「イーゴリ軍記」の作者の深い愛国主義
全体として、「イーゴリ軍記」の作者のあらゆる思想、あらゆる感情は、ロシアの大地に、ロシアの民衆に向けられている。彼は、(ロシアの)広い空間、山や河や草原、町や村について語り、故国に住んでいる様々な鳥や獣の出来事に関わりを持っている。彼は、ドイツ人やヴェネチア人、ギリシア人やモラビア人に、ロシアでの出来事に耳を傾けるように強く求めている。 しかし、「軍記」の作者にとって、ロシアの大地とは、ロシアの自然やロシアの都市だけでなく、先ず何よりも、ロシアの民衆である。イーゴリの遠征について語りながら、「軍記」の作者は、ロシアの民衆のことを忘れない。イーゴリは、「ロシアの大地のために(за землю Русскую)」ポロヴェツ人への遠征を行った。彼の戦士たち--これは「ルーシの民(русичи)」、ロシアの息子たちであった。ルーシの国境を越えながら、彼らは、自らの祖国--ロシアの大地に別れを告げる。そして、作者は声を張り上げて叫ぶ。「おぉ、ロシアの大地よ!汝は、すでに丘の彼方に!(О Русская земля!ты уже за холмом!)」イーゴリの敗北は、ロシアの民衆すべてに悲しみをもたらした。ロシアの戦士の妻たちは、ルーシのために戦いで命を落とした夫たちに、深い哀悼の情を抱いている。 捕虜からのイーゴリの決死の逃走、そしてイーゴリの帰還は、町や村の住民を歓喜させた。「軍記」の作者にとって、ロシアの農民の平和な労働が大切である。そして、内乱で、この労働を乱し、民衆を大いなる不幸に陥らせる諸公たちに憤慨している。
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「イーゴリ軍記」の構成
「軍記」の構成は、均整がとれていると同時に複雑である。均整がとれていることは、何よりも、詩の構成に現れている。「軍記」全体は、三つに基本的な部分に分けられる。1)イーゴリの遠征、2)ズヴァトスラフの予言的な夢と彼の「黄金の言葉」「ロシアの大地、イーゴリの手傷の」報復を求めるメッセージの込められた諸公たちへの作者の呼びかけ、3)捕虜からのイーゴリの帰還。序文は、第一部を予言している。そこで、作者は、彼の時代には、二つの異なった叙述法があったことを示している。出来事を正確に再現しようと志向する、物語の語り手としての叙述法と、吟唱詩人(バヤーン(Воян))に似た、空想を広くかき立てる歌い手としての叙述法と。囚われの身からイーゴリが帰還する物語りである第三部の前には、ヤロスラブナの「哀歌(Плач)」が続く。均整のとれた構成で、「軍記」は、多くは和唱(畳句)で終える。絵画的描写と歌の列に分けて、調和を保っている。「自らには栄誉を求め、公には栄光を(ища себе чести, а князю -- славы)」「おぉ、ロシアの大地よ!汝はすでに丘の彼方に!」「ロシアの大地のため、ズヴァトスラヴフの雄雄しき子、イーゴリの手傷のため(за землю Русскую, за раны Игоревы, буего Святославича)」など。これらの和唱のおかげで、叙事詩は、あたかも、節(строфы)に分けられているかのようである。 構成の組立は、まさにその作品のジャンルによるものである。(それは、雄弁家の言葉であると共に、同時に、歌であり物語である。)作者の目的は、単に事実を述べることだけでなく、自らの主要な理想の観点から--ルーシの軍事力の統一--評価をする事だった。それ故、ある時は、現在と過去を比較し、ある時は、沈思黙考し、回想を交えながら物語を中断して、出来事を置き換える。(時には、年代に反してさえ)例えば、ポロヴェツ人とのイーゴリとヴセボロトの決戦での、力と勇敢さを示すために、作者は会戦の話を中断し、オリガ・ズヴァトスラフの息子たちの治世下の内乱について語り始める。その後、彼は、そうした経過を経て、再び、宿命的な決戦へと戻る。「そのような戦いは、その遠征、戦争にもあった。しかし、今度のような決戦は聞いたこともない。(То было в те походы и в те войны, а таковой битвы и не слыхано)」作者の叙事詩的、社会政治評論的挿入は、数多くある。 詩全体は、深く歌うような、高揚した荘厳な音調で、遠征について、特にロシアの大地の運命について語る。優しい、心からの音調で、遠征に出かけた夫を思う妻たちの哀歌、特にヤロスラブナの嘆き(哀歌)が伝えられている。
