18世紀前期・中期の文学
[ピョートル一世の改革][啓蒙(教化)][18世紀前期の文学][18世紀中期の文学][古典主義][ロシア古典主義の本質]
[目次]
18世紀のロシア文学は、ピョートル一世の国家改革が社会的政治的及び文化的生活に与えた大変化の影響のもとに発展した。
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ピョートル一世の改革
18世紀初めから、古いモスクワ・ルーシは、ロシア帝国へと変わっていく。ピョートル一世は、国家にとって必要とみなした新しいことを実施した。レーニンが語ったように、「未開のものに対する戦いにおける野蛮な手段にもひるむことなく」工業、特に鉱業の発展を力強く推し進めた。西ヨーロッパとの貿易が行われた。強力な陸軍・海軍が組織された。学問・文化・芸術の基礎が置かれた。国の相貌が変わった。ピョートル一世のもとで、国家にとって必須の課題、バルト海沿岸への進出に成功した。1703年、ネヴァ川河畔にサンクトペテルスブルクが建設された。1709年には、有名なポルタヴァの戦いで、ロシア軍は、当時、最も偉大な将軍、国王、カルル7世に率いられたスウェーデン軍を撃破した。この勝利は、はっきりとロシアの軍事力を示し、ロシアの国際的地位を高めた。
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啓蒙(教化)
経済、政治、文化の分野で国を改革するという大事業のためには、それを担う人々、専門家が必要であった。彼らを養成するために、様々なタイプの完全な学校制度が作られ、そこに入学するのは、貴族の子弟だけでなく「様々な位の人々の子弟」にも開かれた。農奴農民は除外されたが。 学校のためだけでなく、それぞれの仕事のためにも書物が必要とされた。これと関連して、何よりも、数学、天文学、技術、歴史に地理、軍事学術などに関する書物の出版が拡大した。 こうした世俗的な書物は、1708年から、現代の普通一般の活字に似た新しい活字で印刷され始めた。 ピョートルと功業をともにした人々は、様々に、全般の改革の意義と文化の発達の必要性を説こうとした。この目的のために、学問的性格の書物、特に教科書や社会評論的作品や公文書(勅令、布告、法令)が役立った。まさにこの目的で、1703年、ロシアで初めて新聞「ヴェードモスチ(Ведомости)」が発行された。その新聞は小さかったが、その中に論評はなく、ロシア国内外の注目に値する出来事についての短い報道がなされているだけのものであったとはいえ、それでも、その新聞は、軍事の面だけでなく一般市民の分野においても改革を喧伝した。 社会政治評論による改革活動は、広く世の中を啓蒙した。その最も偉大な代表者は、修道士で学者であるフェオファン・プロコポーヴィチ(Феофан Прокопович)、農民出の商人で企業家のポソシコーフ(Посошков)、そして貴族のタチーシチェフ(Татищев)であった。 学問と技術の発達は、商業や外国への旅、そして新しい考え方を増大させながら、ロシアの人々の日常生活に入り込み、その結果、ロシア語の中に、外国の言葉が入り込むということが起こった。軍事・海事用語として、гавань(港)、рейд(停泊地)、фарватер(航路)、руль(舵)、行政用語として、министр(大臣)、губерния(県)、орден(勲章)、学術用語として、физика(物理)、география(地理)、химия(化学)、навигация(航海術)などが辞書に定着した。こうした言葉が、新しい生活に入り込んできた考えを表現するのに必要であった。しかし、当時は、外国のものを度を超して追い求めるあまり、母国語を外国の言葉で飾り立てるという洒落者までいた。それは、言語の上での教会スラブ語の要素に打撃を与えた。ピョートルは、「平易なロシア語(простим рyсскими словами)で」書物を書くように要求した。
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18世紀前期の文学
この時代の文学は、まだ、古い時代の特徴を身にまとっている。文学作品は、以前と同じように、印刷物としてではなく写本の形で、最もよく存在しているし広まっている。その著者は、大部分知られないままであった。なぜなら、作品に自らの名を書き留めず、ジャンルは、本質的に、17世紀から受け継いだもの--生活を描いた物語(бытовые повести)、ドラマ、音節詩(виршевая поэзия)である--であったから。 しかし、この古い形式の中にも、次第にそれらを変えながら、ピョートルの改革で生活にもたらされた新しい内容を注ぎ入れている。作品の英雄(主人公)は、新しい生活の条件の中で生きている、新しい視点を持った人物である。例えば、ヴァシーリィ・コリオツキー--ピョートル時代の人物である、「ロシアの船乗り、ヴァシーリィ・コリオツキー物語(История о российском матросе Василии Кориотском)」の主人公がそうである。作品のテーマと主題の中に、その構成と言語の中に、新しいものが介入している。当時まで知られていなかった、新しいジャンル--恋愛抒情詩も現れている。
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18世紀中期の文学
18世紀中期は、ロシア芸術文学の発展上、重要な時期である。優れた文学の活動家(理論家や作家)が現れている。全体の文学の傾向が生じて形成されていく。すなわち、一連の作家たちの創作の中に、彼らすべての思想・芸術的特徴として、一つの共通したものが現れる。そうした文学の傾向が古典主義(классицизм)である。
