3.誤謬(誤認)論基礎
人間は認識において、よく間違えます。勉強していても間違えますし、日常生活においてもそうです。どうして間違えるのかということについては、難しいこともあるかも知れませんが、認識の過程でどんなときに間違いをするのか考えてみることは、どうしたら正しい認識に至ることができるのかを考える上でも、役立つことだと思います。
まず、認識の対象になる何かが存在するという前提で話をします。
それを認識する場合ですが、まず五感(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚)で感じ取るわけですね。その働きを感性と名付けます。(直感とか第六感なども考えられますが、ここでは考えないことにします。)
この場合、あるのにないと認識したり、あるのにないと認識したりする間違いが生ずるわけです。後で考えたら何でもないことでも、その時はそう感じるときがありますね。好き嫌いとか、その人の心理状態が影響を及ぼすわけです。それだけではありません。五感では認識できない性質が対象となるものに備わっているかも知れません。例えば、紫外線だとか超音波などというのは、目では見えませんし、耳でも聞こえません。
つまり、感性によれば対象となるものを正しく認識することはできないということになります。
その感じ取ったものを、カテゴリーに分類しますね。例えば、それは犬だとか猫だとか、その働きを悟性と呼びます。
この場合、大まかなところでは一致するでしょうが、人によって異なった認識をすることがあります。例えば、犬といっても、頭に浮かべるのは、ドーベルマンのような犬を思い浮かべる人もあれば、チワワみたいな小さな犬を想像する人もいるわけです。さらに、文化が異なると全く違った認識にさえなるということです。ある人の話の引用ですが、骨董市で古い仏壇を買ってきたアメリカ人が、それをサイドボードに使って悦に入っていたという話がありますし、モチにピーナッツクリームを塗って、うまいうまいと食べていた人もいるそうです。
つまり、悟性によっても、正しい認識には至ることはできない。
次に、理性がきます。理性は、感性の不十分さも悟性の不十分さもわきまえたうえで働くものとしますが、理性は、五感から得られた認識や、悟性による言葉を用いなければ働けません。ここに根本的な問題があります。
そこで、感性、あるいは悟性から得られたもののうちもっとも確からしいものを当然の真理として認めるということから始まります。いわゆる定義付けです。この定義付けは悟性のカテゴリー化の働きとは、区別して考えなければなりません。日常使っている言語(悟性)と学問で用いられる言語(理性)が区別されるように。たとえ同じ言葉が用いられるとしても、それが意味するものが違います。
魚の例でいいますと、日常的には水中に住んでいて泳いでいるものぐらいの曖昧な概念ですが、学問的には、もっと厳密で卵生で鰓で呼吸するとかいうものです。
これは理性の始まりに過ぎません。理性はそれを数学的論理的に論証する働きです。
理性も、完全でないことはご存じだと思いますが、論理的矛盾が起こることがあります。また、前提となる定義付けが異なるとと、後の論証は当然のことながら、異なってしまいます。
こうした問題点がありますが、科学は、これに実証主義(実験)が結びついて、大いに発展し現実の世界に大きな影響を及ぼしたのです。
しかし、現在問題となっているのは、この科学の限界です。これまでの科学では、実証不可能なことが多く出てきたのです。実証できることだけに限定して発達して来た科学ですが、実証できないところで、とんでもない事態が発生するようになったのです。地球環境問題や環境ホルモンの問題はまさにそういったことに根ざしていると考えてよいでしょう。科学はそれを究明するのが使命だとも考えられますが、私たちは、現在実証不可能なものに対して、どう対処していくかという重大な問題、そしてその選択が迫られているのです。
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