セーラム、ガリア、モサラベとアンブロシウスの典礼
ガリアとモサラベの典礼は、ほとんどの学者によって、本質的にその性格は西洋のものであって、ローマの典礼のようなその中の東方の要素は、単にそれらの地方が後に東洋(方)との接触によって得た結果であると考えられている。セーラムの典礼は、「サリスベリーの聖堂大教会で使用されていたローマの典礼の中世の地方における変容である。1427年までに、それはイングランド、ウェールズ、アイルランドのほぼ全域で用いられていて、1543年には、カンタベリーの聖職会議(Convocation)が全地域にセーラム聖務日課を課した。」その聖歌のいくつかは、今日、アングリカン教会で歌われている。ガリアの典礼は、シャルル・マーニュによって廃止された。彼は、789年、教皇ハドリアヌス1世からグレゴリウス・サクラメンタリー(Gregorian Sacramentary)の贈り物を受け取ると、アーヘン(Aachen)の宮廷のフランク人の歌い手たちにこう命じた。「聖グレゴリウスの起源に戻れ。なぜなら、お前たちが教会の聖歌を堕落させることは明らかだから。」この命にもかかわらず、聖歌は、その中に多くのガリアの要素を伴ってローマに戻ったことを、私たちは見ている。そして、全般に、フランク人は不承不承ながら、ローマのミサを採用したのであった。彼らには、あまりに情趣がなく単調であるように思えたから。シャルルマーニュ自身は、ヨークの有名な典礼学者であったアルクィンの助けを借りて、彼自らのためにローマ聖歌の何らかの改訂を行ったように思える。彼の死後、その仕事はメッスのアマラリウス(Amalarius of Metz)(850年頃没)、ウァラフリド・ストラボ(Walafrid Strabo)(879年没)とフラバヌス・マウルス(Hrabanus Maurus)(965年没)によって続けられた。事実、メッスは、ガリアでのローマ典礼の中心地となった。ガリア聖歌の完全な写本は、一つも保存されていない。
モサラベの典礼は、11世紀まで生き残り、教皇アレクサンデル2世とグレゴリウス7世による廃止の後でさえ、いくつかのムーア人の地方では、14世紀・15世紀まで使用されている。当時、トレド大聖堂やトレドの6つの教区の礼拝堂ではそれが許されていたし、今日でも、まだ使用されている。
6世紀・7世紀のスペインの典礼は、4世紀に年代付けられるかもしれない Pater noster の曲を含む最も高水準の古代の要素を内に秘めているが、残念なことに、モサラベの音楽家とトレドのカントール(歌い手)たちは、その聖歌をディアステマティック記譜法で記譜するということをしなかった。それで、「西ゴートやモサラベの教会で用いられた音楽のほとんど完全な曲集が保存されているにもかかわらず、それを読み解く鍵は、若干の例を除いて失われている。」1
1. このセクションでは、私は 1957年5月22日の BBCの第3番組での、ランバード・ウィークランド神父(Father Rembert Weakland)によるアンブロシウス聖歌についての放送を(彼の許可を得て)自由に描写したものである。
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譜例 22
中世の理論家たちは、アンブロシウス聖歌に何の注意も払わなかった。それで、旋法(モード)の体系も体系化された詩編の朗読の音調もない。ウィークランド神父はこう書いている。
人は、それ自体がもつ審美的芸術的音楽表現のために、アンブロシウス聖歌を受け入れなければならない。私たちの耳は、その粗さや音楽的気まぐれ、突然の変化に、またその特別な豊かさに一層慣れなければならない。恐らく、私たちの中世音楽の概念は、あまりに洗練され、あまりに「古典的」なので、私たちはアンブロシウス聖歌の自由さや空想のその魅力を見落としてしまう。 |
Ingressa (Introit):テキストは普通詩編から取られるが、詩も Gloria Patri も加えられていない。 Psalmellus :the Prophecy (O.T.)のあと歌われる。一つの詩があり、Graduale に対応する。 Hallelujah :Epistle の後に歌われる。普通は詩編の詩で。(四旬節では、Cantus, Tract に対応する。) Antiphona Post Evangelium:Offertoryに対応する。 Offertorium :以前は、その前の聖歌に含まれていたが、今では、パンとブドウ酒の準備の後に歌われる。 Confractorium :Pater noster の前、聖体のパンを割いている間歌われる。 Transitorium :コムニオン(聖体拝領)の聖歌に対応する。 |
