下町の朝は早い目覚めです。薄く日の出の光が窓に差し込む頃には、もう誰もが炊事に洗濯にと、諸々の用事に取りかかっていました。
 微かに意識の表面から聞こえてくる教会の鐘の音で、少しずつ頭の中が覚めてきました。
 浅く眠り始めた筈が、アプリコットが気が付いたら朝の7時でした。目を覚まして見回しても、周りには誰もいません。
窓の外では、鐘の音に混じり小鳥達が、急かすように鳴き連ねています。
 大きく伸びをして起きあがり、階下に降りていきました。
 台所の土間から、温かい湯気とパンの匂い、忙しない活気が流れてきます。
見ると、小太りのミーシャの母が台に乗った小さなマリーと一緒に、野菜や魚を切ったり、パンを焼いたりしているところでした。
気配に気付いたミーシャの母が振り返りました。小さく会釈するアプリコット。
「おはようございます。」
「おはようさん!夕べはよく眠れた?」
「はい、お陰様で。」 
「もうすぐ朝ご飯だからね。そこを出てすぐに井戸があるから、顔を洗っておいで。」
 出口を出て見ると、少し離れに井戸があり、何人かの住人に混じってオッターが顔を洗っています。
「おはよう、オッター。」「あ、おはよう、アプリ。」
二人して、井戸の水をすくって顔を洗い出します。
冷たい水で、すっかり昨夜の滅入った気分は消えましたが、記憶が胸のどこかで疼きます。あの後、外へ出たままフロークとミーシャはどうなったのでしょう。
「フローク達は?」「タッティとどこか行っちゃった。頭が痛くてガンガンするって。」
「二日酔い?」「だろうね。いい気味だよ。あれだけ飲みまくってさ。」
「そんな言い方はダメよ。と言って、私も少し思ってるんだけど。」
話しているアプリコットに、誰かが突然背後から抱きついて胸を揉み上げます。
びっくりして振り向くと・・・
「おっはーアプリ!元気してた?」
 満面笑顔のミーシャが立っていました。彼女も結構飲んでいたはずなのですが、気分の悪さなど微塵もなさそうです。逆に、彼女を見たアプリコットが表情を固くしました。
そこへちょうど、フロークとタッティもやってきました。確かにタッティは沈んだ様子。
周りの空気の淀みが昨晩のままです。何も言わず、顔を洗い出します。
「タッティ、大丈夫かい?」
「ミーシャのお母さんに話したら、薬をくれて近くの広場で休んでいたんだ。あんなに飲むからだよ。」
 そしてミーシャを見て、少し慌てるような表情。逆にミーシャは何故かにっこり。
アプリコットの、尋ねたい衝動が弾けました。あくまでも自然になるように、平静を整えつつ。
「フローク・・・昨日の晩、ミーシャと出ていったきり、どこ行ってたの?」
 フロークはますます慌てるようにしか、アプリコットの目には見えません。でも実は、その横でギクッと動じるのがミーシャ。
「えっ、どこって・・・ただミーシャを休ませてただけだよ。」
何でもなかったことを知らせるために、ふと思い出したことをミーシャに振ります。
「でもミーシャ、急にいなくなっちゃうんだから。どこ行ってたんだい?」
尋ねるフロークに、ミーシャはしれっと答えます。
「さぁ・・・酔ってて覚えてないんだ。気が付いたら、フロークに抱きかかえられてさ ・・・こんな風に!」
 言いながら、フロークの懐に飛び込みます。
 思わず彼女を抱きしめ、慌てて離れるフローク。キャハハ、と無邪気に笑うミーシャ。そして次の彼女の言葉が、とどめを刺しました。
「その後は、朝まで一緒だったよね・・・。」 
一瞬で凍りつく表情のアプリコット。一番出てはいけない言葉に、頭を抱えるフローク。
くすっと笑うミーシャ。
フロークを見据えるアプリコット。突然の都合の悪い急転に、フロークは言葉も出てきません。
 私・・・一人だったのに・・・
私だけ・・・あんな暗い部屋で一人だったのに・・・そうだったんだ?
張り裂けるくらいに言いたい言葉でしたが、ミーシャの手前、かろうじて留めます。
 ただフロークに向けた、ただ一瞬の恨みっぽい眼差しの後は、決して目を合わせようともしません。
「そうだったんだ?よかったね、ミーシャ。」
何か言おうとするフロークなど目にも入れず、にっこり笑うアプリコット。それが本心でない事は、誰より彼女自身が知っています。
 昨晩の、間近で見たフロークが頭に浮かんでいました。
そのフロークが、彼女の横で、彼女を呼んでいるようです。何があっても応じたくありません。無視、無視、無視!意地でも無視を決め込みます。
 ちょうどその時、マリーが走ってきました。
 母親の真似のつもりでしょうか。甲高い声で言ったものです。
「朝ご飯ができたから、早くお戻り!ってさ。」
話を逸らすタネが出てきて、内心ほっとするアプリコット。
「分かったわマリー。今戻るから。」 
ふっと笑うアプリコット。マリーも照れたように笑います。そして二人だけでそのまま行きかけた時。
「アプリ、聞いてくれって!」
フロークが、強引に彼女の手を取って向き合いました。
声の大きさにアプリコットが、マリーが、ミーシャが、その他のみんながびっくりしましたが、あいにく当のフロークは気付きません。
アプリコットが呆然とする間に、フロークはまくしたてます。
「確かに、アプリを一人にしたのは悪かったけど、でもミーシャが気分が悪いって言うん だから放っておけないだろ?それと、確かに朝まで彼女と一緒だったけど、ただ一緒だっただけ!他に何があると思う?ある訳ないだろ。こんな、人のいる所で。」
「私も・・・一つ言いたいんだけど・・・」
 フロークが息継ぐ間に、おもむろに口を開いたのはミーシャでした。
「フロークは、ずっとアプリだけに構っていないといけないの?アプリだけに優しくないといけない?そんなの・・・アプリのわがままだよ!」
 静かですが、返しようのない言葉。思ってもないミーシャからの言葉に、アプリコットは言葉を失います。
場の空気は凍り、そして言うべき言葉も分からず、3人がそのまま立ち尽くしていた時。
「あの・・・とりあえず朝食だけでも食べませんか?ねぇ?」
 おずおずと割って入ったオッターの言葉で、やっと止まっていた時が戻ってきました。
 笑って手をつなぎにくるマリーの手を取ったアプリコット。少しだけ彼女も笑いかけましたが、目の前でミーシャがフロークの手を取るのを見てしまいました。その動きは、ぎこちないアプリコットと対照的に、自然そのものです。
つと、立ち止まるアプリコット。二人の後ろを、歩きたくはありませんでした。
 どうせ・・・私はわがままよ。
 俯き、目を逸らすアプリコット。たったそれだけの事で、何故こんな苛立つのかがアプリコットには分かりません。立ち止まった彼女に気付かず、そのまま歩いていくフロークが、やけに遠く見えました。
 それが分かっているかのように、ミーシャがフロークの話にふふっと笑いました。
どこかの家で、また赤ん坊がけたたましく泣き出しました。

