翻訳論基礎(直訳か意訳か) 考えるということ 誤謬(誤認)論基礎
外部認識と内部認識 センター現代文(解法の手引き) 現代文の学習法

1.翻訳論基礎

(直訳か意訳か)

 ある翻訳の勉強会で、直訳か意訳かという話が出てきましたので、私なりの考えを書いておきます。問題は、直訳か意訳かということではなくて、翻訳とはどういうものか、どうすべきかという問題だと思っています。

 いつも取り上げる例に英語の Good morninngがあります。直訳すると「よい朝ですね」となり意訳すると「おはようございます。」になるのだと思います。しかし、一般には、よほどのことがない限り「おはようございます。」と訳すだろうと思います。そして、その言語の文化発想法に興味のある人なら、英語では「おはようございます。」を「よい朝ですね。」というんだなというような理解をすると思います。
 それでは、どうして「よい朝ですね。」が「おはようございます。」の意味になるのでしょうか。おわかりの方も多いと思いますが、Good morningは、単に「よい朝」という意味だけでなく、別の役割があるのです。例えば、土砂降りの天気の時でも、朝起きるとみんな Good morningというでしょう。なぜでしょう。それは、 Good morningという言葉には、朝の挨拶という機能があるということです。
 つまり、次のような構図になっていて、Good morningは「おはようございます。」と訳されるのです。

                       ―――――――
  Good morning  ==  |   朝の挨拶  |  ==  おはようございます。
                       ―――――――
                         /   \
                 good   ====   よい
                morning  ====    朝

 翻訳というのは、goodが「よい」で morningが「朝」だから、good morningは「よい朝ですね。」というような作業ではなく、Good morningは、朝の挨拶の機能があるという理解の上に立って、それに相応しい(対応する)言葉を見つけるという作業だということです。
 その場合に、相応しい言葉が見つかればいいのですが、場合によっては、それに対応する言葉が見つからないことも考えられます。その場合、新しい言葉を作ったり、すでにあるよく似た言葉に新しい意味を付け加えるというようなことが起こるわけです。こうした、文化の交流で、言葉は豊かになってきたとも考えられます。
 また、いろいろな解釈のある古典や思想を翻訳する場合、そこには解釈という作業が必ず含まれることになります。逆に言えば、解釈のない翻訳というのは考えられないということにもなります。

 こう考えますと、直訳というのは、その言語の文法構文、発想法を理解するための便宜的なものであって、決して翻訳でないというのが私の考えです。(現在では、こうした考えが主流になっているのではないでしょうか。)

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2.考えるということ


 ある新聞を見ていまして、哲学とは哲学理論や哲学史を研究することではなく、自分で考えることだというようなことが書いてありました。このことについては、私が学生時代(25年以上昔)から言われていたことで、別に反論するつもりもないのですが、最近は特に、それでは考えればそれでいいのか、考えれば正しい結果が得られるのかと疑問を持つようになったのです。
 実際、考えれば考えるほど迷路に迷い込むことがあります。考えに考え抜いた結果、間違った結論にたどり着くこともあります。考えればいいというものでは決してないでしょう。

 それでは、どうすればいいのでしょう。考えない方がいいのでしょうか。そんなことはありません。どう考えれば正しく考えられるのか、まず考えなければならないと言うことです。
 それには、過去の思想家たちがどのように考えたか調べてみる必要があります。現在の思考法の基になっているのは、何でしょうか。近代哲学、近代科学の基礎になる考え方にデカルトがいること間違いないでしょう。彼の「我思うゆえに我あり(cogito ergo sum)」はあまりにも有名です。彼は、論理的数学的に考えました。大陸合理主義(演繹法)の考え方です。その一方、イギリスでは経験論(帰納法)が発達しました。その二つを総合的統一的に考えたのがかの有名なカントであると、大ざっぱに言っていいでしょう。

 それでは、私たちがものを考えるときにどのように考えたらいいのでしょう。まず、論理的数学的に物事を考えることを身につける必要があるでしょう。これなしでは、正しい結果が得られるものでも、正しい結果は得られません。しかし、それだけでは十分ではありません。
 最近は、一方で「感じること」が大切だとよく言われます。それは、考えるだけでは駄目だということに他なりません。「感じること」とは経験です。つまり、考えただけでは駄目で、経験と照らし合わせながら考えなければいけないと言うことです。しかし、私が特に強調したいのは、「感じること」が大切だといっても、考えなくてもいいと言うことでは決してないことです。「感じること」には多くの間違いが含まれています。それを「考えること」によって、正しい結論を導き出さなければなりません。