ビザンティウムとロシアの典礼
典礼と聖歌において、西洋が東方に負っていることの種種様々な示唆が、この章の中ではずっとされている。ここでも再び、それは強調されなければならない。ローマを訪れた人は、例えば、ローマの聖ニコマスや聖ダミアンの教会のモザイク画やラヴェンナの聖ヴィタレ教会の中に著しいビザンチンの影響を見いだすだろう。そして、ベネチアで聖マルコ大聖堂を初めて見ると、この幻想的な教会が一晩のうちに魔法の絨毯でそこに飛んで来たのではないかと不思議に思ったとしても当然のことである。アントン・バウムシュタルク(Anton Baumstark)は、彼の著書「比較典礼学(Comparative Liturgy)」の中で、正教会の典礼から西方に伝えられた印象的な詩的な曲のリストを挙げている。例えば、聖燭節(Candlemas)に歌われたアンティフォン Adorna thalamum tuum や聖母マリアの生誕祭(the Nativity of Our Lady)の第二晩課(the Second Vespers)のマニフィカートのアンティフォンのように。
こうしたものは観察できるし読むこともできる。しかし、ビザンティウムの典礼と聖歌に直接触れることは、西方にいる私たちにとっては遙かに困難な仕事である。
アンティオキアとアレクサンドリアの古代の典礼は、すべての東方の典礼の起源であり、そのうちビザンティウムは、他のところより遙かに広くに広まった。ビザンチンというギリシアの都市は、少なくとも2世紀からキリスト教の共同体を有しており、コンスタンチノープル、コンスタンティヌス帝がビザンティウムの場所に首都を築いたのだが、その初めからキリスト教の都市で、その司教は新しいローマと称され、アレクサンドリア、アンティオキア、ローマの司教と肩を並べた。聖ソフィアの大聖堂(聖なる知恵、すなわちキリストの人性)は、532年と 537年の間に建造され、538年に聖別された。
正教会の首長は皇帝であって、527年にローマ皇帝ユスチニアヌス1世の戴冠とともに、ビザンチンの典礼の歴史は始まる。彼は、帝国の主要な教会すべてが、聖ソフィアの華麗さを真似ることを欲した。「朝の礼拝も、夕べの礼拝も、賛美歌によって豊かにされた。賛歌は、導入されてから確実にその数を増やし、次第に音楽は典礼において支配的な役割を帯びるようになった。」
ビザンチンの典礼は、聖歌吟唱作歌法(hymnody)に非常に強調をおくことや、またミサの劇的な上演においてローマの典礼とは著しく異なっている。正教会、あるいはビザンチンの典礼の東方帰一教会(the Uniate Churches)(ローマに帰属している教会)の一つのミサに出席したことのある人は、ネーヴェ(身廊)とサンクチュアリ(内陣)とを分かつ仕切(イコノスタシス(iconostasis)を見て奇妙に思ったことだろう。この仕切はイコンで覆われ、三つの扉があり、中央の王の扉は祭壇に通じ、右手の扉は聖体の必要品の荘厳な準備をするテーブルへと通じ、左手の扉は聖具室へと通じている。これらの扉を通って、聖職者たちはあちこち移動し、最高潮に達するのが the Little Entrance(小入場=福音書を持った行列)と the Great Entrance(大入場=パンとブドウ酒を祭壇に運ぶ奉献(Offertory)のちょうど前の荘厳な行列)である。
賛歌は、「カテクメンス(洗礼志願者)のミサ(Mass of the Catechumens)」の日課(lessons)の間だけでなく、これら二つの行列(entrance)の間にも歌われる。
三つのテキストだけがミサの執行において使われる。聖バシリウスと聖ヨハネス・クリソストムスと(四旬節(レント)では)前もって聖別された典礼式文が。そして、Proper of the season(季節の固有文) と the feasts of Our Lord(我らが主の祝日), Our Lady(聖母マリア), the Apostles(使徒) や the Saints(聖人) がその場所を持つのは、聖務日課においてである。
「時課(Hours)」の賛歌の蓄積は、11世紀までには非常に大きくなっていたので、装飾が旋律に加えられ続けたが、更なる追加は休止されなければならなかった。