アプリコット達が、ヴィーゼンベルクで朝食を取っていたちょうどその頃。
 ローターの音もけたたましく、垂れ込める雲を引き裂きつつ、一隻の飛行船が飛行していました。
 黒一色に塗り上げられた船体。マストに翻る髑髏の旗。スコーピオン号です。
その操舵室では、フランツが舵を握り、ジャックが双眼鏡で辺りを隈無く見ています。
フランツが、舵を飲み込まんばかりの大欠伸をして言いました。
「あーあ・・・ボスは一体何処へ行こうていうんだろうなぁ・・・。こうやってただ飛び回っていても、ボスコ号なんか見つかりっこないのに。」
「さぁ・・・オレ達はただ言われた通りにやって、カネさえ受け取れたらそれでいいってこと!ぼやいてる暇があったら、しっかり舵を握ってろって!」
「そろそろ代わってくれないかい・・・交代の時間だよ。」
さて彼らのボス、フードマンは、上甲板で震えながら、真っ黒いフードとマントに縮こまってしきりに周りを見回しています。どうやら、何かを待っている様子。
 と、突然雲の切れ間から、黒い物体が飛んできました。
 コウモリでした。足に、何かの紙片を結びつけています。
それを手に取り一読したフードマンは、口元を吊り上げてニヤリとほくそ笑みました。 うう寒う・・・とボヤきながら、暖かい操舵室に駆け込みます。
「ヤツらの居所が分かったぞ!すぐにここへ飛ぶんだ!」
 フランツにその紙片を渡すが早いか、側のストーブにかじりついて離れようとしません。「アイ、サー!・・・ヴィーゼンベルク?そんなに遠くないな。1時間ほどで行けそうだよ。」 
「飛ばして行けよ、フランツ!」
「ジャック、代わってくれってば!」
口を尖らせて、フランツは大きく舵を右に切りました。
 スコーピオン号は右に針路を変え、一路ヴィーゼンベルクへと向かいます。

「・・・連れていきたい所?私を?」
朝食も終え、部屋に戻って着替えをしていたアプリコットを、ミーシャが呼び止めていました。
「うん・・・2,3日したらここを発つんでしょ?その前にね。」
「町の外へ?何でそんな所まで?」「来れば分かる。草原が綺麗なんだ。」
 話すミーシャの表情がいつになくどこか固いことが、アプリコットは気に掛かりました。
 フロークの事?それとも何か別の事?
不思議に思ったアプリコットでしたが、彼女もミーシャに訊きたいことはあるのです。「分かったわ。案内して。」
 言うと、ミーシャに付いていこうとしますが、ちょっと戻って紙に書き置きします。
フローク達は、二日酔いですっかり参ってしまったタッティと一緒に医者の所へ行って留守でした。
 できた書き置きでしたが、頬杖をついて考え込んで、何か書き換えている様子です。
 ミーシャが、それを無言で後ろから見ています。
できた書き置きを一叩きすると、アプリコットはミーシャと連れ立っていきました。
 ミーシャがその書き置きをじっと見つめていましたが、何も言わず行ってしまいました。

医者から帰ってきたフローク達3人は、帰ってくるなり部屋に誰の気配もないことに気付きました。
朝はしんどそうにしていたタッティも、注射と薬でかなりマシになったようです。
「あれ、ミーシャもアプリもいないよ。こんな朝から、どこか行っちゃったのかな?」 「仲がいいね、あの二人。」
「いいじゃないか。その分僕達の負担が減って、さ。」
皮肉げに言ったフロークの目に、テーブルの上にある紙片が目に付きました。手に取ってみると・・・
 フロークのバカ!
書き殴ったように書いて、最後に顔一杯あっかんべえをしている絵がご丁寧に添えられていたものです。
ふっと笑ったフロークですが、それだけの意味でこれを残している筈もなく、いろいろ見てみると・・・
 書き置きだと気付いたタッティ達も、それを覗き込んでいます。
 裏からすかして見ると、ミーシャと街の外の草原に出ていくと書いて消した跡があるではありませんか。
 チッと、思わずフロークは舌打ち。
 街の外へ出てまた入るとなると、いろいろまたうるさい手続きが待っています。それを知った上のことなのでしょうか。
「街の外の草原を見に行くってさ。いい気なもんだよ!」
紙片を投げ出して、忌々しげにフロークは吐き捨てます。
 その言葉で、またタッティは気を取り戻したようです。
「冗談じゃない!またあんなややこしい手続きはごめんだぜ!」
「当然さ。今から連れ戻しに行こう!」
急いで出ていくタッティとオッター。フロークも出て行きかけますが、思い出したように戻ると、さっき捨てたばかりの書き置きを少し見直してポケットに仕舞います。