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「イーゴリ軍記」の詩の特徴
「軍記」の作者の愛国主義は、詩の言葉の中に自らの表現を見いだしてた。彼の言葉は、詩人の出来事への生き生きとした関心を示している。作者は、これほどまでの不幸がルーシに降りかかったことを悲しみ、諸公を非難し悪事を暴いている。一方で、ロシアの民衆とその指導者、兵士たちのヒロイズムを常に賛美している。 「軍記」の作者自らの感情は、力強い多様な言葉で表現されている。「夜明け前早く、遠くで物音がする。あのざわめきは何だ!(Что (это) шумит, что звенит вдалеке рано перед зарёю!)といった雄弁家の演説に特徴的な、問いかけ、諸公や聞き手にメッセージを伝えようとする態度、「しかし、イーゴリの勇敢な軍は、もはや蘇らない!(А Игорева храброго войска уже не воскресить!)」といった絶叫、さらには、広くモノローグが用いられている。作者は、聞き手に必要な志気を高めようとしている。ほら、彼は、イーゴリの遠征での行軍について語るときに、言葉を選び、あらゆる描写を駆使し、ロシア人を待ち受けている(遠征の)大失敗を予感させようとしている。(恐怖を呼び起こす狼の遠吠え、屍に獣を呼び集める鷲の鳴き声、狐の声、獣たちのうめき声、飛び散った白鳥の叫びを想起させるポロヴェツ人の荷馬車のきしる音。)大会戦を記録するとともに、作者は、剣の稲妻、槍の折れる音、ポロヴェツ人の叫び、大地のうめきを伝えようと努力している。 生活描写の価値観は、作者にとっては民衆の価値観と一致するので、「軍記」では、明らかに、特に民衆口承詩との関連が感じられる。例えば、形容詞句では、文語文学的なものより、民衆詩的なものの方が多く見られる。民衆詩的なものは、серый волк(灰色の狼)、сизый орёл(灰青色の鷲)、чёрный ворон(黒いカラス)、борзый конь(駿馬)、чистое поле(果てしなく広がる草原)、синее море(青い海)などであり、文語文学的なものには、серебряная седина(銀の白髪)がある。 的を得た形容詞句と並んで、しばしば比喩的表現と出会う。железные путы(鉄の枷)、железные полки(鉄の軍隊)、золотой шлем(黄金の兜)、золотое слово(黄金の言葉)、копья булатные(鋼の槍)、копья живые(生きた槍)など。 古代の真の民衆詩人として、「軍記」の作者は、抽象化された概念を擬人化し、それをあたかも生きた人間のように提示する。例えば、ポロヴェツ人によってロシア軍が壊滅するところを語りながら、作者は、次のような絵画を描く。「カールナは(Карна=あとを慕って)、泣き叫ぶ、傷ましいジュリャ(Жля=嘆きの声)は、ロシアの大地を駆けめぐる。角をさらに炎々と燃えさからせ、炎を広めながら。(Завопила Карна, и скорбная Жля поскакала по Русской земле, раскидывая огни в пламенном роге.)」カルナ--каритиという言葉から--は、死者を追悼すること、жля--жалетьという言葉から--死者を嘆く女性、悲しみに泣き暮らす女性を意味する。обида(陵辱)は、白鳥の翼で羽ばたく乙女の姿に擬人化される。 「軍記」の中には、多くの民衆詩の象徴的な描写がある。大会戦の描写を始めるにあたり、作者は次のような象徴的な絵画を描いている。「黒い雨雲が海からわき上がり、四つの太陽を包み隠そうとしている。(Чёрные тучи с моря идут, хотят прикрыть четыре солнца)」「黒い雨雲」とはポロヴェツ人であり、「四つの太陽」とは、四人のロシアの諸公である。その大会戦は、正に、播種、婚礼の宴、脱穀といった象徴的絵画の中に描かれている。これらの絵画の助けを借りて、平和な労働を守ろうとする考えが一貫して示される。 