FAIRY SWORD

聖戦歴20105「先帝第2皇子」


不当に帝位を欲するのなら、もはや皇子ではない……


<1>

「ありがとっ♪おねーさんたち。また、買いに来てねっ♪」

アレンは、大量にアクセサリーを買ってくれた少女の一団に、愛想良く手を振った。そして彼女たちの姿が見えなくなると、手にした銀貨をみてニヤリと笑う。

「へへっ、儲けたぜ。今日のノルマはこれで達成っと」

ここは人族が羨む理想郷、FAIRY SWORDの国境に一番近い街、ワラである。人族の王国であるメルティギアに属する。メルティギアの王宮は隣りのメギアという都にあるが、小高い王宮はこのワラからも、良く見える。

ワラは、お忍びの精霊人や、この地の産物である茶葉を求める商人たちで溢れかえっている。街は広大なバザール広場を取り巻くように作られ、このバザールには、一日一食分程度の場所代を支払えば、誰でも店を出すスペースが与えられる。

「天気はいいし、儲けは順調。言うことないよなっ♪」

「…アレン」

後ろから突つかれ、アレンは胡座を少し崩して肩越しに振り返った。

「なんだよ?」

「おまえなあ…あの銀のピアス、あんなに高くないだろ。まだ13だろ?その年でぼったくることを憶えてどうする。父さんは情けないよ…」

ため息をつくのは、アレンが売る細工物品を作っているティド、だった。彼は、削っていた石に息を吹きかけ、袖で擦る。

「手間はかかってるが、材料は屑ばっかり使ってるんだぞ」

「安い物は高く売れ、高いものはもっと高く売れって教えたのは、ティドだろ」

「名前じゃなくて、お父さんと呼びなさい」

「ティドのような甲斐性無しをオヤジに持った憶えは、ねーよ。だいたい、その顔で父さんってのは、不自然だろ」

実際ティドは、女性とも男性ともつかない綺麗な顔をしていた。といっても、立ったその姿は、高身長と骨張った体で辛うじて男と判別がつく。年も、25〜26歳で充分通る。緩やかに波打つ長い髪は純白で、深い藍色の瞳をよくうつした。

ティドもアレンも、精霊人なのである。精霊人の生き血をすすり生肝を食らうと、永遠の命を得られると信じている人間も多い。人に混じって生活する者も少なくはないが、それでも素性を隠し、点々と居場所を返る必要があった。

精霊人の寿命は、人間の寿命の10倍もあるのだ。それが「永寿」を信じさせる一因でもある。二人も、人の欲望から身を守るために旅を続けている。その生活の手段として、宝石の原石や細工物を売っているのである。

アレンの言葉にティドは一瞬息を詰まらせ、それから苦笑いを浮かべる。

「俺との親子関係、まだ疑ってるのか?しょうがないなあ、アレンは。そういうところ子供なんだから」

「ティドに子供扱いされると、何か腹立つ」

と、アレンはきつくならないように注意しながら言い放ち、スカーフを丸めてティドに投げた。

「石を削る時は、口に当てとけって言っただろ。そうでなくたって、最近咳がひどいんだから。夜中に咳が止まらなくなっても、看病しないよ」

「でも、これをつけてると怪しい人に見えないか?どうも強盗っぽくて…」

「ティドは文句が多いぞ。文句言うと、今日の小遣い、無しだ」

これは、軋んだ自分とティドの仲を元通りにする、一番有効なセリフだった。ティドは、アレンの袖を掴んでくる。

「それはひどいんじゃないか?!アレンが財布の紐を握っているのは、どうも納得いかないぞ!」

「いよいよ、小遣いは無しだな…」

言いかけてアレンは、混雑する通りをゆったり歩いてくる人物に気が付いた。膝まである長い黄金の髪、周囲の人間たちとは少し違う衣装。精霊人だ。FAIRY SWORDの貴族が、お忍びでバザールに来たに違いない。

「ティド、獲物見つけた」

アレンは、ティドの腕を掴まえて引き寄せると、耳元で囁いた。

「今日の最後の稼ぎだ。あの精霊人から金貨巻き上げたら、メシ食いに行こう」

「あの精霊人って…」

ティドが最後まで言わずに口を噤んだ隙に、アレンはティドから離れて通りに向き直った。そして、黒い布の上に並べた細工物の数々を整える。

歩いてきた人物は、やはりあちこちの店から声をかけられていた。

このワラの街から一番近いFAIRY SWORD(FASD)内の街が、カシルガシェという小さな農村である。
そのためワラのバザールには、精霊人の農夫が出す店も珍しくはなかった。そしてカシルガシェは、世界最強の軍隊と呼ばれる「エリア精帝軍」の最北端陣地があるのだ。

それ故ワラは、他の人族都市に比べ、精霊人にとっても人族にとっても、そして商人たちにとっても種属の均衡が保たれた、安全な街だった。

とはいえお貴族様が、供も付けずにお散歩かよ?