急いで出かけたフローク達の思いも知らず、アプリコットとミーシャは街を出た後でした。もちろん再入場はできるのですが、その必要もやがてなくなると、アプリコットは知る筈もありません。
街を一歩出ると、外は人の手がほとんど入っていない草原地帯でした。人の背丈弱ほどの中を、一本の道が通っています。
 そこから道を外れ、草に覆われた岩場の荒い道を、二人は登っていきます。
「・・・ヴィーゼンベルクって言うのはね、この街の周りの草原が特に綺麗だったから、付けられた名前なの。この街を守護する神聖ローマ帝国の同盟都市だから、この辺りではどこよりも栄えてる街なのよ?」
 学校で習ったばかりのことをアプリコットに言いながら、二人は小高い丘に立ちました。 ハッと、息を呑むアプリコット。
 見下ろした辺り一面、四方八方が緑一色。草の絨毯が、風が吹く度に右に左へと、一糸乱れず靡いては、波立っていました。波打っては沈む草原の波は、今にも小高い丘の上まで飛沫を上げて届きそうです。
地平線を境に、草原の上には、抜けるような真っ青な大空。小高い、空に突き出たような丘の上で、手を伸ばせば空の青さをすくい取れそうです。 
 草原のうねりと連れだって、流れる白い雲。
 季節は初夏。風が吹く度に、爽やかな新緑の薫りが流れては弾け散ります。
川が一筋、草原のただ中を青く流れています。空と雲を鏡のように映して。その川は草原の大海原の中、ヴィーゼンベルクの中を流れ、そのまた遥か彼方へと流れて行きます。
青空へとつながる坂道のように。 
 白い石垣の城塞を備えたヴィーゼンベルクは、まさに草原の大海原に浮かぶ島そのものでした。
「・・・きれい・・・」
 立ち尽くすアプリコットは、一言ポツリと呟き、草原の海をただただ眺め続けるばかりでした。
 数分が過ぎたでしょうか。
 アプリコットを見続けていたミーシャの顔が、何かを決意したように突然キッと厳しくなりました。
「・・・時間よ。」
 不意に言ったミーシャの言葉で、アプリコットは我に返りました。
「時間?・・・何の?」
 意味が分からず聞き返したアプリコットには、後ろに迫っていた影が応えました。
突然、何者かがアプリコットを後ろから羽交い締めにしました。
 びっくりしたアプリコットは悲鳴を上げ、反射的に逃れようともがきますが、相手の方が体格が大きく力も強く逃れられません。
必死にもがき続けるアプリコットの耳元で、黒い影が囁きます。
「お帰りの時間でございますよ、お姫様?」
 フードマン!?
 ハッと振り返ったアプリコットの眼前で、フードマンが目を細めて笑います。
 慌てて目を背けたアプリコットの前に、ミーシャが無表情で彼女を見ています。
「・・・どういう事!?何でフードマンがここに!?」
 今にも食ってかからんばかりのアプリコットに、ミーシャは冷ややかに言いました。
「フォンテーンランドに帰るんでしょ?迎えを呼んであげたの。ありがとうくらい言えば?」
「何言ってるの!?何でフードマンがここにって・・・」
 冷ややかに見つめるミーシャの代わりにフードマンが、背後から答えました。
「不良のネットワークは素晴らしいな。お前がここに来ているって事を、真っ先に彼女が知らせてくれたのだ。まぁ予め、この知らせをしていたからこそだが、な。」
アプリコットをフランツとジャックに押さえつけさせて、フードマンはアプリコットに一枚のビラを見せつけます。
 アプリコットの特徴と絵があり、彼女の居場所を街の教会に飛ばしたコウモリにて知らせた者には、賞金を与えるとの事!
「分かったか?お前は1000ライヒスマルクで売られたのだ。」
 長身を揺すって笑いに笑うフードマン。
信じられない思いでそれを何度も何度も見直しているアプリコット。
 やがて体を震わせ、涙を散らせて叫びました。
「ひどい・・・ひどいよミーシャ!友達じゃなかったの!?」
 今にもミーシャに飛びつかんばかりのアプリコットを、フランツとジャックが二人掛かりでやっと押さえつけています。
 ミーシャが、ふっと笑いました。
「友達・・・か。じゃ一言言っといてあげる。」
 向き直ったミーシャが、つかつかとアプリコットの眼前に立ちました。
 普通でない彼女の気配に圧されて、アプリコットは逆に後ずさりします。
 アプリコットを皮肉を込めて覗き込み、眼前で囁きます。
「王女様はお気楽でございますわねぇ・・・私たちが必死で暮らしているドブ街に、頼んでも願ってもいないのに只の気まぐれでご視察遊ばされて。さぞ楽しめたことでございましょう?でもあまり無茶をなさいますと、悪い虫に食われてしまいますわよ?」 アプリコットの記憶に、下町で不良少年にからまれたことがさっと甦りました。
「あれは・・・あなたが?」
「それだけはやめてあげたのよ。感謝なさい。」
 フンッと鼻を鳴らしてアプリコットを見下ろすミーシャ。その瞳に、反発の嫌悪が爛々と燃え立っているのを見て、アプリコットは言葉を失います。
ミーシャ・・・私のこと、そんな風に思ってたんだ。
 何で?そんなつもりじゃなかったのに。ただ、下町がどんなのか、知りたかっただけなのに。
 黙り込んだアプリコットを見て、ミーシャは興ざめです。もう少し反発を期待していたのですが。
「あと、何か言うことは?」
 俯いてしまったアプリコットを覗き見ながら、ミーシャは尋ねます。
何か、か細い声でアプリコットが言っているようでした。
「・・・そんなつもりだったんじゃない・・・私、そんなつもりじゃなかった・・・。」
 涙を流し続けるアプリコットに、少しはミーシャも同情したのでしょうか。少し、口調が柔らかくなりました。
「あんたが遊んでくれてたマリーね・・・産まれた時は死にかけてたの。あのドブ街じゃ、産まれる子供の5人に1人は死んでいくのよ。あんな不潔な街じゃ、ね。私の家はまだマシな方。あんたと走ってた所、見たでしょ?あの小汚い、今にも崩れそうなバラックを。廃墟じゃないのよ。あそこに、人が生きてるの。家があればまだいいわ、今日も明日も、どこか道端で人が野垂れ死んでいく、誰にも看取られず、誰にも知られずに。それがこの街の現実なの!」
 話しているミーシャも、いつしか涙を流していることに、ミーシャ本人すら気付いていないようでした。
 アプリコットは、今は落ち着いた様子で、ミーシャの叫びを静かに聞いていました。
 長居したくないフードマンが遮ろうとしますが、構わず押し退けてミーシャは続けます。
「どうせあんたは、この街の楽しい所だけを見に来たんでしょうけど、違うの。あんなの、この街の何万人ものうちの頂点の一角なのよ。もう15なんでしょ?気づきなよ!」
 フウッと一息ついて、やっとミーシャは流した涙を拭います。
「私・・・夢があるんだ。学校でうんと勉強して偉くなって、あんなドブ街をみんなで出て行くんだ。その為には山ほどのオカネがいる。アプリコット、あんたがここを変えるために何かできる訳じゃないでしょ?ならせめて、私の夢を叶えて。」
 そしてミーシャは、今度はまっすぐアプリコットの目を見ます。
 まっすぐ見抜くミーシャにアプリコットが何か言おうとしますが、そのどれもが無責任な言葉にしか思えず、何一つミーシャには言えないのでした。
「信じてくれたのを裏切って悪いけど、私には他に何も思いつかない・・・」
 弱々しく呟いて、ミーシャはアプリコットに背を向けました。
それを合図に、フランツとジャックはフードマンに従って、アプリコットを強引に連れていきます。
 丘の一つに、黒一色で塗り上げられたスコーピオン号が留まっていました。

