未成年(親がかり)

[教師たち][スタロドゥーム][喜劇の構成と芸術様式][喜劇「未成年(親がかり)」の意義]


教師たち

 喜劇の中で真実みがあり生命感があるのは、ミトロファンの家庭教師たち--ツィフィルキン(Цыфиркин)、クテイキン(Кутейкин)、ヴラリマン(Вральман)--の人物像である。
 退役軍人であるツィフィルキンは、多くのよき資質を備えた人物である。彼は勤勉である。「空しく時を過ごすことは、私は好きではない。(праздно жить не люблю.)」--彼は言う。都市では、彼は官吏(役人)たちが「勘定を調べたり、会計を検査したりする(то счётец проверить, то итоги подвести)」のを手伝ったり、「暇な時には、若者たちを教育したり(на досуге ребят обучает)」している。フォンヴィージンは、ツィフィルキンという人物を明らかに共感をもって描いている。
 ロシア語と教会スラブ語の教師、クテイキンは、フォンヴィージンによって別の光の中に投影されている。この人物は、神学校の一番のクラスを出ていながら、「理解しがたいものの深淵におののき(убояся бездны премудрости)」学業を途中で放棄した神学生である。しかし、彼は狡さは失っていない。ミトロファンと祈祷書を読みながら、ある意図をもってテキストを選択する。「我は蛆虫である。人間ではない、人間の恥である。(Аз же есмь червь, а не человек, поношение человеков)」そして、更に蛆(червь)という言葉を説明する。--「すなわち、家畜、畜生だ。(сиречь(т.е.) животина, скот)」ツィフィルキン同様、彼もエレメーエヴナに同情する。しかし、クテイキンは、激しい金銭への執着心でツィフィルキンとは区別される。クテイキンの言葉では、神学生仲間、神学校で得られた教会スラブ主義が強く強調されている。
 喜劇の中で、ペテン師の教師、下僕根性の人物であるドイツ人、ヴラリマンは、諷刺的な光の中で導き出される。スタロドゥームがシベリアに発った後、職を失い、彼は教師になる。なぜなら、御者の職を見いだすことができなかったから。こうした無教育な「教師(учитель)」が、自分の生徒を教えられないことは当然のことである。彼は何も教えず、ミトロファンの怠惰を甘やかすだけで、完全に無学のプロスタコーヴァを利用したのである。