やはり、人族より性別の区別が付けにくい。が、アレンは彼を男と見定めた。左足に、負荷が掛からないようにして歩いている。

「そこのおにいさん!何か買わないか?!見て行くだけでもいいよ!」

アレンの威勢のいい声に、彼は立ち止まった。

膝までの、針のように真っ直ぐな長い金髪が揺れる。深い緑の豪奢な服から、何か甘い香りが漂った。

「綺麗な細工物だね。安くしてくれたら、買うよ」

彼は髪の毛を無造作に掴み、それを抱えるようにして屈む。声は少しハスキーだが、落ち着いて優しく響いた。茶色掛かった金色の瞳、透けてしまいそうに白い肌、繊細な容姿。精霊人の中でも希少な、「遥精霊(ようせいれい)種」に違いない。

ただ、左の目をつぶったままだった。

「どれがいい?」

「そうだね…この香炉がいいかな」

彼は、白玉の香炉を指差した。高価なので、売れることはあまり期待していない物だった。両手のひらにすっぽりと納まるほどの大きさだが、ティドが彫った細かい花模様は日に透けるように繊細で、アレンお気に入りの一品だ。

「目が高いね、おにいさん。これは、うちで一番いい物だよ。ちょっと高いんだけど…」

「そうだね、高そう。言い値で買うって言いたいんだけど、今日は3万シールしか持っていなくて…」

3万シール?アレンは思わず聞き返しそうになった。彼の一日の売上目標が3千シールだ。そしてティドの一日あたりの小遣いは、500シールほどだった。

「え、ええと☆」

アレンは、平静を装った。彼が密かに決めていたこの香炉の売り値は、1万シールである。

「ついてるね、おにいさん。これ、2万8千シールなんだ。まけにまけて、2万5千シールでどう…」

「100万シールでも、売らないぞ!」

不意にティドが、アレンの肩を掴む。

「何言ってるんだよ、ティド…」

慌てるアレンの言葉を、ティドは遮った。

「セディ!どうしてここにいるんだ?!」

セディと呼ばれた目の前の精霊人は、肩を竦めた。

「偶然…と言っても、信じてくれそうもないねぇ」

この二人、知り合い?アレンはティドと目の前の彼を見比べたのだった。

<2>

「本当に、偶然なんだよ」

と、セディは微笑んだ。店は撤収して、アレンとティド、そしてセディはバザールの端にある広いカフェテラスで一息ついているところだった。食事時を外れているせいか、人が少なく、白い丸テーブルはけっこう空いている。