朝方の市門は、出る人と入る人でごった返していました。それでも市門だけは一列で、門番の兵士数人が目を光らせる中、出る人と入る人が整然と出入りしています。
 少女が二人、街の門を出ていったことを門番に確認したフロークは、手続きに苛立っていました。そうしているうちにも、次々と人々は門を出ていきます。
 この人並みに紛れて、外へ出てやろうか・・・横で同じく苛立つフロークが、本気で考え出していた時です。
 オッターが、息を切らせて走ってきました。ただならぬ様子に、顧みたフローク達の顔色がサッと変わります。
街の門の向こう、街の外を取り囲む小高い丘から、黒い飛行船が飛び立つのを・・・
「ミーシャだ・・・やられた!フードマンの手先だったんだ。」
 茫然と呟くフロークの脳裏に、昨夜いやに寄ってきていた彼女の記憶が甦ります。
 そうか・・・僕とアプリを引き離すためだったのか・・・!
 チクショウッ!!
 思わず、辺りの柱を力任せに殴りつけます。
 そんなフロークをなだめて、オッターが離陸しつつあるスコーピオン号を睨みつつ言います。
「とにかく、ここを出て追わないと!」
「バカ言うな!この人混みで、しかもあの門番に捕まりに行くつもりか?」
タッティの指さす先で、十数人の武装した兵士が出入りを取り締まっています。容易にすり抜けられるように見えますが、市門は不測の事態にいつでも閉じられるように半開き。人一人がやっと通れる具合でしょう。しかも兵士達は門の外で、出ていく者こそ警戒している様子。
 門と人の群れの向こうで、飛び立ちつつあるスコーピオン号を見据えているフローク。
 彼の脳裏に、ありありと浮かんできました。
 すましているアプリコット。怒っているアプリコット。笑っているアプリコット。
 そして、今朝の恨めしそうな眼差しのアプリコット。
 そうだよ・・・僕には君しかいなかった。
「アプリを・・・アプリを助けるんだ!」
 叫んだフロークは、やにわに駆け出します。
 タッティが、オッターが大声で止める、
 周りの人並みが異変に身を引く、
 異変を察した門番の兵士がシュラッと剣を抜く、
その小さな最中で、フロークが門の目前に来たまさにその時!
「見つけた!この人殺しッ!!」 
続いて、けたたましい悲鳴が立ち上がりました。
懸賞をかけられた罪人が、近くにいるようです。
 泡を食った人並みはたちまち堰を切った怒濤となり、十数人の兵士達ではどうしようもありません。
 慌てふためく兵士達の脇を、何事もないようにすり抜けるフローク、続いてタッティにオッター。
 押し合いへし合いでがんじがらめの市門を置き去りに3人は、昨日渡った石橋を力任せに駆け抜けます。
 口から心臓がせり出す表情で疾走しながら、タッティが息も絶え絶えに叫びました。
「な・・・何てタイミングの良さだよ・・・」
「ねえ、今の声、ミーシャに似てなかった!?」
その前を走るオッターが叫びます。
「そう言えば・・・似ていたね!でも、アプリを裏切ったんだよ、それはないって!」
 先頭を走るフロークは、近くに留めてあったボスコ号目がけて走るだけです。
「そうとは限らないんじゃないかな!?信じたいよ、ミーシャを!」
「一緒に飲んで、惚れちゃったのかオッター!?」
「そうじゃないって!」
「よし、見えてきた!ボスコ号だ!」
 フロークの眼前に、ぐんぐんボスコ号が見えてきます。いつもは可愛らしい飛行船が、今日はやけに頼もしく映りました。

アプリコットを、予定通りさらってヴィーゼンベルクを発ったスコーピオン号。あとは、フォンテーンランド一直線です。
 今度はジャックが舵を握り、フランツが双眼鏡を覗いています。
 やっと代わって貰えたフランツは上機嫌で、あちこちを双眼鏡で覗き込んでいました。
「ヘッヘー、一度やってみたかったんだ。船長みたいでしょ?」
その視界が、急に暗くなります。
 慌てて目を離すと、双眼鏡の眼前にジャックが立ちはだかっています。
「何するんだよ、ジャック。」
「ちゃんと見張っとけよ。遊びじゃないんだぞ!」
「分かったよ、ちゃんとするからさ。」
 仕方なく、今度はしずしずと辺りを見回し始めます。
「あーあ・・・今頃ボスは、王女様といちゃついてるんだろうな・・・。」
 呟いて、後ろを振り返ります。

