先人の偉業を思う

我々の先祖たちは、有史以来、土地を拓き、水を治めるために心血を注ぎ、この国土を築き、守ってきました。この「土地」と「水」、すなわち「水土」。この「水土」に働きかけて人々が豊かに、安全に暮らせるよう努力を尽くしているのが、我々農業土木の分野です。

これは、農業土木学会が創立70周年を記念して出版した「水土を拓いた人びと」の「まえがき」にかかれている文章です。この本には北海道から沖縄までの各県において、近世から戦前までの間に、地域開発に貢献した人々の業績が書かれており、技術屋として考えさせられる内容も多々あります。その中の一つをここに紹介しましょう。

 

この池は香川県の西端で愛媛県境に近い大野原の山間にある豊稔池です(写真は上記本より)この池

は大正末から昭和初年にかけて築造されたもので、その堰堤はマルチプルアーチという形式のダムで、

平成9年、国の文化財保護審議会の答申を受け「登録有形文化財」として登録されており、NHKテレビ

でも紹介されたことがあります

この池を紹介する章は、この池の築造に事業の推進者として尽力した加地茂治朗という人の功績を讃

える内容が主となっていますが、技術屋として興味を持つのは、やはりこのダムの構造形式の選定と

構造解析の手法です。日本で実績のないこのような構造形式を何処から仕入たかの記述はありませんが、

このような画期的な形式を選定し設計する事は、単に理論や技術の収得の努力だけでなく、相当な決断

力と実行力が必要とされたことと思います。この時代に片持ばりやアーチの解析理論があったのか定かで

はありませんが、あったとしてもその程度でFEMなどあろうはずもないこの時代に、その設計の確かさ

を信じ、果敢にその築造に望んだ当時の技術者には敬服の思いのみならず羨望の念さえいだいてしまいます。

この工事には、工事人夫として地元農民が出役しています。古来より水利の便が悪く、干ばつともなると田

ことに掘られた井戸から、水を汲み上げて田に灌水するなど、昼夜の別のない水との壮絶なまでの苦闘を経

験してきた農民たちにとって、この工事の意義は重大で、その作業にも自ずと力が入ったことと思います。

この章の執筆者は工事期間中に人夫間の紛争や怠業などの不祥事がなかったことを加地茂治朗の指導力によ

ると述べていますが、私は、それだけではなく、人夫である農民たちの工事に対する認識と期待の気持ちも、

大きな要因となっているのではないかと思います。

現在の土地改良事業計画設計基準には、このマルチプルアーチダムの記述はありません。ダムタイプの選定

として、フィルダム、重力式コンクリートダム、アーチダムと分類されていますが、マルチプルアーチダム

は内部応力的にはアーチダムの利点を生かしていますが、堤体の安定性の面では、重力式に近いものがある

ように思います。当時の技術者たちが、どのような安定計算をしたのが大変興味のあるところですが、私には、

このダムが水圧に耐えている抵抗力は、滑動抵抗力や地盤耐力といった力学的な力だけでなく、技術者の信念

と現場で働いた農民たちの熱意が大きな力となって、70年たった今もなお、大きな水圧を支え続けているよう

に思えます。