ラジーシチェフ

[ラジーシチェフの生涯と功績]

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 ラジーシチェフは、私たちが誇りとする名の作家である。18世紀のすべての著名な人々の中で、彼はソビエト市民に最も近く親しい人物である。若いソビエト共和国のよって建てられた最初の記念碑がラジーシチェフの記念碑であったことは、それなりの理由があった。
 ラジーシチェフは、ロシア最初の革命家、専制・農奴制に対する、人間の迫害に対する闘士として、私たちには親しい。彼は「初めて自由を予言した(вольность первый прорицал)」--私たちは、ラジーシチェフ自身の言葉で、そのことを語ることができる。ラジーシチェフから始まって、ロシア文学は、新しい極めて価値ある性格を獲得し、進歩的芸術文学と社会革命運動との直接の繋がりが生ずる。

ラジーシチェフの生涯と功績

 アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ラジーシチェフ(Александр Николаевич Радищев)は、1749年8月20日、大貴族地主の家に生まれた。サラトフ県上アブリャゾフ村(Верхнем Аблязове)(現在のペンザ州グズネツ)、ボルガ中下流域の自然の中で、大地主の屋敷の中で子供時代を過ごした。農奴の子守女と農奴の男子守が彼に民話を語り聞かせ、彼を民衆詩の世界へと導いた。
 ラジーシチェフの父は、教養ある人物であった。母は善良で、感受性豊かな女性であった。彼らのところの農民は、他の貴族地主たちのところの農民より、遙かによい暮らしぶりであったので、プガチョフの乱の時には、農奴たちはラジーシチェフの父親や彼の兄弟姉妹たちをプガチョフの暴徒たちから救ったのだった。ラジーシチェフの近隣の地主貴族たちは、そうしたものでは全くなかった。例えば、アブリャゾフから6露里(およそ 6.4km)のところに、ズボフ(Зубов)の領地があった。この貴族地主は、本当の悪漢であった。彼は、自分の農民たちを完全に搾取した。彼は、農民の所有していたものすべてを奪い取り、彼らを家畜のように共有の桶で食事させ、残忍なまでの罰を下していた。ラジーシチェフは、このことを知っていた。こうした印象が、永遠に彼の記憶の中に刷り込まれていた。
 7歳の時に、ラジーシチェフは、モスクワに送られた。ここで、彼は叔父の家庭で過ごした。叔父の子供たちと共に、ラジーシチェフは、モスクワ大学の最も優れた教授たちのもとで学んだ。また、彼らの共通の家庭教師は、フランス人--ものの見方は共和主義者--であった。
 1762年、エカテリーナ2世がモスクワに滞在しているときに、ラジーシチェフは、叔父の請願によって陸軍幼年学校の生徒に「なった(пожалован)」この後すぐ、ラジーシチェフはペテルブルクに至り、中央幼年学校(Пажеском корпусе)1 で学び始めた。ここでの教育はひどいものであった。すべての注意は、宮廷の幼年学校生徒の教育に向けられていた。しかし、ラジーシチェフは、ここで多くの印象を得て、後になって自らの「旅行記(Путешествим)」の中に、宮廷社会の風習を描写するのに役立った。