スコーピオン号の薄暗い一室で、アプリコットは両手を後ろ手に椅子の背に縛られ、座らせられていました。
 うなだれている横顔ですが、捕まった事に落胆しているのではありません。
ミーシャの言った言葉の一つ一つが、彼女の脳裏に甦っては、胸の中に重く重くのし掛かり、胸が苦しくて仕方ないのです。
あの時、私が歩いていた所で、もしかしたらみんなが倒れていたのかも知れないんだよね。
ごめんなさい、私、本当に何も知らなかった。ごめんなさい、本当に、ごめんなさい・・・
 何も知らず、下町に足を踏み入れたことを心の底から後悔し、名も知れず倒れていった人々に、これから倒れるかもしれない人々に、ただただ心から謝り続けるばかりでした。
その時、扉が静かに開いて、フードマンが戸口に立ちました。
 キッと見据えるアプリコット。
 椅子に縛られているアプリコットにゆっくり近づいてきますが、彼女は怯む様子はありません。
 彼女の眼前に立ったフードマンは、口元をへし上げて笑いました。
「相変わらず、気が強いな。だが今度ばかりは、少し堪えたか?」
「何が?」
「友達に裏切られた。でもな、人は誰だって裏切るものだ。お前のあのお気に入りのクソガキ共だってな。人は裏切って裏切られて強くなっていくものさ。」
そして楽しそうに、俯いているアプリコットの反応を見ています。
やがて、動じる風もなく、彼女は静かに言いました。
「ミーシャは、裏切ってなんかない。」
クククッと、押し殺した笑い声を立てるフードマン。
「今のお前を見て、物を言え。」
「それでも私は、ミーシャを信じてるから。」
俯いて呟くアプリコットの顎を掴み、上にグッと引き上げます。
「なあ・・・私の女になれ。そうすれば、捕まらずに済むぐらいにはしてやれるぞ?泉に行かせる訳にはいかんがな。」
ことさら優しく囁くフードマンの手を、力一杯振り払います。
「汚い手で、触らないでよ!」
 哀れみの溜息をついて、フードマンは薄く笑います。
「信じてるのか、助けがくるのを?やめておけ、また裏切られる。」
「・・・・・」
 今度はフードマンを見るアプリコットが、哀れみめいた弱い笑みを浮かべました。
 それに気付いたフードマンが、わずかな揺らぎを感じました。
「な・・・何がおかしい?」
「ママに言われたことがある。信じることのできない人は、誰からも信じられず、自分も信じられず、誰からも愛されないって。あなたを見ていると、それが正しいんだってよく分かった。」
何・・・?
アプリコットを見るフードマンの目が、スッと細まりました。
「今だから分かる。信じるって事は力なの。ただ待っているだけじゃダメ。誰かを心から信じなきゃ。自分を信じなきゃ。疑うこともあるかもしれないけど、それに負けない力で信じなきゃ。そうでないと、誰からも愛されることなんてない。自分を信じてもいない人を、誰かが愛してくれる筈がないでしょう?」
見据えて言うアプリコットの思わぬ強い言葉に、フードマンは思わず息を呑みます。
 これが・・・本当にあのアプリコットなのか?
「フードマン、あなたはそうやって強がっているけど、やっぱり誰かに信じられたいんでしょう?でもその前に、あなたは誰かを信じた事がある?愛したことがあるの?」
 言い続けるアプリコットの言葉に、フードマンはワナワナと全身を震え出します。
「ないんでしょう?だったら、今からでも挑戦してみれば?生きてる限り、チャンスは幾らでもあるんだから。これも、ママの言ってた受け売りだけど、私は信じてる。」
フードマンの震えが、パタリと止みました。
「・・・信じようよ。私も、まだあなたが信じられるから。」
 笑って、そう言った時でした。
何やら叫びながらフードマンは、突然アプリコットを椅子ごと押し倒しました。避けられる筈もなく、アプリコットは強かに左肩を板に打ち付けます。ウッとくぐもった悲鳴をあげますが、フードマンは容赦なく彼女に覆い被さります。
 間近で見るフードマンの顔は、冷や汗を一杯に噴き出し、狂気の一歩寸前でした。
「貴様に、何が、分かる?王宮で、いい暮らしをしてきたお前なんかに、俺の何が分かるッてんだ、ああッ!?」
「やめてッ、いやァッ!!」
悲鳴を上げてアプリコットは必死に逃げようとしますが、もちろん自由は利きません。
息も絶え絶えに呻くフードマンの手が、アプリコットの肩に掛かります。今にも服を破り裂こうという勢いです。涙ながら、アプリコットは、本当の恐怖を感じました。
たすけて・・・フローク、助けて・・・!
 声にならない声で、アプリコットが叫んだ時です。
「ボス、奴らですぜ!」
 ジャックが、慌てて部屋に駆け込んできました。当然、部屋の惨状に茫然となります。
慌ててフードマンがフードとマントを整えて起き上がり、姿勢を正します。
「な・・・何だ?」 
「あ・・・奴らです。ボスコ号が、オレ達を追いかけてきてますぜ!」
 慌てて、何を報告するのか忘れかけたジャックでした。
 それを聞き、チッと舌打ちするフードマンと、ガックリと安堵に脱力するアプリコット。
 そんなアプリコットの様子に、フードマンは冷笑を浮かべます。
「どうってことない。奴らが墜ちるのを見るだけさ。」
それだけ言い残して、フードマンは操舵室へと戻ります。ジャックも付いて行こうとしますが、床に椅子ごと倒れたままのアプリコットに気付き、恐る恐る彼女を立たせてやります。
「ありがとう。」
 にこっと笑ったアプリコットに、ジャックはパッと顔を赤くしてしまいます。
「ねえ・・・この縛ってある縄を切ってくれたら、もっと嬉しいんだけどな・・・。」
 甘えるような目で、ジャックを見つめます。
「そ・・・そんな事、できる訳ないだろ!」
 慌てて、ジャックは出ていってしまいました。
 残されたアプリコットは、扉の外に目を向け、祈るような視線を送ります。
私には何もできないけど・・・みんなを信じてるから。
何も信じてない人なんかに、負けないで!

