12

「またすごい事件ね。」
「神戸の小学生殺人事件だろう。誰が考えても異常な事件だよね。」
「首を切り落として、校門の前に置くなんて、あまりに異常なものだから、現実なんだかフィクションなんだかわからなくなってしまうわ。」
「そうだね。それに事件の起こったところから離れている人にとっては、本当に現実と言うよりドラマか何かのようにも思えるね。僕なんか小説のようなものを書いているけど、時々現実はそうじゃないというようなことを言う人がいる。フィクションだから当然現実とは違うわけだけれど、そこを理解してくれない人がいるのと同じように、現実に起こった事件を現実とらえられない人もいるのではないだろうか。いろいろな事件の対応が遅れたりすることも、生の現実に対する理解力の不足だという気がしないでもない。それにしても今回の事件は異常すぎるとは思うけど。」
「気味悪いわね。地元の人たちは、近所にその人がいるかも知れないというわけでしょう。いやね。」
「近所の人だけじゃないだろう。今の世の中、飛行機でも使えば、一日で日本国中移動できるわけだから、僕たちの隣にいたって不思議はない。」
「脅かさないでよ。」
「脅かすわけじゃないけど、先日もテレビでいっていたように、最近の日本はそういう事件が起こっても、社会の抑止力がなくなっているというんだね。つまり、まねをする輩が現れるというんだ。」
「なによ、なによ、よけいに脅かしているじゃない。」
「そうか。とにかく、一番の抑止力は犯人検挙だよね。警察の人は大変だろうけど、がんばってもらわなきゃ。」
「そうね、それしかないもんね。」

目次へ 

13

 しばらく発言しない間に、ペルーの大使館人質事件は解決を見た。公邸突入には驚いたけれど、これがテロに対する国際的なやり方かなと思ったりした。成功したからいいようなものの犠牲者多くでていたら大変だと思ってしまう。それを実行するには、フジモリ大統領の決断があったわけだ。改めて「勇気」という言葉の意味を考えさせられたように思う。英語の virtue の語源となっているのはラテン語の virtus だという。この言葉は vir(男) という言葉からきていて、男らしさを表す言葉だという。つまり美徳というのは、男らしさ、勇気を表す言葉だというのである。今回のような決断を下すのはまさに勇気のいることだろう。そして、その決断をした人は美徳を備えた人ということになる。この説明については、女性の人からの不満も聞かれそうだし、フジモリ大統領には、いろいろと批判もあるが、今回の件については何となくそんな感じがした。
 その一方で、野村証券の不祥事が取り上げられている。日本の金融界もいろいろと問題を抱えているようだ。アメリカの金融界も、いろいろな事件を経験して、改革を押し進めた結果現在のような近代化が達成されたと聞く。日本も、まさに勇気と決断を持って、いい方向に変革してほしいものだ。
 そして、小学生惨殺事件。これについては、もういいようがない。歴史上、こういった事件は絶えたことがないのかも知れないが、起こってほしくない最大の事件だろう。いろいろとマスコミなどでは推測されている。一体どんな人間が、こんな残虐な事件を引き起こすのだろうか。見るからに異常な輩の仕業のように思えるが、このところ気になるのは、一見普通の人が思いもかけないことをしでかすということだ。犯人の検挙を期待したい。

目次へ 

14

 「しかし、まいったな。小学生殺人事件の犯人が中学三年生と言うんだからね。」
 「あなたでも驚いたの。」
 「そりゃそうさ。最初にその話を聞いたときには背筋が寒くなったよ。」
 「中学の父兄や先生にとっては、「捕らえてみれば我が子なり」って感じかしら。」
 「どうだろう。その後の情報から判断すると、一部の学校の先生や生徒たちは薄々感ずいていたはずだね。警察も容疑者として挙げていたらしいから、それなりの情報はあったはずだ。学校関係者や警察関係者としては、そうあってほしくないと言う気持ちが強かったんだろう。普通の捜査なら恨み、怨恨という線は一番に取り上げるはずだからね。声明文にも書かれていたことであるし。でも、まさか中学三年生が、とは誰だって思うよ。」
 「でも、どうして中学三年生が。」
 「こういう事件を起こすと言うことは、それ自体、間違いなく情緒障害と言うか、何らかの障害があるだろう。全国どこにでも、切れると何をするかわからないと言う子供たちはいるし、動物を虐待するのが好きだとか言う子もいる。ホラー映画が好きだとかいうのはもっといるだろう。でも、なぜ、人間の首を切断して校門の前に置くというようなところまでエスカレートしたのかということなんだ。そこまでいくのは、やはりまれなケースだと思うんだよね。いろいろと推測はできるけどね。たとえば、阪神大震災の影響とか、中学に入ってからの環境の問題とか。阪神大震災の影響で考えられるのは、戦場なんかで育った子供に見られる情緒障害の例なんかが参考になるだろう。アメリカのベトナム帰還兵に見られたような情緒障害もそうかもしれない。中学時代の環境としては、これは調査する必要があると思うのだけれど、学校側はいやだろうね。校長のインタビューを見ても、動燃の時と同じように、隠すこと、なかったことにしようとしか考えてないようだし。これではいつまでたっても、真実に迫ることはできない。」
 「外国ではそうした研究はすすんでるの。」
 「専門家じゃないから詳しいことはわからないけど、日本よりはすすんでいると思うよ。そういった事例は日本より多いと思うから。」
 「日本もいよいよ外国並ってわけ?」
 「日本は安全だということで、研究が遅れているわけだろうから、これからの課題だね。よく言われることだけど、安易に結論を出してはいけないと思うな。今後のためにも。」
 「そうね。でも、本当にいろいろなことが起こるわね。」

目次へ 

15

 今年は早くからエルニーニョ現象が確認されているようで、異常気象が懸念されているが、早くも六月に台風が二度も上陸するということが起こった。1951年に観測が始まって以来初めてのことだという。とはいっても異常なのは気象ばかりではない。何をいっても小学生の殺人事件の犯人が近所の顔見知りの中学生であったということほど衝撃的な事件はないだろう。
 ここまでくると、何をいっても始まらない気がする。先にも述べたように、あらゆる方面からの客観的な専門家たちの分析が必要となってくるはずだ。いい加減な意見は許されない。本人の資質の問題もあるだろう。しかし、それだけに帰してしまうのは無責任だ。震災の影響、学校、家庭、地域社会それぞれの環境、メディアやコンピュータゲーム、ホラー映画などが成長期の子供たちに与える影響など、様々な視点から客観的な分析こそが必要となっていくはずだ。「平等な」日本社会では、ともすると成熟した大人も成長期にある子供たちもなぜか平等なのだというような感じでとらえられがちである、と思う。この点、大人たちが自分の責任で行うことについてはかなり自由でありながら、子供たちに対してはかなり制限をしているアメリカなどとの違いがよく指摘されている。(たとえば、一般家庭で見られるテレビ放送など。)
 しかし、単にまねをすればいいというような問題ではない。何度もいうようだが、様々な視点からの客観的な分析に基づいたものでなければならない。そのために専門家たちの努力が求められている。よく言われる「日本には本当の専門家はいない。」という言葉。外国からの説を解説するだけではない、日本の具体的事例に基づいた、しかも表面的な分析でない事実に深く踏み込んだ分析を期待したい。優れた専門家の人たちがいるはずだから。

目次へ