21世紀の農業土木
T はじめに 学生時代、農業土木を英語に訳すとIrrigation, Drainage and Reclamation Engineering と習った。つまり、かんがいと排水と開拓に関する技術を意味するものである。ところが最近では農業に対する社会的価値の変化と、それに伴う農政の改革、国民社会的な価値観の変化により、農業土木事業も多岐にわたるようになり、その技術範囲も限りなく広がっている。その反面、景気の低迷と公共事業に対する風当たりの強さから、その事業量は減少しており、民間の農業土木技術者にとって将来的な展望は暗雲立ちこめた状態となっている。今、新しい世紀を迎えるに当たって、これまでの農業土木を振り返りながら、新しい時代を迎える農業土木の未来を考えてみることにする。 U 農業土木事業の変遷 戦後の農業土木事業は農政の変遷に伴い次のような変遷を成してきた 1.第一期(昭和24年〜昭和35年) 昭和24年の土地改良法制定により、戦後の食料不足に対応するための食料増産対策事業 として農地開発やかんがい排水事業を中心とした事業が進められた。 2.第二期(昭和36年〜平成2年) 昭和36年農業基本法が制定され、農業基盤整備事業として、生産性の向上と農業生産の選択的拡大を目的とする事業が行われた。農村整備事業が盛んになったのもこの頃からである。 3.第三期(平成3年〜平成10年) 農業基盤整備事業が農業農村整備事業という名称になり、生産基盤整備、農村整備、農地保全管理の三本の柱建てを明確にして事業が進められた。この時期の事業の特徴を示すものとしては、土地改良施設の公益的機能の評価に対応した「水環境整備事業」、農業用用排水施設の水質浄化機能の活用を推進する「環境保全型かんがい排水事業」、ウルグアイ・ラウンド農業合意の受入対策として創設された「担い手育成整備事業」情報化社会への対応として進められた「農村総合整備事業(情報基盤整備型)」及び「田園地区マルチメディアモデル事業」などが上げられる。 4.第四期(平成11年〜) 平成11年、食料・農業・農村基本法が制定され、食料の安定供給の確保 農業の持続的な発展、農村の振興、農業農村の多面的機能の発揮の4つの基本理念が掲げられた。これは昭和36年の農業基本法を改正するもので、新農基法として位置付けられ、農業土木事業にも新たな展開を要求してきている。特に多面的機能についてはWTOにおいて日本政府は強くその必要性を主張しており、具体的な事業としては、従来水路が持っていた景観、親水、防火用水など地域用水としての機能を発揮できるようなかんがい排水事業や、農村の資源を自分たちで評価しそれをそだてて美しい田園空間を作っていこうというソフトの色合いを濃くした田園整備事業が進められている。 (U.1〜4についは、農業土木学会誌99/10,2000/1を参照した) V 私の歩んだ農業土木 私が大学に入ったのは昭和48年、農業土木のコンサル会社に入ったのが昭和52年、以後昭和58年までこの会社で農業土木の設計業務にあたったが、この時期は前記の事業変遷を区分した第二期になる。大学で学んだ「労働生産性の向上」「土地生産性の向上」と言う言葉は業務の上でもよく現れ、仕事の内容も圃場整備、農地造成、がんがい排水事業などが多かった。個人的には圃場整備や農地造成の設計が多かったが、国営の農地造成事業で、設計業務を進めている途中、受益者から後継者が無い事を理由に工事の中止を求める声があがり、契約上の必要のみのために図面を書いた事もあった。行政の目指す農業と、加速度的に進展する経済社会のなかでの農家の考える農業とのひずみが、この頃から出始めていたように思う。また、当時係わった国営開拓事業で、完成後、計画当初に予測したような農業収益が上がらず、受益者が事業費の地元負担金の支払いを拒否するような事例もあった。 訳あって農業土木を離れ、再び農業土木の世界に戻ったのは、UR対策で農業土木事業が活気づいた平成6年ごろ、前記の第三期にあたる時期であった。農業土木の分野でも集落排水事業として下水道工事が行われるようになっており、水環境整備事業の公園施設の設計など、以前のコンサル時代とは様変わりの業務が行われていた。この頃からは、コンサル会社からの委託として設計業務を受けていたため、計画論的な面まで及ぶ業務は少なくなったが、実務的な面で特徴的だったのは、集落排水などは別として、まず「既設」があることだった。特に水利施設については過去の施設の更新が殆どで、既設の機能を維持しながらの水路改修工法や、パイプライン更新工法、ファームポンド改修工法などの検討が、設計業務の中でも大きいなウエイトを締めるようになっていた。このことは、農業の生産基盤整備のための施設作りを目指してきた農業土木事業が、ハード面では既に完成されており、現在は維持管理の時代にはいっている事を物語っていた。また、農業土木事業に対する受益者の対応も変わってきており、本来申請事業であるはずの農業土木事業が、UR対策費としてばらまかれた予算配分のため行政主導型で計画、推進されるものが多かったことから、農業土木事業が景気対策やゼネコン対策の無駄な公共事業と見なされ、大型の農道工事で、道路用地としての農地の提供などに受益者の協力が得られなかった例や、取水堰改修工事において、この堰の受益者である農地所有者が埋戻用土の仮置場としての土地の提供を拒んだりする例が見られた。 最近の業務としては防災事業としての、ため池改修事業に関するものが多いが、これら事業の目的は人命、人家、公共施設へ被害を及ぼすことの防止であるため、農業用施設としての機能向上が計画されることは殆どない。