スコーピオン号の操舵室では、フランツが舵を握っています。何事もないかのように、口笛を吹きながら。
 そこへ、フードマンとジャックが戻ってきました。呑気に口笛を吹き続けるフランツを、フードマンがひっぱたきます。
「どこなんだ、奴らは?」
夢でも見ていたかのように、フランツは辺りをキョロキョロ探します。
「あれ・・・どこ行ったかな?」
「何を見張っているんだ!?探せ!」
 彼らが探している間に、ボスコ号は秘かにスコーピオン号の右後方に接近していました。

 ボスコ号のデッキに、フロークが身を乗り出しています。その目と鼻の先に、スコーピオン号の甲板がありました。
今そこにアプリコットがいるかのように、見据え続けるフローク。
「よし・・・行ってくるよ。必ず、アプリは助け出すから。」
 笑って、フロークは手を振りました。
「オレ達に、できる事はないのか?」
「このまま付いていくだけなんて、あんまりじゃないか?」
 心配そうに見送るタッティとオッターに、フロークはウインクして答えました。
「君たちのやり方に任せるよ。信じてるさ。」
そう言って、フロークは甲板めがけて飛び付きました。柵に引っかかって転げましたが、辛うじて甲板に留まりました。
 ホッとするタッティとオッター。
 フロークはもう一度二人に手を振ると、慎重に歩いていきます。
 それを見送ったタッティは、オッターに言いました。
「よし・・・奴らの上後方に移るぞ。水平位置じゃ気球を狙い撃たれる。少しでも有利な位置に移るんだ。」
「分かった。ところで、一つ案があるんだ。」
「何だ?」
「このまま追い掛けてるだけじゃ、何の意味もないでしょ?そこで・・・」
 言いかけたオッターが、ニヤリと笑いました。

バタン!!
 突然、後ろで起こったその小さな音に、スコーピオン号の操舵室の3人はピタリと動きを止めました。
 ジャックが首を捻って呟きます。
「あれ・・・おいらがアプリコットの部屋を閉めてくるのを忘れたかな?」
「違うな・・・お客さんだ。」
 不敵に笑ったフードマン。そうと聞いて動き出そうとするジャックでしたが、それをフードマンが制します。
「お前達は、ここでボスコ号に対処しろ。私が行く。」
 言い残して、フードマンは再びアプリコットのいる部屋へと向かいました。
 懐に手をやり、出した手に、鈍い光を放つ短剣が握りしめられていました。
「信じるって事がどういう事なのか、思い知らせてやるさ。」
 廊下で、引きつった笑いに口元を歪めるフードマン。その顔が、鈍く輝く短剣の刃にますます歪んで映っていました。
 操舵室に残されたフランツとジャック。
 そこへ突然、ビュンッと鈍い風の音と共に、何かが飛んできました。また一つ。操舵室の側の柵が1本、バキッと鈍い音を発して折れました。
どうやら、後ろからそれは飛んできた様子。
 驚いたフランツが振り向くと、上後方に、ボスコ号が確かにいました。
 また風を切り裂き、今度はフランツの側の柵がバキッと音を立てて弾けます。
どうやら、大きめのパチンコ玉を飛ばしてきているようでした。
ジャックが、目を光らせて舌なめずりします。
「ふざけやがって・・・こっちも応戦だ!フランツ、パチンコ玉、持ってこい!」
「えー・・・舵を持ってるのに無理だよ。」
 これ幸いと、フランツは反撃をジャックに押し付けてしまうようです。
「役に立たないなぁ、もう!」 
ぶつぶつ呟いて、ジャックは倉庫へと走っていきました。

ボスコ号では、タッティとオッターが、次のパチンコ玉をセットしてスコーピオン号を狙っています。
 とりあえず狙いは、スコーピオン号の操舵輪です。
「オッター、お得意の射撃で奴らを狙える気分はどうだい?」
 まんざらでもない様子で、タッティは側のオッターに聞きます。
「たまんないね!僕はあのローターを狙うよ。」
 タッティは得意満面で、2基あるスコーピオン号の後ろのローター目がけ、パチンコ玉を放ちます。
 ビンッと、鈍い音で高速回転するローターが玉を弾きます。
「でも、舵取りだけは忘れるんじゃないぞ!」
操舵室目がけパチンコ玉を放ち続けるタッティでした。
「分かってるって・・・わッ!!」 
ビュンッと風を切って、今度はボスコ号の側のデッキの柵が砕け散りました。
スコーピオン号からも、反撃が飛んできたようです。見るとジャックが、最後部の甲板で、遮蔽物に身を隠してボスコ号を狙っています。
「面白くなってきたぞ・・・オッター、早くケリをつけてしまおうぜ!」
「合点だ!」
二人は、一緒にパチンコ玉を力一杯引き絞り、放ちました。
 負けじと、ジャックも打ち返します。 
 ボスコ号の操舵室が、スコーピオン号のローターが、また鈍い音を立て、木片が飛び散りました。

