音楽史

[ネーデルランド人の支配][巨匠オケゲム]

ネーデルランド人の支配

 「ルネサンス(the Renaissance)」という私たちの持つ概念は、今世紀初めに広まっていたものより遙かに広く、それほど明確には定義付けられていないのだが、その言葉(用語)は、軽々しく捨ててしまうにはあまりにも有益である。私たちが「ルネサンス絵画」について話すとき、レオナルドやラファエロ、ボッティチェッリやジョルジョーネ、ベッリーニやマンテーニャ(それに彼らの先行者というよりむしろ後継者たち)の作品のことを言っているのを私たちは誰でも知っている。そして、何かの理由で、私たちはデューラーやホルバインのことはそれほど思い起こさず、マティアス・グリュネヴァルトのことは考えていないことは確実であることは意義深い。「再生(再興):ルネサンス」は、イタリア起源であった。音楽的には、15世紀のその徴候は、絵画の傑作と比較してみると意義深いものだった。しかし、それにもかかわらず、それらは全ヨーロッパに広がった。「ネーデルランド(Netherland)」に関する限り、世俗音楽は、まだ中世の音楽であった。ちょうどブルゴーニュ(ブルグンド)のフィリップ王の宮廷やルイ11世の宮廷がまだ中世のものであったように。教会のアイソリズムの音楽は死に絶えたが、「カノン」や「プロポーション」(上述 p.146を見よ)の知的技巧、レトリキュール(Rhetoriqueurs)の韻文に音楽で対応するものは、それでも育まれ、1452年からその死まで、フランス王宮(ロワイヤル)礼拝堂の指導的音楽家ヨハネス・オケゲム(Johannes Ockeghem(1425-1497)より輝かしい音楽家は、一人もいなかった。また、オケゲムは、文字通りの師ではないが、彼の死後、レトリキュールの2人によって書かれたデプロラシオン(Deplorations)に名の挙げられた作曲家たちの模範であった。その一つで、ギヨーム・クレタン(Guillaume Cretin)は、アレクサンダー・アグリコラ(Alexander Agricola)(1446-1506)、「ヴェルボネ(Verbonet)」(ヨハネス・ギスラン(Johannes Ghiselin)として知られる)、ジョスカン・デ・プレ(c.1440-1521)、「ガスパール(ヴァン・ウェルベケ)(Gaspar(van Weerbeke))」(c.1445-c.1515)、アントワーヌ・ブリュメル(Antoine Brumel)(c.1460-c.1520)そしてロワゼ・コンベール(Loyset Compere)(c.1450-1518)に、彼らの「師でありよき父である人(Maistre et bon pere)」の死を嘆くよう呼びかけている。2つ目のデプロラシオン、イェハン・モリネ(Jehan Molinet)による「森の妖精たち(Nymphes des bois)」は、ジョスカンによって音楽が作曲され、「ペルション(Perchon)」(ピエール・ド・ラリュー、多分本当はヴァン・デァ・シュトレーテン(Van der Straeten)(1460-1518年後)の名を「よき父」を失った人々に加えている。

 同時に、イタリアでは、クァットロチェント(15世紀)前半には、イタリア出身の作曲家としては、アントニウス・デ・チヴィタテ(Antonius de Civitate)、バルトロメオ・ブローロ(Bartolomeo Brolo)やヤコブス・ヴィレッティ(Jacobus Viletti)のようなマイナーな人物しかいなかったが、急激な人気のポリフォニーの高まりがあった。それは、やがて--マイナーな作品の中だけではあるが--その影響がイングランドを除くピレネー山脈からオーデル川まで全ヨーロッパを支配する、いわゆるフランドルの巨匠の何人かによって実践された形式と様式である。

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巨匠オケゲム 

 オケゲム自身は、恐らく、ワロン人ではなく、純粋なフランドル人であっただろう。彼より若い同時代の人、ヤコブ・オブレヒト(Jacob Obrecht)(c.1450-1505)やギスラン/ヴェルボネ(Ghiselin/Verbonet)のようではなく、彼は、自らの母国語の詩に決して曲を付けなかったが。シャンソンは、人が期待するように様式は本質的にブルグンド(ブルゴーニュ)様式であるが、ビュスノワ(Busnois)と同じ世代に属し、彼のように革新を行った。(上述 p.153を見よ)彼はまたロンド形式を好んだ。--すぐに廃れてしまうことになるが--彼の最も美しい歌の2つ、長い流れるような旋律線のある「Ma maistresse」と「Ma bouche rit」(1)は、ヴィルレである。後者はロンド「Maleur me bat」と共に、いずれも音節的な歌の様式で注目されるが、印刷されたパート(合唱)音楽の最も初期の一つである 1501年の画期的なオッタヴィアーノ・ペトルッチの「オデカトン(Odhecaton)」に死後出版されるという栄誉が与えられた。(第8章 n.58を見よ。)(グラドゥアーレや単旋律聖歌のあるミサ曲は、1470年代に出版されていて、ニコロ・ブルツィオ(Nicolo Burzio)(ボローニャ, 1487年)のムジケス・オプスクルム(音楽作品:Musices opusculum)には、木版印刷されたテキストのない3声の曲が含まれている。)(2)彼のシャンソン--実際には、彼の音楽全般--をデュファイ・バンショワ世代と区別しているものは、より密に織り込まれた壊れていないテクスチャーで、カデンツァに橋渡しをし、模倣をより多く使用していることである。他のパートの1つのカデンツァの最後の音に新しいエントリをもたらす彼の工夫は、後にほとんど普遍的に採用されることになった。

