切れて遊ぶ事は有りませんが、仕事の内容は、遅れている物件や、急を要する物件の「お助け業務」が多く、日雇い労務者的な生活が続いています。今年度の農業土木関係委託業務の発注状況を見ると、昨今の状況下では比較的大きな金額の業務があり、取引先コンサルさんもこれを受注しているため、今後の仕事の受注には大きな不安は持っていませんが。現在の事業は以前に採択されたもの継続事業が多いこと、最近の新規採択事業が少ない事を考えると、現在の農業土木関係委託業務の発注状況は、消える直前に一瞬輝くローソクの炎のように思えてなりません。また、最近、コンサルさんから委託される仕事の内容や委託金額は、この仕事を続けていく必然性や意欲を感じさせないものが殆どで、他の仕事への変更も色々考えては見ましたが、可能性の見いだせる物が何一つ有りませんでした。CPUの能力が最近のソフトについていけないPCの買い換えや、新しいソフトの導入に踏ん切りが付かず、日当稼ぎに没頭する今日この頃です。

20037月現在
 今年は事務所開設後
15年目の年となり、技術士事務所として新たなスタートを切る年となりました。個人の場合、技術士となったからと言って業務の受注上有利になるわけではなく、最近の業務内容からすると、むしろ邪魔になるのかも知れません。しかし、これまでのような自己満足の技術力を商品とするのではなく、公的に認められた技術者として行動が可能になることは、事務所の将来にかすかなな希望を与えてくれるものであり、このことを大事にしていきたいと考えています。

20047月現在 
 
 今年は地区の役員からも解放され、仕事に打ち込める環境にはなりましたが、仕事量とその内容は益々低下の一途をたどっているという感じです。先日、初めて技術士の名称を掲げた仕事をしました。こういう仕事で、ずっとやって行けたらと思うのですが、このような業務の量的なものと報酬額を考えると可能性は極めて少ないと思われます。春に渥美町と田原市に指名願いを出しましたが、吸収合併を控えた渥美町から発注される物件はなく、田原市にはコネがありません。そもそも、どうやて営業して良いのかも分からないのも、情けない事です。何か新しいものを探さなければ!と思いつつ、雑物処理で食いつなぐ日々が続きそうです。

20057月現在   
  今年は、順調に仕事が入り、遊ぶことなく仕事をしています。ホームページがきっかけで新しい顧客が出来たり、たまたま紹介されて急ぎの仕事をやった、その会社の支店から引き続き仕事が入ったりと、仕事の受注と言う点では、有り難い状況が続いています。業務の入札前から予約が入ったのも、開業当初以来です。しかし、収入面では、相変わらず厳しい状況で、昔のような華やかを取り戻すのは、殆ど不可能でしょう。この先、どうなっていいくか分かりませんが、仕事の依頼がある限り、この仕事を続けて行きたいと思っています。

20067月現在
 今年は、仕事はあるものの時間の制約の厳しいものがなく、週最低1日は休みを取りながらのんびりやっています。これは、仕事に集中できる時間が増えた事もあるでしょうが、仕事量が減っているのが一番の原因でしょう。急ぎの仕事の問い合わせも来ますが、殆ど断っています。無理してやっても酬われる報酬が少ないからです。収入面を考えると今のままではダメなことは分かっていますが、単価の低い仕事の数をこなしても骨折り損のくたびれ儲けであることを、この春、さんざん思い知らされました。この仕事で高収入を得るのは殆ど無理になって来ていますが、提案した案に感謝の言葉をもらったり、悩んだあげくに意見を求められたりすると、お金に換えられない報酬を得た気持ちになり、これが仕事を続けていく原動力となっています。

2007年7月現在
 今年の年度末は体調不良で稼ぎ時に仕事をキャンセルしていましましたが、5月に、久々にまとまった大きな仕事が入ったので、今はこれに打ち込んでいます。市役所の指名にも入るようになりましたが、受注の見込みのない業務にわざわざ入札に出かけるのが煩わしくて、某業務で入札辞退書をだしらた、その後指名に入らなくなりました。低迷するこの業界のなかで、発展を望むより、維持・継続が重要で、そのためには下請業に撤したほうが良いと思えてきました。事務所設立後19年目も、また、一人で歩んで行くことになります。その足どりはかなり重くなりましたが・・・