 そういう意味でも、「考えること」、特に「正しく考えること」が重要になるのです。まず、論理的数学的に考えることを身につけることが大切だと私が考える理由です。
 ただ、現在はこれまでの思考法の限界もささやかれています。新しい思考法を探るときでも、我々人間は間違えいるものだ。どうすれば正しく考えることができるのか、常に念頭に入れておかなければならないでしょう。そうでなければ、新しい思考法を探る意味がありません。

 考えることが大切だ、感じることが大切だといっても、過去の迷妄に満ちた考え方に舞い戻ってしまっては決してならないのです。

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3.誤謬(誤認)論基礎


 人間は認識において、よく間違えます。勉強していても間違えますし、日常生活においてもそうです。どうして間違えるのかということについては、難しいこともあるかも知れませんが、認識の過程でどんなときに間違いをするのか考えてみることは、どうしたら正しい認識に至ることができるのかを考える上でも、役立つことだと思います。

 まず、認識の対象になる何かが存在するという前提で話をします。

 それを認識する場合ですが、まず五感(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚)で感じ取るわけですね。その働きを感性と名付けます。(直感とか第六感なども考えられますが、ここでは考えないことにします。)

 この場合、あるのにないと認識したり、あるのにないと認識したりする間違いが生ずるわけです。後で考えたら何でもないことでも、その時はそう感じるときがありますね。好き嫌いとか、その人の心理状態が影響を及ぼすわけです。それだけではありません。五感では認識できない性質が対象となるものに備わっているかも知れません。例えば、紫外線だとか超音波などというのは、目では見えませんし、耳でも聞こえません。

 つまり、感性によれば対象となるものを正しく認識することはできないということになります。

 その感じ取ったものを、カテゴリーに分類しますね。例えば、それは犬だとか猫だとか、その働きを悟性と呼びます。

 この場合、大まかなところでは一致するでしょうが、人によって異なった認識をすることがあります。例えば、犬といっても、頭に浮かべるのは、ドーベルマンのような犬を思い浮かべる人もあれば、チワワみたいな小さな犬を想像する人もいるわけです。さらに、文化が異なると全く違った認識にさえなるということです。ある人の話の引用ですが、骨董市で古い仏壇を買ってきたアメリカ人が、それをサイドボードに使って悦に入っていたという話がありますし、モチにピーナッツクリームを塗って、うまいうまいと食べていた人もいるそうです。

 つまり、悟性によっても、正しい認識には至ることはできない。

 次に、理性がきます。理性は、感性の不十分さも悟性の不十分さもわきまえたうえで働くものとしますが、理性は、五感から得られた認識や、悟性による言葉を用いなければ働けません。ここに根本的な問題があります。

 そこで、感性、あるいは悟性から得られたもののうちもっとも確からしいものを当然の真理として認めるということから始まります。いわゆる定義付けです。この定義付けは悟性のカテゴリー化の働きとは、区別して考えなければなりません。日常使っている言語(悟性)と学問で用いられる言語(理性)が区別されるように。たとえ同じ言葉が用いられるとしても、それが意味するものが違います。

 魚の例でいいますと、日常的には水中に住んでいて泳いでいるものぐらいの曖昧な概念ですが、学問的には、もっと厳密で卵生で鰓で呼吸するとかいうものです。

 これは理性の始まりに過ぎません。理性はそれを数学的論理的に論証する働きです。

 理性も、完全でないことはご存じだと思いますが、論理的矛盾が起こることがあります。また、前提となる定義付けが異なるとと、後の論証は当然のことながら、異なってしまいます。

 こうした問題点がありますが、科学は、これに実証主義(実験)が結びついて、大いに発展し現実の世界に大きな影響を及ぼしたのです。

 しかし、現在問題となっているのは、この科学の限界です。これまでの科学では、実証不可能なことが多く出てきたのです。実証できることだけに限定して発達して来た科学ですが、実証できないところで、とんでもない事態が発生するようになったのです。地球環境問題や環境ホルモンの問題はまさにそういったことに根ざしていると考えてよいでしょう。科学はそれを究明するのが使命だとも考えられますが、私たちは、現在実証不可能なものに対して、どう対処していくかという重大な問題、そしてその選択が迫られているのです。