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古典主義
古典主義という名は、この文学傾向を代表する者たちが、古代芸術--古代ギリシア・ローマの芸術--の優れた作品を、芸術作品の最高の形式だと標榜したことから始まる。これらの作品は、古典主義的、すなわち模範であるとみなされ、真に芸術的な作品を創造するために、それらを真似ることが要求された。 ギリシア人やローマ人の芸術作品や労作の研究に基づいて、作家のための手引きが作成された。それは、「詩の芸術(Поэтическое искусство)」と呼ばれ、1世紀半にわたって、古典主義作家の座右の書となった。 古典主義は、文学や芸術を、絶対主義的な国家に忠誠を誓うよう教育する学校のようなものとみなし、国家やその元首--君主--への義務を遂行することが、市民の第一の、そして根本的な任務であると説いている。 「詩の芸術」を書いたブアロ(Буало)は、芸術作品は、「霊感(インスピレーション)の赴くままにではなく、深く熟考した上で、理性にのっとって(не в припадке вдохновения, а рассудочным путём, после строгого обдумывания)」創造されなければならない。そこでは、すべてが明瞭で、正確で、均整がとれていなければならない。神秘的なものや謎めいたいかなるものの居場所は、そこにはない、と主張した。 規則すべての根本に、文学をジャンルに分割し、混同してはならないというのがある。悲劇(трагедии)、頌歌(оды)、叙事詩(поэми)、喜劇(комедии)、諷刺(сатиры)、寓話詩(басни)。初めの三つのジャンルは「高く(высокый)」、後の三つは「低い(низкий)」とみなされた。これらは、民主主義的な特徴を多く備えており、作家たちが、平易な言葉で書こうとすれば、主題は貴族ではない社会階層の生活から取られたから。 古典主義の時代に、最も多く作られたジャンルは、悲劇、叙事詩、頌歌であった。 古典主義者たちの理解した悲劇--それは、魂(精神)の力の優れた個人が、克服し難い困難と戦う姿を描いた劇的な作品のことである。こうした戦いは、一般に、英雄(主人公)の非業の死で終わる。悲劇は5幕なければならなかった。 劇作家は、時、場所、幕の「三つの一致(трёх единств)」という規則を厳格に守らなければならなかった。時の一致は、悲劇のすべての出来事が、一昼夜を超えない時間内に収まるよう要求した。場所の一致は、劇のすべての幕は、宮殿、あるいは広場といった一つの場所で起こるという中に表現された。幕の一致は、(幕の間の)出来事の内的なつながりを目指すものであった。悲劇では、筋の進展に必要のない無駄なものは、一つとして許されなかった。悲劇は、荘重で威厳のある韻文で書かなければならなかった。 叙事詩(Поэма)は、詩で、歴史的に重要な出来事を述べたり、英雄やツァーリ(皇帝)の偉業を称える叙事的な作品である。 頌歌は--ツァーリや将軍、敵に対する勝利を称える荘重な賛歌である。頌歌は、歓喜や作者の情熱(パトス)を表現しなければならなかった。それ故に、高揚した荘重な言語、リズムのある問い、絶叫、呼びかけ、抽象的な観念(知、勝利)の擬人法、神々や女神たちの形象、意識的な誇張などが、頌歌には必要不可欠なものであった。頌歌の構想には、根本的テーマの調和のとれた表現からは逸れて表現される「抒情的な無秩序(лирический беспорядок)が許された。しかし、これは、自覚して厳しい熟考の上で許される譲歩(「正当な無秩序(правильный беспорядок)」)であった。 自らの時代に対して、古典主義は、目的にかなった意味を持っていた。作家たちは、人々が市民の義務を遂行する重要性を唱え、人々を人間市民として育もうと志した。ジャンルやその構成について詳しく研究し、言語を整えた。古典主義は、奇蹟や幻影の信仰に満ち、教会の教えに人間の意識を従属させた中世の文学に壊滅的な打撃を与えた。
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古典主義の本質
ロシア古典主義は、西洋の古典主義、特にフランスの古典主義と多くの共通した特徴を持っていた。それも、また絶対主義の時代に起こったが故に。しかし、それは単なる模倣ではなかった。ロシアの古典主義は、それ以前、古典主義を成立させ発展させてきた西ヨーロッパの古典主義が蓄積した経験を考慮しながら、独自の地盤の上に生まれ発展した。 これらロシア古典主義に独特の特徴は次の通りである。先ず第一に、まさにその初めから、ロシア古典主義には、優れた作品の中には、進歩的思想という観点から照らし出された当時の現実との関係が強く現れている。 ロシア古典主義の第二の特質は、作品の中にある、進歩的社会思想によって影響を受けた、社会を摘発する諷刺精神の流れである。ロシア古典主義作家の作品の中に見られる諷刺の存在は、その作品に、人生の真の姿・性格を付け加えている。生き生きと伝える現代性、ロシアの現実、ロシアの人々、特にロシアの自然が、その作品の中に反映されている。 ロシア古典主義の第三の特質は、ロシアの作家たちの燃えさかる愛国主義によって呼び起こされた、ロシアの祖国の歴史への関心である。彼らすべては、ロシアの歴史を学び、国家の歴史をテーマとした作品を書いている。彼らは、芸術文学を、国民の基盤に立つ言語を創造し、それにロシア独自の個性を付け加えようとして、国民(民族)の詩や国民の言語に注意を向けている。
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