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スタロドゥーム

 スタロドゥームは、教養ある進歩的な人間である。彼は、ピョートル時代の空気の中で教育を受け、その時代の人々の思想や気質、活動に近く、共感を覚えている。その人物をスタロドゥーム(古風を重んじる人)と呼んで、フォンヴィージンは、同様に、彼の時代の現実よりピョートルの時代が優れていたのだという自分の考えを強調する。スタロドゥームは、どうしてフォンヴィージンにとって愛すべきなのか?
 喜劇では、スタロドゥームは行動するより多く語っている。彼の性格、見識、活動は、彼のこ言葉の中に明らかにされている。
 スタロドゥームは、何よりも深い愛国主義者である。祖国への尊く有益な奉仕は、彼にとって貴族の第一の神聖な義務である。貴族が職務を離れることのできる唯一の時は、「彼の職務が祖国に真の利益をもたらさないことが本質的に証明されたときである。(когда он внутренне удостоверен, что служба его отечеству прямой полезы не приносит.)」スタロドゥームは、人をその人の祖国への奉仕に応じて評価をする。「高貴さの程度(すなわち評価)とは--とスタロドゥームは語る--私は、大領主が祖国のために為した偉業の数を考慮に入れる。・・・高貴な偉業なしに、高貴な地位など何も考慮しない。(高貴な地位にあっても、高貴な偉業を為さない人は、高貴とはいえない)(Степень знатность (т.е. ценности), ・・・без знатных дел знатное состояние ничто.)」国家への奉仕は、スタロドゥームの考えによれば、貴族の名誉ある仕事である。戦争の時には、貴族の義務は軍に入ることであって、後方の危険のない所にいて満足していることではない。このことが、スタロドゥームを--「若い伯爵(молодой граф)」として知らしめたように。
 スタロドゥームは、貴人高官たち--女帝の寵臣たちと鋭く対立し、宮廷の貴族階級の人々の性格・気質を暴く。彼は、ツァーリ(皇帝)や地主貴族、農奴制擁護論者の専横を合法的に制限することを要求する。啓蒙教育と人間性の熱烈な擁護者であるスタロドゥームは、地主貴族の愚鈍さ、野蛮さ、不道徳、農奴の非人間的迫害に対して激しく怒る。「農奴制によって、自らに似たものを不法に迫害することだ。(Угнетать рабством себе подобных беззаконно)」--彼は明言する。特に多くのことを、スタロドゥームは教育について語る。道徳(精神)的な教育に、教養教育より大きな価値を与える。「知は、それだけではつまらないものである。・・・善き行いが、知に真の価値を与える。それがなければ、知の人は奇形の人である。学問は、堕落した人においては悪を為す残忍な武器である。(Ум, коли он только ум, самая безделица・・・Прямую цену уму даёт благонравие. Без него умный человек -- чудовще Наука в развращённом человеке есть лютое оружие делать зло.)」善き精神の資質を育んで初めて、真の人間を育てることができる。「温かい心の精神をもて。--そうすれば、いつの時代でも人となれるだろう。(Имея сердце, Имей душу -- и будешь человеком во всякое время.)」
 プラヴジン、ミローンとソフィヤは、喜劇の他の登場人物ほど生彩がないように、著者によって描かれている。彼らは、彼らの行動でスタロドゥームの視点の正当性を証明するかのよう、プロスタコーヴァやスコチーニンの不道徳さを引き立たせるかのようである。
 もちろん、人生にプラヴジンのような尊く申し分のない官吏がいたということを否定してはならないが、フォンヴィージンが喜劇の中で彼に与えた役割は、明らかに著者によって虚構されたものであって現実とは一致しない。当時、そのような検察官はいなかった。喜劇の中にプラヴジンを、残忍な後見人の地主貴族の領地を取り上げることのできる全権を持った官吏という役柄で入れることで、まさにそのことで、彼の考えでは、そうあらねばならないことと現実の人生に起こったこととを対比させたのである。スヴォロフ(Суворов)の軍隊では、ミローンに似た愛国主義的性格を帯びた、自らの義務に忠実な将校たちと出会う。回想の中では、その当時の人々は、ソフィヤに似た娘の描写と出会うことができる。しかし、当時の、特に地方の貴族階級に特徴的なのは、プロスタコーヴァ--スコチーニンの人物像の中に十分明らかに実現された特質であった。こうしたことから、結局、フォンヴィージンのペンの下から、芸術的により完全で、人生においてより信憑性のある姿が生み出された。
 肯定的な人物の言葉は、当時の文学の文章語に近い。構成された語句は、十分難解で、ガリシズム(フランス風言い回し)(すなわち、フランス語の統語論によって構成された文)と出会うことはまれではない。「私は、自らの義務を果たす。(Я делаю мою должность.)」(ミローン)「あなた方の気質の人との事件には、誰も無関心ではいられない。(Происшествия с человеком ваших качеств никому равнодушны быть не могут.)」(プラヴジン)など。
 スタロドゥームの言葉には、アフォリズム、すなわち、短い的を得た格言を好んで用いる傾向が現れている。「官吏になり始めると--誠実さが失われる。(Начинаются чины - перестаёт искренность.)」「魂(精神)のない無学の輩は、獣である。(Невежда без души - зверь.)」「黄金の偶像も、すべて偶像である。(Золотой болван - всё болван.)」