 Ex.42

シャンソンの1つだけにオケゲムはその名声の主な根拠となると考えられてきた数学的芸術の妙技を示している。これはロンド「Prenez sur moi vostre exemple, amoureux」(3)である。最下声部だけが書かれていて、第二の声部は1小節後から始まり、Aではなく4度高いDで始まっている。第3声部は、第3小節から入り、Gで始まり、これは30小節以上容易に保持されている。しかし、この芸当は、ミサ・プロラティオーヌム(Missa Prolationum)(4)によってはるかに超えられている。

 ここでは、スペリウスとテノールだけに完全な拍子で楽譜が付けられているが、それぞれミニマ(minor:minima)とマクシマ(major:maxima)のプロラチオ(prolatio)(p.118を見よ)である。一方、コントラテノールやバスは、それらに由来するが、拍子は不完全で、再び異なるプロラチオで同じ音を歌っている。このように、その2つの派生した部分は、2つの書かれていたものとカノンになっている。--キリエでは、ユニゾン、グロリアでは4度、クレドでは5度、サンクトゥスでは6度で。

 Ex.43

芸当そのものより、驚くべき唯一のものは、その結果生じた威厳のある美しさである。そして、同じことがミサ・クーユスヴィス・トーニ(Missa Cujusvis toni)(5)について言われるかも知れない。それは採用する調に応じて、D,E、FあるいはGの旋法で、また1つのフラットの符号の助けを借りて歌うことができる。--オケゲムは何も与えてはいないが--。しかし、これらのミサは例外である。オケゲムの最高傑作であるミサ・ミミ(Missa Mi-mi)(6)は、自由に作曲され、恐らく、その名はすべての声部が、E(「ナチュラル(自然)・ヘクサコード」ではミ)あるいはB(「ハード(硬い)・ヘクサコード」でミ)で、それぞれの曲が始まるという事実によっているのであろう。

 彼のミサの大部分は--それらは、今日一般的な礼拝式に応じて声だけで演奏されたが--典礼(カプト(Caput)やEcce ancilla Domini)やシャンソンの旋律あるいはテノールから借用された(ロム・アルメ(L'homme arme))カントゥス・フィルムスのある「テノール・ミサ(tenor Masses)」である。しかし、「テノール」はしばしば最下声部におかれ、「テノール・バッスス(tenor bassus)」あるいは「バッスス(bassus)」と呼ばれた。また、シャンソンの他の声部に言及されることもあるかも知れない。かくて、オケゲム自身の「Fors seulment」(Ex.42を見よ)に基づく不完全な5声のミサは、キリエのバッススIに実際に置かれている歌のスペリウスに基づいている。一方、同じ開始部のその歌のテノールは、キリエのスペリウスを始める。声部の始まり間のこうした類似性は、後には異なるが、すべて模倣が広がっていく印象を与えるのに寄与している。「Ma maistresse」のキリエとグロリアの対は、もう一つの例である。シャンソンのテノールは、バッススに移されているが、スペリウスとテノールの初めは、それに言及している。グロリアでは、コントラテノールは、シャンソンのスペリウスを歌うが、今やテノールとは異なる関係になっている。ミサ「De plus en plus」では、デュファイのシャンソンの精巧なテノールは、普通一般の「テノール」の位置を占めている。「ロム・アルメ」のテノールも、最低音部に移されたクレドとアニュスを除けば、同じである。「ロム・アルメ」では、最後のアニュスの最後のカデンツァは、デュファイのように、すべての声部でモートンのものと同一である。(p.148を見よ)(7) オケゲムのレクイエム--最も初期のものの一つ--では、その基盤は、ほとんど単旋律聖歌であるが、その扱いは、トラクトゥス(Tractus)の単純さにほとんど等しいものからオッフェルトリウム(Offertorium)の複雑さまで様々である。

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原注1

 HAM,i,Nos,74と 75で出版された。

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原注2

 Grove(fifth edition, 1954),vi,p.929のファクシミリ。

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原注3

 MGG ix,col.1829のファクシミリ。様々な解釈の解決には、Jeseph Levitan,「オケゲムの音部記号のない作曲」('Ockeghem's Clefless Compositions,' MQ,xxiii(1937) p.440を見よ。

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原注4

 Ed. Dragan Plamenac in Johannes Ockeghem:Collected Works,ii(New York,1947),p.21

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原注5

 Ibid.,i,p.44

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原注6

 Ibid.,ii,p.1:また、ed.Besseler,ChW,iv (Second edition, Wolfenbuettel, 1950) そのタイトルの慣習的な説明は--下降5度 e-Aからできている--受け入れられない。Aは「ソフト(軟)ヘクサコード」では「ミ」ではなく「ハードヘクサコード」では「レ」である。(p.84を見よ)

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原注7

 「L'homme arme」のキリエとアニュス・ディIIIは、「Collected Works,i」だけでなく、HAM,;No.73(a)と(b)でも出版されている。

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