「ふらふらしてたら、彼に…ええと、アレンだっけ?彼に声をかけられちゃってさ」

「そんな話、信用出来るか」

「まあ、信用されないだろうな、と思う」

彼は、ニコニコしながら通りを眺めている。

「どうして、ワラにいる?」

ティドの問いに、セディは肩を竦めた。

「だから、偶然だよ。本当に偶然。ワラに来たのはもちろんなんだけど、FASDから出るのも随分久しぶりだし、それでふらついていたら…」

と、彼は含み笑いを漏らした。

「こっちのほうが驚いたよ。なんだって今ここに、ティドがいるのかと思って…」

「今ここに、というのはどういう意味だ?」

ティドに問い返され、セディは意外そうな表情を浮かべた。その表情は次第に呆れたようになり、そして再び微笑む。

「なんだ、そう。ならば本当に、お互い偶然会ったってことだね」

「…………」

セディを睨むように見据えるティドは青褪め、アレンはどうしていいか分からなかった。セディが、アレンにも微笑む。

「恐い顔されたら、困ってしまうよねぇ」

「…あなたは、ティドと知り合いなの?」

アレンは、恐る恐る尋ねた。聞いてはいけないことなら、ティドが自分の質問を遮るはずだ。しかし、ティドは何も言わない。

「ティドとはね、もう随分古い知り合いだよ。一方的に嫌われてるような気もするんだけど」

と、セディはティーカップを口に運んだ。細長い指に、幾重もの指輪が煌いている。

「この前会ったのは、いつだったかな? そんなに昔ではないのだけどね…。そういえば、自己紹介してなかったよね」

彼は、カップを置いて身を乗り出した。肩に掛かった髪が、さらっと落ちる。

「わたしは、セディアス・ファンていうんだ。正確には、セディアス・フェリシア・A・トゥリアザーU・オーソンヘッド・スクライナ・『R』・Z・ファン」

「フェリシアって…」

アレンは、思わす笑った。女名だ。しかも長い。

「妹を欲しがっていた姉に、つけられたんだ」

と、セディ。

「おまけに、突然変異(遥精霊種)だったからね。これで本当に女の子だったら、ティドのお嫁さんになりたかったよ」

彼の言葉に、ティドが苦々しくため息をつく。

「いいのか?そんな簡単に、本名ばらして」

「だめではない…と思うよ。もちろん、口止めされてるけど」

「じゃあ改めて聞くが、そういう名前を持つ奴が、一体ここで、何している? いくら治安がいいからって、1人でこんなところをうろつける身分じゃなかろう」

「………」

セディは、肩を竦めた。

「信用してくれないんだねえ。でも、ここにいたって不思議はないだろ? カシルガシェは、私の領地だもの。まあ、今回はエリア軍のフリウ指揮官が一緒なんだけど」

「エリア軍……?」

と、ティドが呟く。アレンは、不安そうなティドを見上げた。世界最強と言われる、エリア精帝軍…

理想郷FASDへの、人族の侵入をもう1万年も阻んできた無敵の軍隊だ。そういえばカシルガシェは、精帝軍の最北布陣である。

「フリウ指揮官といえば、遠征部隊の指揮官じゃあ…」

アレンの言葉に、セディがおやっという具合に金茶の瞳を動かす。

「そうだよ。よく知ってるね。だから彼、基本的にはカシルガシェにいつもいるよ。あそこが赴任地だから。今回はちょっと、事情が違うんだけど」

「何があった?」

アレンと違い、ティドのほうの言葉は、鋭い。

「………。ティドって、今でも情報屋してるんだろ? 私からしてみれば、知らないのが不思議。…でも、あの香炉くれたら、教えてあげるよ」

「話が先だ。香炉をやるほどの値があるのか、聞きながら考える」

セディは少し不満そうな表情を見せたが、それをため息でかき消す。

「王都メギアに、行方不明の先帝第2皇子がいるんだってさ」

その言葉に、ティドの表情が変わる。冷たく、蒼く、そして全身を強ばらせている。セディの提供した情報がどういうことなのか、アレンにはよく理解出来なかった。

「彼は、精帝位を要求しているんだ。今の皇太子は、現精帝の血をひいてるわけではないから、自分の血のほうが次期精帝として正しいはずだって言ってね」

「メルティギアの王が、それを支援している…と?」

「そういうことだろうね。先帝第2皇子と名乗る彼は、王宮にいるらしいから」

言いながら、セディは手を出した。

「情報提供料、香炉一個でまけておくよ」

が、ティドはその綺麗な手をちらっと見ただけだった。

「…カシルガシェの陣には、ODD-EYEもいると考えていいのか?」

ティドの鋭い口調に、セディは肩を竦めた。彼の仕種は、何をしても優しく甘く見える。

「彼は今、精霊宮を抜け出していてね…。 フリウは今頃きっと、必死になってODD-EYEを探しているよ」

「お前は、その捜索に加わらなくていいのか?!」

「いいと思うよ。捜索なんてかったるいもの」

暫くの間、二人は口を噤んで見詰め合っていた。

「……フリウ指揮官とやらに、叱られるとは思わないのか? 精帝軍きっての猛者だろ。彼は」

ティドの言葉に、セディは微笑んだ。

「かなり叱られるかな。でも彼、私には甘いよ」

「甘いのは、奴だけではないだろ」

「そんなことないよ」

とセディは答えたが、アレンもそれは信用できなかった。彼に逆らえる者は、そう多くないだろう。

つまり彼は、「皆が拒絶できないモノの頼み方と、皆が自分に逆らえないという状況」を、十分に知っているのだ。自分の地位と権力を最大限に楽しむことのできる、特権階級に住まう者…