2008年9月現在
 今年は春からずっと忙しく、このページの更新が遅くなってしまいました。最近は事業量の減少で業界の経営状況は何処も厳しいようですが、人員削減や下請業者の廃業の影響か、仕事の依頼が多くありました。特に、このホームページを見たという新規の依頼者が多かったのですが、得意先の業務と重なってしまい、一つも受ける事が出来ませんでした。もっとも、仕事は忙しいものの、収入の方はそれほど伸びていません。これは、儲かっていない客先を相手にしている以上、止む終えない事なのでしょう。思い起こせば、今年は独立して20年目になります。20年続けてこられたと言うより、20年経っても、結局、この仕事から抜け出すことが出来なかったというのが実感ですが、今後はなおさら転職が難しくなるので、この仕事を続けざるを得ないことになるでしょう。最近の仕事では、客先の担当者は、私が独立したころ小学生か中学生ぐらいだった人達です。彼らにとって、私は年老いたオヤジに見えるのでしょうが、仕事の面では、頼れるオヤジになって、今後も、この仕事を続けて行きたいと思っています。

2009年7月現在
 昨年秋のトヨタショックを対岸の火事と受け止めていましたが、その影響は大きかったようで、今年はなかなか新しい仕事が始動しません。去年の今頃は肩凝り・眼精疲労と戦いながらPCにへばり付いていましたが、今年は健康的に海辺のウォーキングなどをしています。昔は景気対策と言えば公共工事で、景気が悪くなると仕事が忙しくなったものですが、最近は矛先が変わってしまい、公共工事は無駄使いの代表として扱われ、社会から冷たい目でみられるようになっています。農業土木事業への風邪あたりも同様で、地元紙も東海農政局管内の国営事業について、事業の不要論や、事業費の使い方の問題点などを大きく取り上げていました。ここで指摘されている内容には、確かに頷けることもありますが、現場の技術者達は皆、それぞれの責務を果たすために奮闘しており、毎日遅くまで仕事をしているコンサル技術者たちの努力の結果が、無駄な物を作ったと評価されるのは大変残念な事です。時代と共に必要とされる技術や職業は変わっていくものですが、扇風機やエアコンの普及した今も扇子を作る職人がいるように、たとえ僅かであっっても、必要とされる事がある限り、農業土木の技術者でいたいものです。

2010年7月現在
景気低迷による公共工事減少に追い打ちをかけるような政権交代による予算の大幅な縮小で、いよいよコンサル業界も存続の危機にさらされてきました。農業土木事業そのものの意義が問われている今、農業土木技術者の未来に光りは見えません。どうあがいても、必要の無いものは存続出来ないので、変わっていくしか無いのですが、どう変わるかが、10年来考え続けて答えの出せない難題となっています。結局は少しでも仕事のあるうちは、それにしがみついて行くのでしょう。ある講習会で、行政の要職にある方が「政策や、計画について批判されることには(色々な考え方があるのだから)まだ、耐えられる。しかし、出来てしまった構造物の悪さを指摘されると、どうしようもなく困ってしまう」と言われていました。これは、コンサル技術者が反省しなければいけない事だと思います。たしかに、これまでは忙しさのあまり十分な照査がなされていなかったことは否めないでしょう。しかし、これからは、本当に必要なものだけを作る時代へと変わっていきます。次世代に残す立派な仕事が出来るよう、助言や協力の出来る存在として何とか生き残りたいものです。

2011年7月現在
3月に起こった東日本大震災は、土木構造物の自然災害に対する無力さを強い衝撃をもって世間に知らしめた。社会生活の安全・安心を目指した土木技術は安心を与えたことが安全の障害になったことを反省させられた。また、農業土木は農業生産の向上、農業所得及び農村生活の向上を目指し、自然の影響を受けない安定した農業生産のための基盤を築いきており、このお陰で守られた農地は多いと思うが、風評被害の例に見るように、農業という職業の安定には、生産だけでなく、消費が安定することが重要な時代になっていることも明らかになった。このような中、復旧・復興に対する学者の提言や国の方針においてはハードとソフトを合わせた方策が語られており、我々の技術の存在価値がますます減少していくことを感じている。さらに不景気、公共事業縮小に加えられた復興予算の確保は、今後の農業土木事業の縮小を余儀なくしている。農業土木の技術で生きて行くのは難しい時代になったが、今後行われていく復興事業の中で、何らかの役にたてる仕事ができればと考えている。