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4.外部認識と内部認識


とあるフォーラムで、外部認識と内部認識という用語が出てきましたので、私なりにその用語を考えてみました。

外部認識:
 まず、外部認識ですが、一般に認識といわれているものがこれだと思っています。つまり、外部に何か認識の対象となるものが存在するという前提で物事を考えるわけです。意識という主体に対して外部に認識の対象となる何かの客体が存在するという立場ですね。
 その場合、対象となるものが、人間の五感から見て現実に存在するとは限りません。例えば、赤外線などは人間の五感では認識できないわけですけれども、科学的には現実に存在するわけですから。また、円のような数学の定義は、完全な円というのは現実には決して存在しえないわけですが、プラトン流にいうと「イデアの世界」として人間の意識の認識の対象として存在するわけで、これも外部認識ということになるでしょう。

内部認識:
 それに対して、内部認識というのは、認識する主体としての意識そのものを対象とする認識と考えていいのではないでしょうか。認識する主体としての意識を、認識の対象とするわけです。
 一体どうやって認識しようとするのでしょう。認識する主体と認識される対象(客体)が同一という奇妙なことが起こるわけですね。デカルトは、これを不問にしたと考えていいのでしょう。考えている意識としての自分。これは間違いなく確かなことだとデカルトは考えました。有名な「我思うゆえに我あり」です。こうすることで、内部認識は思考の対象外に置かれたのです。
 人間の意識を対象にした学問には、心理学なんかがありますね。しかし、心理学の場合は、主体となる研究者の意識そのものは、問われませんね。つまり、他の人の意識を認識の対象としているわけで、これは外部認識と考えていいのでしょう。そうでないと科学とは言えないような気もします。(他人の意識を考えるときに、自分の意識から類推するということはあるでしょうが、あくまでも対象は自分の意識から切り離した、客体としての他人の意識であるわけです。)
 哲学や文学・宗教には、自分の意識を深く考察した作品もありますが、それは科学とは言えないでしょう。

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5.センター現代文

(解法の手引き)

(某予備校で、マーク式の現代文の出来があまりよくないので、現代文の解法について何か書いて下さい、という命を受けまして、まあ、魔法のような解法はないのですが、日頃思っていることを書いてみましたので、ここにアップしておきます。文章を読むときの基本みたいなものですので、外国語の文章を読むときにでも役に立つのではないでしょうか。そんな思いで載せました。)

 
 国語の現代文を解くときに一応指針となるものをここに書いてみます。基本的なことは、これまで学んできたことと、大きな違いはありません。極めて基本的なことの確認です。
 現代文は、文章を読んで考えて答えを導き出さなければ、成績の向上は期待できません。小手先の解法などというのは、あまり期待したいせず、基本に立ち返って、問題に取り組む姿勢がなければなりません。

1.漢字と語句
  漢字は、何かの問題集を別個にやっていってもいいのですが、この時期が来て、そんな暇がないというのでしたら、授業や試験に出てきたものは一つ残らず覚えていくことをお薦めします。
  語句については、辞書的な意味もさることながら、文中でどういう状況で用いられているかも考慮に入れてください。これも、曖昧な語句を見かけたら、辞書で確認するぐらいの心構えが必要です。

2.現代文の解法の手順
  ここに書くものは、あくまでも基本的なものです。この手順は、別々に行われるものではなく、同時進行的に行われるものです。いくら手順や解法を覚えたところで、具体的な問題に一つ一つ当たっていかなければ、ほとんど意味はありません。