1. Пажеский корпус - 最も高貴な家族のための教育施設
 1776年に、エカテリーナ2世の新しい法典(法律大全)編纂の委員会を招集するという企図と関連して教養ある法律家たちが必要となり、12人の若い貴族がドイツ(ライプチヒ)に派遣されることが決定した。この12人の数の中に、ラジーシチェフも入っていた。1767年の初め、ラジーシチェフとその仲間たちは、ライプチヒに到着した。
 ラジーシチェフは、およそ5年を大学で過ごした。彼は、法律学、言語、哲学、自然科学、そして医学を学び、多くの書を読んだ。この時期、フランスではブルジョワ革命がまさに起ころうとしていた。「啓蒙主義者(просветитель)」という名を得た進歩的作家たちは、彼らの著作で革命の準備をした。レーニンは、「18世紀の啓蒙主義者たちが著作したこの時期に、すべての社会問題は、農奴制やその残滓との戦いに帰結した。(в то пору, когда писали просветитель XVIII века ... все общественные вопросы сводились к больбе с крепостным правом и его остатками)」2 このフランス啓蒙主義者たちの作品の反農奴制の傾向、彼らの人間の迫害に対する抗議は、農奴制と専制の重荷で弱体化していた。祖国の自由を愛する息子、ラジーシチェフに近いものであった。
2. В.И.Ленин, Соч., т.2, стр.473.
 外国での5年の滞在の後、ラジーシチェフは、ペテルブルクに帰った。自らの祖国で彼が見たものは、彼を深く揺り動かした。彼が帰国した、まさに最初の日--伝染病(悪疫)と呼ばれた暴動に参加した者たちの公開の処刑の光景を目にした。
 新しい法典編纂委員会は解散された。そこで働くことは、ラジーシチェフには与えられなかった。彼は、元老院(Сенат)3 の調書作成官というつつましい職に就くことが余儀なくされた。ここで、彼は、地主貴族たちの悪事に関する「事ども(делами)」について知った。農民への残忍な拷問や殺人さえもの光景描写、蜂起した農民を「小銃や大砲で」の残忍な鎮圧の描写が、ラジーシチェフが政府の文書を読むことで、彼の眼前を通り過ぎた。調書作成官としての仕事は、ラジーシチェフを満足させることができなかった。そこで、彼は軍務についたが、それも同様すぐにやめてしまった。
3. Сенат - 極めて重要な法や政府の政策を準備する機関
 1777年、ラジーシチェフは、商業と工業とを統括する産業省の職務に就いた。この機関の上司に、教養ある貴人、А.Р.ヴォロンツォフ(Воронцов)がいた。ヴォロンツォフは、すぐにラジーシチェフを評価し、彼を引き立て始めた。1780年、ラジーシチェフは、ペテルブルクの税関の長官の補佐役(副官)に任ぜられ、1790年には、長官になった。しかし、彼が忙しく働いていた仕事も、幸福に築き上げられた家庭生活も(ラジーシチェフは、1775年に結婚した)、民衆の自由への戦いから彼の目をそらすことはできなかった。自らの作品には、相変わらず自由を愛する思想が伴い、自由への愛の情熱に燃えた彼の心すべてで書かれたものの中には、革命戦士としての確固として動じぬ精神が貫かれている。
 ロシアを(プガチョフの乱)、アメリカを(1776-1783年の独立戦争)、フランスを(1789年の革命)二分した政治的事件は、ラジーシチェフの革命への志気を高揚させ強めた。
 1789年、ラジーシチェフは、「Ф.В.ウシャコフ伝(Житие Ф.В.Ушакова)」という書物を刊行した。その中で、彼はライプチヒで共に暮らし学んだ自分の親しい友人の生涯を物語った。(ウジャコフは、1770年、ライプチヒで没した。)その書は、自由を愛する思想で満ちあふれていた。
 この時期、ラジーシチェフが取り組んでいた重要な作品は、「ペテルブルクからモスクワへの旅(Путешествие из Петербурга в Москву)」という書物であった。彼は、この作品をライプチヒから祖国に帰ったすぐ後からずっと考えを暖めており、断続的におよそ10年の歳月をそれに費やした。(その中断の一つは、1783年の愛すべき妻の死によるものであった。)1785年から、彼は仕事を再開し、1789年にその書を完成させている。1789年7月、ラジーシチェフは、ペテルブルクの警視総監(警察長官)からその書の出版許可を受け取った。しかし、彼が話を持ちかけた出版所は、それを出版することを恐れた。そこで、ラジーシチェフは、印刷機を買い、自らの家に印刷所を作った。そこで、彼は「ペテルブルクからモスクワへの旅」を印刷した。1790年5月、650部の印刷を終えると、ラジーシチェフは、25部だけを販売に回し、若干部は友人や知人たちに分け与えた。