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喜劇の構成と芸術様式

 喜劇「親がかり(Недоросль)」の豊かな思想的テーマの内容は、巧みに構成された芸術形式で具体化されている。フォンヴィージンは、主人公たちの視点を敢えて明らかにすることで、世間の生活図を巧みに織りなすという均整のとれた喜劇の構造を生み出し得た。非常に丹念に、そして広い視野から、フォンヴィージンは、主な登場人物だけでなくエレメーエヴナや教師たち、また仕立屋のトリーシュカのような端役の人たちも、彼ら一人一人に何らかの行動の新しい側面を明らかにしながら、どこでも繰り返すことなく描いている。喜劇のすべての主人公たちは、彼が、冷淡な人生の創造者としてではなく、彼によって描かれる人々と自分との関係を明らかに示す市民作家であることを示している。一人は、憤激し怒り毒々しい冗談で人を傷つけ苦しめ、別の人は、陽気な嘲笑と結びつけ、また別の人は、大いなる共感を持って描く。フォンヴィージンは、自ら人間の心、人間の性格の深いところまで知っていることを示している。彼は、大胆にも、主人公たちの心の(精神的)生活、人々との関わり、行動をも明らかにする。この目的のために、ト書き、すなわち役者たちへの著者の指示が役立っている。例えば、「臆病に口ごもりながら(от робости запинаясь)」「いまいましく(с досадой)」「驚き、悪意に満ちて(испугавшись, с злобою)」「有頂天になって(в восторге)」「待ちきれぬように(с нетерпением)」「ふるえ始め脅すように(задрохав и грозя)」など。こうしたト書きは、18世紀のロシア演劇作品の中では新しいことであった。
 喜劇の芸術様式においては、古典主義とリアリズム、すなわち、できる限り人生の真の姿を描こうとする傾向との拮抗が明らかである。リアリズムの面が初めて明瞭となっている。
 これは、登場人物、特に否定的な人物の描写において主に具象化されている。彼らは、彼らの属する階級の典型的な代表であり、広く多方面にわたって描かれる。これは、生きた人々であり、古典主義の作品では特徴的であるなにかある気質の人格化ではない。肯定的な人物でさえ、その生命は奪われていない。プロスタコーヴァやスコチーニン、特にミトロファヌーシュカは、あまりに生き生きとし、典型的であるので、その名は一般的な名称となったほどである。
 古典主義の規則は、この喜劇の構成では乱れている。古典主義の規則では、戯曲の中に、喜劇的なものと悲劇的なもの、陽気なものと悲しいものとを混合することを禁じている。喜劇は、笑いで(悪しき)風習を正さなければならない。「親がかり」では、笑いの(喜劇的な)要素の他に、悲劇的な場面(作品の終わりのプロスタコーヴァの劇的な事件)もある。喜劇的な場面と並んで、農奴制の生活を描いた重苦しい側面を描いた場面もある。その他にも、喜劇には根本的に重要な幕に、間接的にしか関わりのない場面も挿入されている。(例えば、トリシュカとの場面など)しかし、作者にとっては、それらは広く真実の生活の姿を描写する上で必要なものであった。
 喜劇の言語は、非常に明瞭で的確で、いくつかの表現は、人生の格言のようになった。「私は学びたくない--結婚したい。(Не хочу учиться - хочу жениться)」「ばかな息子には、富も役立たない(Глупому сыну не в помощь богатство)」「ほら、不道徳に値する成果だ。(Вот злонравия достойные плоды.)」など。  こうした、最も大切な部分--人間描写--におけるリアリズムの勝利は、フォンヴィージンの極めて価値ある側面--芸術家としての側面--である。人間描写の真実は、喜劇「未成年(親がかり)」の中で鮮やかに描かれているように、フォンヴィージンの進歩的視点、当時の根本的な悪との戦いと深く結びついている。

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喜劇「未成年(親がかり)」の意義

 フォンヴィージンが、喜劇「未成年(親がかり)」の中で提示し、明らかにした重要な問題は、何よりも、彼の生きた時代にとっては、重要な社会的意味を持っている。喜劇の各ページから、劇の場面から、進歩的作家の大胆な声が鳴り響いている。彼は怒って、当時の人々の悪や欠点を暴き、それらと戦うよう呼びかけている。喜劇は、真実の人生の姿を描き出し、善良な人々も悪い人々も生きた姿を見せ、よきことを真似、劣ったことと戦うよう呼びかけた。それは意識を改革し、市民の感覚を教育し、行動へと駆り立てた。
 「未成年(親がかり)」のロシア演劇の発展史における意味は大きい。プーシキンが「未成年(親がかり)」を「国民的喜劇(народной комедией)と呼んだのも故あることである。フォンヴィージンの喜劇は、今日に至るまで、劇場の舞台で上演されている。生き生きとした人物像、18世紀の人々や生活の歴史的に正しい描写、自然な話し言葉、主題の巧みな構成--これらすべては、この喜劇が現代でも、生き生きとした興味を引き起こす理由を解き明かしている。
 フォンヴィージンの「未成年(親がかり)」は、ゴーリキーの表現によれば、ロシアの「暴露的リアリズム(обличительно-реалистической)」喜劇、社会的政治的喜劇の創始である。この流れは続き、19世紀には、グリボエードフの「知恵の悲しみ(Горе от ума)」やゴーゴリの「検察官(Ревизор)」のような優れた喜劇が現れる。

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