それがティドと知り合いというのも、不思議である。

「それで、香炉は?(^^)」

にっこり微笑む彼に、ティドでさえ一瞬引き込まれかけたようだった。

「…その程度の情報で、渡せるものか。いい物なんだ、あれは」

と、ティドは鼻息を荒くする。

「あ、ひどい。精帝軍の極秘情報だったんだよ、今の」

「関係ないな。そのお茶だけは、奢ってやる。行くぞ、アレン」

立ち上がった彼に手首をつかまれ、アレンはぎょっとした。強く、痛い。

ティドがこんなふうに手を掴む時は、何か不安があるときだ。そして機嫌も最悪になっている証拠でもある。彼がそうしたストレスを表に出すことは無かった。だがティドは、そのストレスを「アレンの腕を強く握る」という消極的ながらもかなり痛みの伴う暴力で、代償するのが常だった。

こういう時は、大人しく従うのが一番だ。アレンは空いてる手で、慌てて荷物を掴み立ち上がった。

「じゃあな、セディ。あまりうろつくなよ。お前を探す精帝軍に出くわすのは、まっぴらだからな…」

「なら、忠告しておくよ」

セディは、細い指を組んで顎を乗せ、さっきと同じように甘い笑みを浮かべる。ただし、その瞳は笑っていなかった。

「メルティギアの王は、精霊狩人を雇ったって話だ。精帝軍は、第2皇子の動向を探る事だけでなく、狩人の抹殺も命じられている。狩人封じの結界は、精霊人をも感知するから、ティドたちは狩人が捕まるまで、ワラの街からは出られない」

「正当な理由があれば、結界に掛かってもパスできるだろ」

「正当な理由は、もうないよ」

セディは、また微笑む。

「精帝軍は、メルティギアにいる先帝第2皇子が本物なのかどうか、彼らの本当の狙いは何なのか、情報屋『F.T』なら知っていると思っている。この街にいるらしいとの情報も、彼らは得ている」

「………」

「情報屋F.Tは、精霊人の親子連れ…彼らが知っているのはそれだけだけどね」

ティドは黙ったままだが、アレンの腕を掴む手の力は、どんどん強くなっていく。

「俺達と会ったのは、偶然だったんじゃないのか?」

ティドの言葉に、セディは肩を竦めた。

「もちろん、偶然さ。今の時期、ティドたちが本当にここに居るとは思っていなかったもの。でも万が一、フリウ御自慢の諜報部隊の仕入れてきた話が本当だったら……。だからこうして、散歩していたんじゃないか」

「もういい、分かった。忠告感謝する」

低く言い放ち、ティドはアレンを強く引っ張った。

<3>

夕方の一番忙しい時間を迎えた宿屋の一階は、広さの割に雑然としていて、賑やかだった。まだ時間は十分に早いせいか、親子連れの姿も見られる。

もう少し経つと、このフロアはあまり治安のよろしくない酒場へと変わる。

「昼間会ったあの人」

と、アレンは言葉を発した。そして、ティドの反応を見る。

「セディって言ってたけど…」

まだ、反応がない。これは、質問を続けてもいい、ということなのだろうか? 決め兼ねながら、アレンはティドの仕種を見ていた。目の前のパスタを、食べることなくかき混ぜている。彼は、アレンの視線に気がついたようにふと顔を上げた。

「…セディが、何?」

「……あの人、本当は何? ただのお貴族様じゃないような気がする」

「どうだろうね。明日、本人に聞いてごらん」

「あの人、明日も来るの?」

「よほどのことがなければ、来るよ」

そして、それっきり会話が途絶えてしまう。

「…あの」

「何?」

「あの人が言っていた先帝第2皇子って、何なの?」

アレンの問いに、ティドが初めて反応を示した。半ば呆れるような、そして非難めいた視線を送ってきたのである。

「…教えてくれたって、いいじゃん」

「その名の通りさ。現精帝ルディアスの、同じ日に生まれた弟だ。帝位継承権はないが、同じ日の生まれということは揉め事の種になる。それを嫌って、彼は行方をくらましたと言われている」

ティドはアレンの前に、ほとんど手をつけていない自分のパスタを置いた。

「ありがとう」

アレンは極力素直に返事し、質問は差し控える。ティドのほうも、アレンを探っているようだった。2人はかなり長い間黙っていたが、ふと、ティドがその均衡を破る。

「……その彼が継承権を主張するから、もめるのさ」

「皇太子は、精帝の血を引いてないって…」

「先帝の孫であることに間違いはない。精帝にはもう1人弟がいて…。彼は臣籍に下り、先帝の望む通りの結婚をして、息子を得た。それが今の皇太子なんだ。決して継承権がないわけじゃないし、血も正しい。怜悧で、国民の人気も高いという。なのに何故今更、第2皇子は精帝位を欲したのだろうね」