ビザンチンの賛歌は、「音楽を通じて宗教的情感の領域に翻訳された正教会神学の詩的表現である。」そして、それ故に、テキストと音楽とは緊密に結びつけられている。詩の形式は、(a) トロパリオン(Troparion)、元来は詩編の最後の3つあるいは6つの詩行の後に歌われた単律詩の祈りで、後に、その日の聖務日課の中に記念された出来事や聖人と関連した賛歌に拡張された。(b) コンタキオン(Kontakion)、すべて構造的によく似た18かそれ以上のスタンヅァの詩的な説教、単一のスタンツァはトロパリオンと呼ばれ、すべてヘイルモス(Heirmos)と呼ばれる模範的なスタンヅァで作曲される。短い独立した導入のスタンヅァがあり、続くスタンヅァのそれぞれの終わりにリフレインがある。合唱でリフレインを歌い、ソリストはコンタキオン(Kontakia)を歌った。ビザンチンの聖歌(賛美歌)研究の最後の時代である7世紀終わりに、カノン(Kanon)が朝の聖務日課(Morning Office)(西洋の賛課(lauds))に導入された。それは「複雑な詩的な形式で、9つの頌歌(Odes)で作られ、構造上は、短いコンタキオンに似ているが、文脈では異なっている。コンタキオンの詩的な説教の代わりに、「カノンの9つの頌歌が聖書からの9つの賛歌(Canticles)のパターンをモデルとして作られ、称賛の賛歌の性格を帯びている。」
ビザンチンの記譜法は、二つの体系の音楽記号を用い、一つ(エクフォネティック(ecphonetic))は、日課(lessons)の荘厳な朗読を規定し、もう一つ(ネウマテック(neumatic))は様々な詩的テキストの旋律の流れと演奏とを定める。旋律自体は、「幾分グレゴリオ聖歌から寄せ集められた定型旋律の様式にならい、短い伝統的なメッセージによって、共に結びつけられた多くの旋律型で組み立てられている。両方の方法とも、東洋の音楽の作曲で支配的であった方法である。」ウェレツ博士(Wellesz)は、彼の著書「ビザンティウムの音楽と聖歌(賛美歌)研究(Byzantine Music and Hymnography)の中で、ビザンチンの聖歌の構造を、アボット・フェッレッティ(Abbot Ferretti)がグレゴリオ聖歌の様々な旋律型を分析したのとほとんど同じくらい完璧に分析している。聖歌の旋律の古い宝庫は、作曲家たちによって神的な美しさのエコー、天使の歌の原型とみなされた。それらは装飾することができ、実際に装飾されたが、西洋でのように自由な作曲にとって代わられることはなかった。聖像崇拝者たちと聖像破壊者たち(Iconoclasts)との闘争の時代に作曲された正典(Canons)の旋律は、初めから音節的(シラビック)であり、帝国の終わりまでずっとそうであった。これは、正典の100以上のスタンツァの言葉が、会衆によって聞かれ理解されなければならなかった理由による。
8つのビザンチンの旋法、4つの正格旋法と4つの変格旋法とがあるが、そのどれも各々の聖歌で吟唱された定型の音調と結びついた音節の定型によって特徴付けられる。例えば、それらは音階の構成ではなく、むしろ、旋律型のカテゴリーに属する。「音による音楽の歴史(The History of Music in Sound)」に録音された、またレコード付きで発行された小冊子(「中世初期の音楽(Early Medieval Music)」)の第2巻の解説付きで出版された音楽と言葉の4つの例を別にすれば、この国(イギリス)では、役に立つ聖歌の録音はない。印刷されたページから、ビザンチンの音楽は美しいという考えはあまり得られない。しかし、ウェレツ博士の著書、私はこの章で自由に描写しているのだが、それは多くの音楽の図、しかしすべてギリシア語のテキストだけ、を含んでいる。それ故、この音楽や東方の典礼、コプトやアルメニア、シリアの典礼の音楽と親しく触れる機会が生まれることを、私たちは願わずにはいられない。
このビザンツ聖歌の、残念なことだが簡単なスケッチの終わりに、ミサの順序とローマの典礼との対応に、ある程度、考えを示しておくことは有益であるだろう。
東方の典礼におけるミサ典礼の一般的順序 カテクメンス(Catechumens)の、すなわちシュナクシス(Synaxis)に先立つミサ
1. ミサに先立つ祈り(Preparatory prayers) 信徒たちのミサ
A. アナポラ(Anaphora)の前
B. アナポラ(ローマの典礼でのミサ典文(カノン)) |