 スコーピオン号に降り立ったフロークは、操舵室から一番遠い、最後部の部屋のドアが開いたままになっているのを見つけました。
 周りにフードマン達がいないのを確認して、戸口の横から部屋を覗きます。
いた!アプリコットがいました。椅子に両手を後ろ手に縛られ、じっと俯いています。 喜び勇んで、部屋に入ります。
「アプリ、ずいぶんおとなしいじゃないか?いつもそうだと助かるんだけど。」
「フローク!」
 何の前触れもなく現れたフロークに、アプリコットは驚き、立ち上がろうとします。
でも縛られている椅子に引っ張られ、危うく転びそうになりました。
「大丈夫?」
彼女を支えようとした時です。
「フローク、後ろ!」
 叫んだアプリコットの声に、反射的にフロークは身を伏せます。
 シュッと風を切り、何かが頭上を切り裂きました。
振り返って立ち上がると、短剣を手に、不敵に笑うフードマンが立っていました。
 パシパシと、剣の峰を手に叩いて、にこやかに言います。
「運がなかったな、フローク。今、私はすこぶる機嫌が悪い。ずばり、死んでもらうぞ。」 そして威嚇するように、短剣をフロークの方に突き出します。
 フロークも、腰のナイフを抜いて構えます。
 再び、腰を落とし、短剣を構えるフードマン。
心配そうにフロークを見るアプリコットに、フロークは笑って言いました。
「大丈夫だよ、アプリ。下がってて。こんなヤツにやられやしないよ。」
言うや否や、フードマンが短剣を繰り出してきます。
右に左に、振ってすくい上げて切り裂き突く一撃、また一撃、際どいステップで避けるフローク。闇に時折きらめく白刃。
 不敵に、ますます口元を歪め笑うフードマン。そしてまた突く。避けるフローク。
 短剣をじりじりと突きつけ、虎視眈々と隙を伺うフードマン。
 為す術もなく、見守り続けるアプリコット。
 外では、ビュンッ、ガンッ、バキッと絶えず音が響いています。
 無言で、睨み合いを続ける二人。
フロークの額から、汗が滴りました。
 それが床に届くや否や、瞬時にフードマンは剣を突き出す。
突き出した手を引っ張り、一気に捻り上げるフローク。たまらず、短剣を取り落とすフードマン。
落ちた短剣が、アプリコットの目の前に転がりました。
その勢いで、フードマンを投げ飛ばそうとします。
 短剣を取り落として安心したフロークの脇を、またしてもヒュッと風が唸りました。
 灼熱の熱さが右腕に走り、思わず右腕を押さえるフローク。
 押さえた左手に、血が滲んできます。
 目の前で、隠しナイフを手にしたフードマンが、にこやかにフロークを見ていました。「甘いな、フローク。武器は一つとは限らないぞ。」
 得意げに言うと、またナイフを繰り出してきます。
 受けて流そうとしたフロークのナイフが、部屋の外に弾かれてしまいました。 
殴りかかろうとしたフロークを、フードマンは事も無げに避け、上体の浮いたフロークをたやすく叩き倒してしまいます。
 そして、身動きの出来ないように押さえ切ってしまいました。
フロークの鼻先に、ナイフが光ります。
「男を押し倒すのは、私の趣味じゃない。さっさと終わらせるぞ。どこを刺して欲しい? 首か?胸か?それとも、カタワにして生かしておいてやろうか?」
 歯を剥いて笑うフードマンの後ろで、アプリコットが何やらうごめいているのが、フロークの目に秘かに映っていました。

ジャックとタッティ、オッターとの撃ちあいは、外で今も続いていました。しかしお互いに玉は限られているし、何よりほとんど効果がないようです。そろそろ、遊びの続きではいられそうにないようです。
 ウーン、と考えていたタッティが、何かを決心したように頷きました。
「何か、いい手を思いついたのかい、タッティ。」
「・・・ぶつけよう。」
「ぶつける?」
「そうさ、下の接地面を、奴らのローターにぶつけてやる!奴らを打ち落とすんだ!」
 仰天したのは、オッターです。そんな事をして、フローク達にもしものことがあったらどうするんだい!?
「やるしかないんだよ!このまま追い続けて打ち合ってても、埒があかないだろ?」
 君たちを信じるさ・・・そう笑ったフロークの言葉を信じて、タッティは降下のレバーを引きました。じわじわと引く間に、手に汗が噴き出しているのが分かります。
ゴクッと、オッターが固唾を呑んで見守っています。
 スコーピオン号に急接近するボスコ号。接触まで、あと数秒。

フードマンの突き出すナイフが、フロークの鼻先を突きました。
「とくと後悔しながら、死ぬがいい。薄汚い脳味噌を引きずり出してやる!」
 囁いて、フードマンがナイフを振りかぶる。思わずぎゅっと目を閉じるフローク。
 ガーーーン!!!
 船体を揺るがす物凄い衝撃が、空間を激しく蹴りつけ、揺さぶりました。
 突然の衝撃に、二人は壊れたおもちゃのように飛ばされてしまいます。
フロークが、フードマンが壁に体を叩き付けられます。
事態を知るのを待たず咄嗟に立ち上がったフードマンが、遅れて起きあがろうとするフロークにナイフを振りかざした時。
 フロークの目には、突然浮いた椅子が、フードマンの頭にぶつかりました。
 ギョッとして振り返ったフードマンの顔に、また椅子がイヤという程叩き付けられ、フードマンは言葉も発せずバッタリと倒れてしまいます。
その後ろに、たった今まで自分が縛り付けられていた椅子を手にしているアプリコットが息を荒立て、立っていました。
 信じられない目で、フロークはアプリコットを見ています。
「・・・アプリ、どうやって?」
 やっとのことで口を開いて尋ねたフロークに、アプリコットは黙って床を指さします。
 フードマンの短剣が、転がっていました。それで縄を切ったようです。
 よかった・・・
 安心の笑みを漏らしかけた時でした。
 ガクンと、足下が抜けたような脱力感が、船を襲いました。そのまま、後ろに傾いたままゆっくり墜ちている様子。何が起きたのか分からないが、明らかに船は失速しているようです。立ち直る様子はありません。
 早く船を立て直さないと!
「アプリはここにいて!すぐ戻る!」
 言い残して、フロークは駆け出していきました。
 そのまま、操舵室へ駆け込みます。
 来てみると、フランツが壁に頭を打ったのか、すっかり伸びてしまっていました。
 迫り来る地上を見ると、ヴィーゼンベルクの象徴の草原がほんの目前で切れ、あとは荒れた剥き出しの岩場が一面に広がるばかりでした。
 船は、断末魔の震えを不快に繰り返し、ますます失速して降下するばかり。こんな岩場で不時着などできる筈もありません。さしものスコーピオン号といえども、木っ端微塵に砕けることでしょう。
痛む右腕も構わず、フロークは力一杯面舵を切ろうとします。
 途端に、痺れるような激痛が右腕に走り、顔をしかめます。
 それでも、舵を回そうとする。
 でも傷ついた右腕は、途中で痺れて言う事を聞きません。
 くそッ、もう少しなのに・・・
 諦めかけたフロークの手に、手を重ねる者がいます。
 振り返ると、アプリコットがすぐ隣で、舵を回そうとしていました。
フロークと目が合い、照れたように笑います。
 頷いたフロークは、アプリコットと舵をひたすら右へと回し続けました。
辛うじて、地上すれすれで、スコーピオン号は草原へとかかりました。
 しかし、不時着の衝撃が大きいことに変わりはありません。
 見る見る草が迫ってきます。時は切迫し、衝撃の数秒前。
 咄嗟に、フロークはアプリコットを体一杯で抱きしめました。
ズンッと腹の底を抉るような衝撃、ガガガガッと肌を掻きむしるような大音響、視界を幕のように覆い隠す土煙、飛び散る草の破片と土砂の雨。
 抗いようのない反動と衝撃の嵐の中、どこかで意識が真っ白くなって程なく切れました。