ティドは、深く息をつく。まるで、先帝第2皇子を知っているかのようだ。

「何故、そんなことをする必要があるのだろうね…」

「……ねえ」

アレンは、思い切って話題を変えることにした。

「だいぶ、儲けたよ。いっぱい貯まったから、ティドの今日の小遣いも、いつもの倍あげる」

「それは嬉しいけど…」

ティドは、困惑した笑みを浮かべた。

「アレンは、何だってそんなに貯め込んでるんだ?土地でも買うつもりかい?」

「単なる老後の貯えだよ」

「老後?今からそんなこと考えてるの?」

「俺じゃなくて、ティドの老後。ティドは生活力ないんだもの。先行き暗いよ。せめて、食べるに困らないくらいは貯めておかないと」

「そうかもしれないけど…」

「俺が居なくなったら、ティドは絶対に路頭に迷うよ。そうならないように、しっかり稼いで、がっちり貯めておかなきゃ」

「やれやれ…」

ティドの手が伸びてきて、前髪に触れる。

「まあ、いいさ。アレンが居なかったら、本当に困るからね…」

「そ。感謝してもらわないと」

アレンは答え、食事を再開したのだった。

---

アレンとティドは、この酒場の2階にある、宿屋に泊っていた。他の客もほとんどが、商人である。2人が泊っているのは、市場や階下の喧騒が届かない南側の一室だった。値段は、市場側の部屋より少し高いのだが、夜中、ティドが少しでも落ち着いて寝てくれるなら、それも仕方ない。

暗闇の中、布団の中でアレンはため息をついた。ベッドは一つだが、椅子が二つあり、小さなストーブもついているし、宿の主は衛生上にも気を配っているらしく、宿全体がいつもきれいに手入れされている。

ティドは、階下の酒場に行ったきり、戻ってない。アレンが渡した小遣いで、酒を飲んでいるのだ。今日はいつもより多く渡してあるし、ここ最近、ティドは飲酒せずに小遣いを貯めていたようだった。今日はぱっと使ってしまうに違いない…

アレンが家計を握るまで、収入の半分がティドの酒代に消えていた。収入全てが飲み干されてしまうことは無かったが、アレンは酒という飲み物を嫌悪していた。酔って暴力を振るったりすることはないが、それでも、潰れるまで飲むティドの精神は理解しがたい。

ティドは、剣士としては超がつくほど一流で、アレンを守ってきたのはティドだった。今でも、ティドにはかなわない。アレンには、ティドを守ってあげられるだけの強さも技術もない。それが、強いコンプレックスにもなっている。

いつから2人で旅をしているのかよく憶えていなかったが、物心付いた時には、ティドと2人だった。

母親は、自分が生まれてすぐに死んだというが、ティドはその話をしたがらなかった。ただ、アレンは死んだ彼女によく似てる、というのが彼の決まり文句だった。そして以前、同じ精霊族の老占い師に言われた言葉が、アレンの疑念を決定付けた。

「お前さん、本当にあの男の息子かぇ? 違う“種”の匂いがするよ…」

それ以来、アレンはティドから財布を取りあげ、全ての収支を自分で管理している。剣はティドにかなわないが、それでも自分を守るには十分なだけの技量はあるし、実際、アレンは今すぐでも1人で生きていかれる。

が、ティドはだめだった。病んだ胸、アルコール漬けの体、皆無に等しい生活能力…。

それでも、情報屋としての仕事を決めるのはティドである。

結局、どんなに思いを巡らせても、ティドを見捨てるような結論には達しない。アレンにも、ティドは居て欲しい大切な人なのだ。

彼がもう一度ため息をつこうとした時、扉が開いてティドが入ってきた。

アレンは落ち着いて目を伏せ、寝たふりをする。

部屋が急にアルコール臭くなり、ティドが少し窓を開けた。風が舞い込み空気が動く。

「遥か遥か、北を目指して、幾千幾億、時を巡らせ……」

ティドは、微かな声でうたい始めた詩を、ふと切ってしまった。

「……セディ」

その言葉にアレンがギョッとした途端、ティドがベッドに腰を下ろす。

「何が、気に入らない?」

ティドはそれっきり、黙って座っていた。目を開けると、ティドの細い背中が見える。服がぶかぶかだ。また少し痩せたのかもしれない。もうすぐ冬が来る。しっかり稼いで、越冬の準備をしなければ…。

アレンは、もう寝てしまうことに決め、固く目をつぶった。


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