神学的教えの富:祈りの精神;禁欲的教義の豊かさ;聖書の頻繁な特別の使用;教父の要素に割り当てられた重要さ;賛美歌の抒情的な美しさ。最後に、多様性、壮麗さ、人気、それらはこれらの典礼に対応する西洋の典礼より明らかに優位性を与えている。 |
ウェレツ博士(Dr. Wellesz)は、ビザンチン教会の音楽は、西洋の教会の音楽に決して劣らず、その賛歌は、確かに、「情熱的な表現力と劇的な力において」西洋の対応するものを凌いでいる。上の例 Anastaseos imera は、聖ヨハネス・ダマスカス(St. John Damascene)による復活祭の日(イースター・デー)のためのカノン(Kanon)の最初の頌歌から取られたものである。ギリシア正教では、それを黄金のカノン(the Golden Kanon)、あるいはカノンの女王(the queen of Kanons)と呼んでいる。言葉と音楽とがともに美しく適合している。
A.D.988年に、やっとビザンチンの聖歌がロシアに移入された。--キリスト教の典礼とともに--そして、それは15世紀の写本でやっと十分に読むことのできるものとなる。アルフレッド・スワン(Alfred Swan)は、New Oxford History of music (Vol.2) のロシアの聖歌の説明の中でこう書いている。音楽に非常に強い適性(才能)を持つ民族であるロシア人は、彼ら自らの民衆音楽を持っていたので、教会においてさえ永く異国の聖歌に耐えられなかった。そこで、彼らは民族の典礼の歌を発展させた。私たちは、ロシアの聖歌はモノフォニックであり、ロシア正教会は17世紀までパート・ソング(合唱)を採用しなかったと考えているが、恐らく、それ以前から用いられていただろう。そのテーマ全体には、更に多くの研究が必要である。今まで「大量の聖歌が現代譜に書き写されず、その文献資料はまだ検証されていないので。」
ボルトニャンスキー(Bortniansky)(1751-1827)のような最も初期の知られた作曲家の教会音楽では、イタリアの影響か強いが、チャイコフスキー、グレチャニノフ(Grechaninov)やラフマニノフは、皆、聖ヨハネス・クリソストムス(St. John Chrysostom)の典礼のような美しい曲を作曲した。それらは、純粋なロシアの合唱団によって歌われ、忘れがたい荘厳さと悠久の印象を与えている。
典礼劇
中世の教会の最も初期の記録された劇は、復活祭ミサに付随した散文のトロープスから発達した。それは、サン・ゴールとリモージュの修道院の10世紀の写本の中に最も純粋な版として発見されている。
Interrogatio:Quem quaeritis in sepulchro, Christicolae? Responso:Jesum Nazarenum crucifixum. O caelicolae. Non est hic, surrexit sicut praedixerat. Ite, nuntiate quia surrexit de sepulchro. (問:あなたたちは、墓の中に誰を捜しているのか、キリストの僕たちよ。 答:十字架に架けられたナザレのイエスです。天の者[天使たち]よ。彼はここにはいません。彼は予言された通り(天に)昇られました。行って、彼が墓から昇られたことを告げなさい。) |
1. New Oxford HIstory of Music, "Liturgical Drama" W.L.Smoldon.
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譜例 24
その劇は、聖職者の演奏家だけでなく、世俗の演奏家によっても導かれ、必然的に教会の聖域から柱廊へ、それから市場へ、そして最後には劇場へと移っていく。
2. テキストと音楽と注釈は、the Oxford University Press (ed. Noah Greenberg) と the Plainsong & Mediaeval Music Society (ed. W.L.Smoldon) によって出版されている。LPレコードは、New York Pro Musica によって録音され、アメリカの Decca (mono, DL 9402; stereo, DL 79402) とイギリスの Brunswick (mono, AXTL 1086; stereo, SXA 4001)で手に入れることができる。
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