取水施設など新設はするもの、機能性や管理方法など殆ど従前と変わらないものとなることに、農業の為の農業土木を認識している私としては歯がゆいさを感じるが、これは事業の性格上の制限によるものだけでなく、受益者自身が望んでいない側面も見え隠れしている。 私が歩んできた農業土木を振り返る時、その完成を待ち望まれるような業務に携わった記憶がない。時代のせいなのか、自分の居場所が悪かったのかは定かでないが、幼い頃、豊川用水の末端調整池の築堤工事に刺激され、農業土木事業の恩恵を目の当たりに見てこの世界に入ってきた私にとって、その夢は果たされなかったように思う。 W 大学から消えた農業土木 平成12年4月、農業土木の伝統を誇る我が母校から農業土木の名前が消えた。我々は農学部農業土木学コースを卒業したのだが、昭和62年、農学部が生物資源学部に変わった。これは、大学改革論の中で、農業教育の存在意義の希薄化が取り上げられ、全国的な農学部の改組が行われた結果であった。しかし、農業土木学コースについては、その伝統と就職対応における社会的ニーズから、名称、組織とも従来の組織体系が継承されたものと思われたが、その13年後、新たな教育改革のあおりを受け、生物資源学部は資源循環学科、共生環境学科、生物圏生命科学科の3学科となり、農業土木の名前は無くなった。昨年秋のクラス会で、助教授となって母校に在籍する同級生から学科の詳細についての説明を受けたが、同級生たちは皆、母校から農業土木の名前が消えることの寂しさを隠しきれないでいた。 このような動きは当然他の大学でも見られ、農学部と工学部が共同で「環境理工学部」を創設し、農業木部門が環境デザイン学科として農学部から分離した大学や、農業土木コースが工学部に移行することにより事実上消滅した大学もあった。 大学教育における農業土木の取り扱いを見ると、明らかに農業土木技術者の不要論が浮かび上がってくる。もちろん、これは、これまで培ってきた来た農業土木技術を放棄するものでは無く、それを応用した方向転換を強いられているのだろうが、「農業」も「土木」も意識することなく学部を選択し、卒業してくる学生たちが。我々農業土木技術者の後輩となりうることはないと思えてならない。 X 農業土木の存在価値 改めて考えてみると、そもそも農業土木とは何だったのだろうか? 農道整備や集落排水整備など、その予算の出所が農林予算であるために農業土木事業として取り扱われてきたが、技術的には一般土木と変わるところは無く、目的物を造るためには区分の必要性は全く無いように思われる。パイプラインや用水路工事にしても、特に農業土木である必要はなく、省庁の縄張りの上にのみ、農業土木が存在してきた感もある。国の省庁再編計画にあたり、当初、建設省の河川部門を建設関係から分離させ、農水省の構造改善部門に統合して新たな組織とする案が出され、河川協議等で苦労させられる農業土木技術者にとっては朗報と思われたが、建設業界の強い反発もあり、農業土木関連を除く全ての建設行政は国土交通省という巨大な組織として統合されることになった。これまで農水省の構造改善局が進めてきた農業農村整備事業は、農水省農村振興局に受け継がれ、ここに農業土木が存続することになるが、建設部門としての存在価値は次第に薄れていくものと予想される。 Y 21世紀の農業土木 平成10年閣議決定された「21世紀の国土のグランドデザイン 地域の自立の促進と美しい国土の創造」の中で農業農村の関連部分を見ると 1. 多自然居住地域の創造 都市と農山漁村との間で、相互の機能分担と連帯を図りながら、限られた社会資本の効率的な活用、地域資源の有効利用等を図るもので、農山漁村の分担機能として、豊かな居住の場、自然環境、地域文化等を活用した安らぎの場、新鮮で安全な農林水産物の生産の場としての役割が期待されている。これに対する国の施策の方針として、省庁間の適切な連帯の下に、効率的投資を進めることが上げられている。 2.国土の保全と管理 国土の持続的な利用と健全な水循環の回復を可能とするため、歴史的な風土性を認識し、河川、森林、農用地等の国土管理上の各々の役割に留意しつつ総合的に施策を展開するものとされている。ここで農用地の管理の必要性については、棚田等水田の雨水貯留、土砂流出防止、平地水田の遊水機能、休養・休息等のレクレーション、うるおいある水辺環境の創出等の公益的効果の発揮が上げられている。 (Y.1.2 については 農業土木学会誌200/8を参照した) 「21世紀の国土のグランドデザイン」ににおいても、農業の多面的機能の重要性が示されており、今後、農業土木はこの方向に向いていくことは明確である。既に生態系の保全や環境対策に関する事業が農業土木事業として各地で進められているようであるが、従来の土を拓き、水を治めてきた農業土木の技術はどの様に生かされているのだろうか?経済成長をひたすら目指してきた日本の社会が、ものの豊かさよりも心の豊かさの重要性に気づいたとき、古里への郷愁のごとく農業農村に目を向けたことは、社会的に望ましい事ではあると思うが、都市化・工業化の経済社会のなかで、効率的で生産性の高い農業基盤整備を目指してきた農業土木の技術が、農業土木事業のなかでも、その活躍の場所を失って行くのは、それに携わってきた技術者にとっては忍びないものがあるのでは無いだろうか。しかし、現実的に今後、農業土木に求められていく技術は「造る技術」ではなく、これまでたゆまぬ努力で築き上げてきた農地や水利施設を「生かす技術」であり、これを「守る技術」である。「農業土木」という言葉は21世紀のうちに無くなるかも知れないが、新しい時代の中で農地や農業水利施設に係わっていく技術者達は、農業土木事業に尽力した先人の業績を決して軽んずることなく、それを最大限に生かし、社会資本整備の一端を担う責任を認識し、新しい時代の国土造りに貢献していくべきであると考える。 |