広く民衆詩に特徴的で、同時に、封建社会のロシアの生活が反映された独特の様式が対応している。例えば、非常によく、領主のお気に入りの狩猟用の鳥である鷹の姿と出会う。バヤーン(Боян=吟唱詩人)、グースリの演奏を、作者は鷹狩りに喩えている。しかし、民衆の作品では、鷹は何よりも--英雄の象徴である。作者は、数羽の鷹を、イーゴリ、ムスティスラヴィッチ(Мстиславич)、ズヴァトスラフと呼んでいる。カラスは、粗野で強欲な力の象徴である。「黒いカラスよ、おまえはポロヴェツの餌食となるためではない。(Ни тебе, чёрный ворон, поганый половчанин!)」憂愁の象徴であるカッコウに、夫のことで愁いに沈むヤロスラヴナは喩えられている。 「軍記」の作者の詩的技巧は、同音反復、すなわち単語の初めや中央、あるいは終わりで韻を踏んでいることに現れている。例を挙げると、「в пяток потопташа полки поганые полки половец кие(その金曜日、軍はポロヴェツの邪教の軍を蹴散らして)」(語頭の子音пが韻(頭韻)を踏んでいる)、「се ли створисте моей сребреней седине(汝らは、我が銀の白髪にこんなことをしたのか)」(сが頭韻を踏んでいる)は、巧みに頭韻を利用し、作者はうまく音を伝えている。他の例では、夜の不気味な遠吠えは、スースーという音や、シューシューという音(с、з、ш、щ)を用いて表現している。「ношь стонущи ему грозою, птичь убуди: свист зверин въста(夜は雷鳴を轟かせて、鳥は眠りを覚まし、獣らは鋭く鳴いて)」
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「イーゴリ軍記」の意義
「イーゴリ軍記」には、巨大な思想的芸術的意義がある。これは、深い愛国的作品である。その中に、苦難にあえぐロシアの大地への作者の深い愛情が表現されている。外敵から祖国を守るために、ロシアの人民すべての力を一致団結しよう、民衆の平和な労働を守ろうという呼びかけが鳴り響いている。この愛国的思想がこの作品を不朽のものにしている。 「軍記」は、11−12世紀のルーシの封建社会の真実を描いた絵画としての価値がある。諸公間の関係、草原での戦い、歴史的に正確に詩に描かれた民衆の状況。多くの古代ロシアの諸公たちの人物描写、性格描写は、表情豊かで歴史的に正確である。詩の芸術性、作家の独創的な詩的技法は、著しく高い。プーシキンは、この作品に息づく「古代の息吹(дух древности)」に魅了された。 「イーゴリ軍記」は、ロシア文学に大きな影響を及ぼした。14世紀、タタール人との戦いの時、クリコヴォの戦いについての作品--「ザドンシチナ(Задонщина)」--が創られた。それには、「軍記」の影響が強く感じられる。詩が発見されてから今日まで、「軍記」の芸術的様式は、多くの詩人や散文作家たちの創作に反映されているのを見いだす。優れた詩人たちは、「軍記」を現代ロシア語に訳してきたし、今日でも訳されている。 「軍記」が発表されて、すぐに、様々な言語に翻訳された。ウクライナ語、白ロシア語、セルビア語、クロアチア語、チェック語、ブルガリア語、ポーランド語、フランス語、ドイツ語、英語、イタリア語、ハンガリー語など。「軍記」は、今もソ連邦の兄弟国の言語に翻訳され続けている。 「この詩を読むと--有名なポーランドの詩人、А.ミツケヴィッチは語った。--すべてのスラブ人は、その魅力にとりつかれる。「イーゴリ軍記」の表現や様式の多くは、絶えず、後のロシア、ポーランド、チェックの詩人の作品の中で出会う。スラブ人の気質が変わらない限り、常に、この詩は国民的作品とみなされ、現代性という性格をも持ち続けるだろう。「軍記」についての称賛に満ちた批評を、チェック人やポーランド人の学者の中に見いだすことができる。 「イーゴリ軍記」は、作曲家や芸術画家たちにもインスピレーションを与えた。「軍記」をテーマにして、作曲家ボロディンは、オペラ「イーゴリ公」を書いた。画家ヴァスネツォフとレリーフは、「イーゴリ軍記」の場面を絵に描いている。
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