 評論、論説   

  1. 問題文を読んで書かれている内容を大まかにつかむ。
     さっと流してください。時間の制約もありますので、あまり時間をかけすぎてはいけません。
  2. キーワードに印を付ける。
     問題の文章にとって一番大切だと思われる語句に注目します。
  3. 論理の流れに注目
     これが、一番肝心なことです。文章には論理の流れがあります。そこに注目します。ここでは、指示語(「この」「その」「これ」「それ」など)や接続詞(「なぜなら」「だから」「しかし」など)に特に注目してください。
     また、同じことを述べている時でも、どれが一番簡潔に述べられているか、それを説明したものであるか、その例を解説したものであるかを見極めてください。大学入試では、同じことを言っているからといって、正解になるとは限りません。一般には、一番簡潔に述べている部分が正解です。注目すべき語句は「言い換えれば」「つまり」などです。(ただし、わかりやすく説明している部分を選びなさいという場合は、当然、これには当てはまりません。)
  4. 著者の主張をつかむ。
     普通、論を展開する上で、物事を二つに分けて考える場合が多いですが、その場合、著者は、どちらの立場に立っているのか見極める必要があります。結論としては、二つを総合したものになることもありますが、それもきちんとつかむことです。
  5. 選択肢の違いをつかむ。
     選択肢には意味のよく似たものがあります。その選択肢の意味の違いを捕らえて、問題文に述べられていることと照らし合わせてください。消去法も極めて有効です。
 小説
  1. 問題文を読んで書かれている内容を大まかにつかむ。
     さっと流してください。時間の制約もありますので、あまり時間をかけすぎてはいけません。評論文と違って、登場人物や時代背景、状況などをつかんでください。
  2. 感情心理の流れに注目
     評論文と違って、小説文で重要なことは、登場人物の感情や心理の流れです。また、これは、文章の中にはっきりと書かれているとは限りません。例えば、「寂しくて悲しい」という感情を、「雨の中、そこには石ころが一つ置かれていた。」と表現するようなものです。
  3. 主人公はどういう経過を経て、どういう心境に至ったか。
     2.の続きになりますが、これが小説文で一番大切なところです。ただし、評論文に比べると曖昧な部分がありますので、要注意。
  4. 選択肢の違いをつかむ。
     選択肢には意味のよく似たものがあります。その選択肢の意味の違いを捕らえて、問題文に述べられていることと照らし合わせてください。評論文などに比べますと、問題文に書かれているような雰囲気、心境をどう言葉として表現しているかということが重要です。選択肢に書かれている言葉の意味もしっかりと確認しておいてください。ここでも、消去法は極めて有効です。

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6.現代文の学習法


 言葉(言語)の学習は、ただ机に向かって勉強することだけではありません。国語(日本語)の学習のように、朝起きてから夜寝るまで、さらに眠っている間でさえ夢の中で、日本語を話し、日本語で考えている、日本語環境の中で生まれ育ち生活している一般の人々にとって、生活のすべてが日本語の学習です。家族との会話、友達とのおしゃべり、本を読んだりテレビを見たりするのも、大切な日本語の学習です。

 言葉は、大きく二つに分けられます。話し言葉書き言葉です。自然な言語の習得は、話し言葉から始まります。母親との会話を通して言葉を学びます。ここでは、言葉は音です。ある程度、話し言葉が身に付いた段階で、書き言葉の学習が始まります。小学校に入学して(最近では入学以前から)、ひらがな、カタカナを学び、漢字を覚えていくわけです。しかし、あくまでも書き言葉の基礎は話し言葉です。

 書き言葉は、話し言葉に比べると、生活の中で自然に習得できるものではありません。文字を読むという能動的な作業が必要になります。また、国語という教科の学習だけで身に付くものではありません。学校での教科書はすべて日本語で書かれているわけですし、英語の授業でさえ、日本語を使って行われています。また、日常生活のあらゆるところで目にする文字で書かれたすべてのものが、日本語の学習の対象となります。私たちは、こうして長い時間をかけて、日本語の能力を身につけ知識を蓄えてきたのです。国語の学科の学習をしただけで、国語の力が身に付いたわけではないのです。

 国語なんて勉強しなくてもある程度の点は取れるというのは、その蓄積があるからです。逆に、勉強してもあまり効果がないというのは、そう簡単に蓄積されるものではないということです。

 しかし、現実はもっと複雑です。言語の役割を考えてみますと、コミュニケーションの手段としての言語知識伝達の手段としての言語考える手段としての言語感情心理の表現としての言語などがあげられます。現代文の学習にとって必要なのは、書き言葉の、考える手段としての言語感情心理表現としての言語の役割です。ある程度の蓄積のある人でも点が取れないということがよくあります。頭の中がきちんと整理されていなかったり、状況がつかめなかったり。健全な論理に基づいた論理構成ができなかったり、他の人の感情心理を理解する上での想像力が欠如していたりするのです。現代文の理解にとって重要な、論理の流れや感情心理の流れが捉えられないのです。

 現代文の学習では、この論理の流れや心理の流れをどう捉えるかということがテーマになります。このことを充分意識して学習して下さい。

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