その本は、非常な反響を呼んだ。やがて、それはエカテリーナにまで達した。「旅」を読んで、女帝は激怒した。その書へのコメントとして、彼女はこう書いた。「彼は、農民の反乱を期待している。... 断頭台でツァーリを脅している。(Надежды поларает на бунт мужиков ... Царям грозится плахою)」著者の意図は、「彼の支配の現在の姿の欠点と彼の罪悪とを暴くことである。(показать недостаток теперешнего образа управления и пороки оного(его))」など。自分の書記官には、エカテリーナは、ラジーシチェフについてこう語った。「彼は、プガチョフより悪い暴徒である。(Он бунтовщих хуже Пугачёва)」その書は、著者の名前なしに出版されたが、すぐに、彼は発見された。6月30日、ラジーシチェフは逮捕され、ペトロパヴロフの要塞に幽閉された。逮捕前に、ラジーシチェフは、残っていたその書のすべての部数を焼却するよう指令をだすことができた。審理は、素早く進んだ。7月に、すでに、裁判所は、ラシージチェフに死刑の判決を下した。死刑は、シベリアのイリム流刑地(Илимский острог)(イルクーツクから北におよそ 1000露里)への10年の追放に変えられた。半ば病人のラシーシチェフは、手枷足枷で自由を奪われ、シベリアの流刑地へと送られた。エカテリーナ2世が、死刑を流刑に変えたのは、ラジーシチェフは、重い(苦しい)旅や家族から遠く離れての長い流刑、子供たちの運命のことを苦しみ沈むことに耐えられないだろうと考えてのことだった。ラジーシチェフは、ヴォロネツ(Воронец)の援助がなければ、そうなっていただろう。彼の配慮で、ラジーシチェフは、枷が取り除かれ、彼は幾分よい条件で旅することができるようになった。トボリスクで、彼の身内のものが追いついた。彼の二人の子供を連れて来ていた。
 ラジーシチェフは、流刑地で6年過ごした。彼は、多くの書を読み、農民たちを治療し、辺境の生活や経済状態を学び著述した。
 エカテリーナ2世の死後(1796年)、パーヴェル1世は、ラジーシチェフが、シベリアから帰還することを許可した。彼は、父の領地、ラルージュ県ネムツォフに(в Немцове Калужской губернин)住むよう、命じられた。そこで、彼は、パーヴェル1世の死まで4年間過ごした。本質的には、これもまた流刑であった。というのは、ラジーシチェフは、警察の監督下にあり、村から出ることが禁じられていたから。
 アレクサンドル1世の即位後、1801年に、ラジーシチェフは、完全に流刑の身から解放された。ラジーシチェフは、ペテルブルクに移り、法典編纂委員会で仕事をし始めた。彼は、「新しい法についての覚え書き(Записку о новых законах)」を残しており、そこでは、「犯罪を罰するより、犯罪を予防するほうがよい(лучше предупредить преступление, нежели оное наказывать)」という考えを発展させ、「市民法典の案(Проект гракданского уложения)」を書いた。その中で、彼は、法の下においては、いかなる階級の人も平等であること、肉体上の刑罰や拷問の廃止、出版の自由などについて語っている。
 彼は、自らの以前の立場を忠実に守っている。しかし、委員会には、全く別の信念を持つ高官たちがついていた。彼らは、疑惑の目でラジーシチェフを見、彼の中に、彼において、流刑でさえ砕くことのできなかった自由思想家を認めた。「とてもだめだ、アエクサンドル・ニコラエヴィチ」--委員会の会議長であるザヴァドフスキー伯爵(граф Завадовский)は、一度彼にこう言った。「以前のように、あなたと無駄話はしたくない。... それとも、あなたは、シベリアでは足りなかったのか。(Эх, Александр Николаевич! охота тебе пустословить по-прежнему ... Или мало было тебе Сибири?)」この言葉は、明らかに脅しであった。ラジーシチェフは、屈服することはできなかったが、戦う力もなかった。彼は死ぬことを決心した。自らの、まさに死によって、非人間的な専制制度に対して抗議したのである。1802年9月11日、彼は自ら命を絶った。「後の世代が、私の復讐をしてくれるだろう。(Потомство за меня отомстит)」--彼は、死の直前にこう書いている。

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