穏やかな風が、眠ったように動かないフロークの頬を撫でていきました。
 彼は、恐る恐る目を開けてみます。
 彼の目には映りませんでしたが、不時着したスコーピオン号は草原の上で大して壊れもせず、舳先を草原の下の土に突っ込み、半ば埋もれる状態に留めていました。
 嵐は過ぎたようです。胸一杯息を吸って、生きていることを確かめます。ほんの一息の安らぎ。
 しかし本能的に、彼は胸元に無くなっている感触を感じます。
 アプリ・・・アプリは!?
 慌てて見回すフローク。
 目の前で、投げ出されたように横たわるアプリコットがいました。
 目を閉じたまま、微動だにしません。
飛び起きて、彼女の側ににじり寄ります。
 頬を叩いても体を揺すっても、ぐったりと力無く、何の反応もありません。堅く目は閉じられたままです。
 ・・・ウソだろ?
 茫然と、息を呑むフローク。
 その彼の眼前で、ボスコ号が空中で静止しました。
 タッティが、デッキから身を乗り出して叫びます。側では、オッターが笑顔で手を振っています。
「無事のようだな、フローク!」「よかった、よかった!」
「よくないよ!アプリが目を覚まさないんだ!今、そっちに行く!」
 声を震わせて叫んだフロークは、アプリコットを背負い、土に埋まった舳先からスコーピオン号を降りていきます。
 フードマンに斬られた右腕の痛みなど、完全に忘れていました。だから当然、彼は気付くはずもありませんでした。 
気を失って背負われている筈のアプリコットが、そっと目を開けて、自分を背負って走るフロークを見つめていることに。
背負われたまま、本当の安らぎの在処を見つけた穏やかな顔で、そっと目を閉じ、フロークの大きな肩に身を任せました。
彼の背中の温もりに包まれて。

夢を見ていました。
身の丈もある草原の中を、一人さまよい歩くアプリコット。
 空はどんより曇り、風は不安げに騒ぐばかりです。
 何かに追われる思いで、草を掻き分け掻き分け、彼女は歩き続けます。
 と、不意に曇った空から、一筋の光が地上の一点を射しました。
 其処に何かがある・・・一心に駆け出すアプリコット。
やがて光が射す所に立つと、彼女はこの上もなく静かで穏やかなこころに満たされ、辺りは真っ白い暖かい光に包まれました・・・
光をまぶたの向こうに感じて、そっと目を開けます。
窓から差し込む暖かい太陽の光が、彼女を迎えてくれました。眩しさに目を細めるアプリコット。
明るさに慣れ、周りを見回します。
 見慣れた場所、部屋です。
 どうやらボスコ号の寝室で、彼女は寝かされていたようでした。
 外を見ると、殊更明るく強く照る陽の光が、一夜明けたことを教えてくれました。
 先日のことが、走馬燈のように記憶に流れては消えていきます。
その時、外でカツカツと足音が響き、寝室の前で止まりました。
 開いた扉から、フローク、タッティ、オッターが心配そうに入ってきます。
「あっ、気が付いてるよ。よかった!」
 アプリコットが目を覚ましていることに気付き、真っ先にフロークが歓びの声を上げました。タッティとオッターも一様に安堵の笑顔を浮かべ、アプリコットの側に寄ります。
恥ずかしそうに、布団で顔を覆ってしまうアプリコット。
愉快そうに、フロークがそんな彼女を覗き込んで尋ねます。
「気分はどうだい?お姫様。」
 普段は嫌がる言葉ですが、どうやらそんな余裕もない様子。
「・・・サイテー。でも、すごく幸せな気持ち・・・。」
布団で顔を覆ったまま、答えるアプリコット。そうしないと、何故だか湧き出てくる涙を抑えようもなかったからです。
フローク、タッティ、オッター・・・みんな、いてくれてるじゃない?
分かってる。こんなわがままだった私なのに。こんな気ままな私なのに。
 こんな私の周りに、いつもみんながいてくれてる。
 布団をかぶったまま、アプリコットは零れそうな涙を懸命にこらえていました。
やがて、気を利かせたオッターが言いました。
「みんな、アプリも疲れているようだし、しばらく静かにしておいてあげようよ。」
 頷くフロークとタッティ。そっと、寝室を出ていきます。
パタンと優しく閉じる扉の音を、布団の向こうでアプリコットは聞いていました。

数分後。まだ少し気怠さの残る様子で、アプリコットか寝室から出てきました。
ダイニングキッチンでお茶を飲んでいたフローク達が、心配そうに見ます。
「アプリ・・・大丈夫なのかい?」
「うん・・・もう平気。フロークこそ、怪我したでしょ?大丈夫?」
「かすり傷さ。何て事ないよ。」
「よかった・・・。」
そして少しためらった後、3人に向かってアプリコットはピョコンと頭を下げます。
「ごめんなさい!私のわがままで、今回はみんなに迷惑をかけて。反省してます!」
 頭を下げたままのアプリコット。
 やがて、そんな彼女の頭を撫でる手が。
 そっと顔を上げると、にこやかなフロークの笑顔がそこにありました。
「そんなアプリが、みんな好きなんだよ。」 
そして、自分の言葉に照れて顔を逸らすフローク。
「そうさ。それに、別に今回に限ったことじゃないし、な。」
「そうそう!」 
そして、アハハハ・・・と笑う3人。
「な・・・何よ、それ。」
 戸惑いつつ、彼女も思わず笑いを漏らします。
笑いを抑えたフロークが、それでは、と口を開きます。
「よし・・・じゃ十分楽しめたことだし、早速出発しよう。」
 その言葉に、アプリコットは少しためらう様子を見せます。
 少し迷う素振りを見せて、彼女は思い切って言いました。
「フローク・・・わがままついでに、もう少し出発を待ってくれない?」
「えっ・・・何で?」
「やり残した事が、一つだけあったんだ。」
そう言って、意味ありげに彼女は笑うのでした。