歴史
4世紀後半まで、ローマ教会の言語は、アジアとガリアとをローマに結びつける国際語であるギリシア語であった。しかし、4世紀半ばには、ギリシア語の七十人訳聖書(セプチュアギンタ=Septuagint)のイタラ(Itala)、すなわち古ラテン語版が現れていた。それは、教皇ダマスス(Pope Damasus)の命により、聖ヒエロニムスによって 382年に編纂され、5世紀初めにやっと完成した editio vulgata、すなわちヴルガータ(Vulgate)によってとって代わられた。ローマの聖歌集に、聖書のイタラ版から取られたテキストが残存するということは、旋律の年代を決定する上で貴重な助けとなっているが、オリジナルのローマ聖歌、あるいは、ローマがイェルサレムやアンティオキアの教会から受け継いだもの--また、その他の多くの資料--がどのようなものであったか、私たちには分からない。
ギリシア語のテキストと聖歌は、何世紀もの間、西ヨーロッパには存在し続け、今日でも、いずれもイェルサレム教会の儀式であるが、トリサギオン(三聖誦(thrice holy))や聖金曜日の十字架礼拝(Adoration of the Cross on Good Friday)では、ギリシア語とラテン語とが代わる代わる用いられている。インプロペリア(Improperia)、あるいはリプローチーズ(Reproaches)の初めの後に、人々が十字架を拝みに上がっていくときに、聖歌隊は Agios O Theos を歌う。そして、もう一つの聖歌隊が、それに呼応してギリシア語をラテン語に訳す。Sanctus Deus, そうした文が二つ以上続く。聖歌には、ギリシアの香りがすると言われている。
今日の荘厳教皇ミサ(Solemn Papal Masses)では、聖ペテロの手紙と福音書が、初めにラテン語で、それからギリシア語で、グロッタフェッラータ(Grottaferrata)のバシリウス修道院の修道士たちによって読まれる。
ギリシア語の使用が、後々まで残っている面白い例は、バーキング修道院(Barking Abbey)の聖務執行案内(オーディナル)(Ordinal)の中にある。これは、降誕祭(クリスマス)、キリスト割礼祭(Circumcision)、御公現の大祝日(エピファニー)と変容の祝日(Transfiguration)の祝祭日に、ラテン語とギリシア語で交互に歌うよう指示されたアレルヤ唱の詩である。
さて、私たちは、永い習慣で、グレゴリオ聖歌として知られるようになったものに関して、教皇たちの果たした役割、特に、教皇であり聖人でもあるグレゴリウス1世(540-604年;教皇としては 590年から)が、彼の統治の間に存在していた聖歌集を改訂し増補する作業において、どのような役割を果たしたのか検証しなければならない。Ordines Romani文書の最初のもの、それは6世紀から11世紀までのローマの儀式について描写しているものであるが、それが、サン・ゴール(St. Gaul)の大修道院の9世紀の写本の中に発見された。その最も初期の部分は、教皇ステファヌス2世(768-72年)の時代に年代付けられるが、6世紀のテキストから自由に作成されたと言われている。
5世紀から7世紀の多くの教皇たち--レオ1世、ゲラシウス、シュンマコス(Symmachus)、ヨハネス、ボニファティウス、グレゴリウス1世、そしてマルティヌス1世--は、ここでは、一年を通じての一連の聖歌の編纂を行ったものとされている。そして、マルティヌス以後、聖ペテロの(修道院の)3人の大修道院長の名が、同じ関連で述べられている。しかし、非常に古い伝承は、教皇の伝記作家、助祭(Deacon)ヨハネスの証拠に基づいて聖歌の作者、あるいは編纂者として、グレゴリウス「大」教皇の名をあげている。彼(ヨハネス)は、873年頃--すなわち、教皇の死後300年近く後--に書かれた彼の「聖グレゴリウス伝(Vita Sancti Gregorii)」の中の一章を、この Cento Antiphonaiusに費やしている。
ヨハネスの伝記は、グレゴリウスについて作られた多くの絵画における描写、「教皇の玉座に座し、彼の肩には天上の鳩がとまり、彼の耳元でささやく旋律を書記に口述している」絵柄へと導いた。
ヨハネスによって、このように広く知れ渡ったグレゴリウスの交唱聖歌集(Antiphonary)の伝承の最初の証拠は、ヨークの司教、エグバート(Egbert)(732年頃)に由来する。彼は、グレゴリウスの「聖歌と祈りの書(book of chants and prayers)」のことに触れ、彼の宣教師アウグスティヌス(オーガスタン)によってイングランドにもたらされたと語っている。また、尊者ベーダ(ビード)は、「イギリス国民教会史(Ecclesiastical History of the English People)」(731年完成)の中で、668年に没したロチェスターの司教、プッタ(Putta)を、ローマ聖歌の知識の故に称賛している。彼は、その知識を聖グレゴリウスの弟子たちの後継者たちによって教えられた。これは、少なくとも、ローマのスコラ・カントールム(schola cantorum)を聖グレゴリウスが再組織した証拠である。
長いグレゴリウスの伝承は、17世紀と18世紀に初めて疑問が持たれたが、その成果はなかった。次に、1890年に、ベルギーの音楽学者ジェヴェール(Gevaert)によって、より確かな検証がなされたが、この時も、その影響は長くは続かなかった。しかし、この5・6年の間に、その検証が再びなされ驚くべき結果をもたらした。これらの結果は、ウィリ・アペル博士(Dr.Willi Apel)の書、「グレゴリオ聖歌(Gregorian Chant)」1の中に詳しく述べられており、ここでは、ただ簡単に要約だけをしておこう。私たちは、グレゴリウスの時代にどんな祝祭日が祝われたか知っているが、これら古い祝祭日のミサで用いられた音楽の項目に関する最も初期の情報は、8世紀のある写本からだけしか得られていない。しかし、その写本にはどんな記譜もなされていない。譜表のある写本とない写本との比較研究から、私たちは「旋律の大部分は、900年あるいは 850年頃に、後の中世の文献資料や今日出版されているのとほとんど同じ形で存在していたことは真実だということができる。」主張できないことは、旋律はテキストや祝祭日と同じくらい古くて、前者(テキスト)は8世紀の中頃までさかのぼり、後者(祝祭日)は少なくともグレゴリウスの時代までさかのぼるというものである。彼がテキストと音楽のアンティフォナ(交唱聖歌集)を編纂したというのなら、私たちは、音楽がどのように書き留められたのか考えなければならないし、そうでないのなら、旋律が写本で発見されたものより単純な性格で数においては遙かにすくないのでなければ、2・3世紀以上に及ぶ口承の伝統をどうやって保存し改訂することができたのであろうか。「私たちが持っている典礼の旋律に、これまで一般になされていたのよりもかなり後の年代を割り当てるというのは、科学的な思慮、慎重さの問題である。」
1. Willi Apel, Gregorian Chant, 1958. |
もちろん、無意識的に、しかしそれにもかかわらず確実に、深い変質がローマのミサの正に初めからなされていた。--事実、根本的な変質が・・・10世紀の半ば頃、ローマの典礼はフランス・ドイツ間の地からイタリアへ、そしてローマへ大挙して戻り始めた。しかし、その典礼は、その間に急激な変化と大きな発展とを伴い進行していた。この移入は、キリスト教世界のまさに中心でさえ、ガリア化されたヴァージョンによって、ローマの典礼の地方の形態に取り変わられていったことを内包していた。 |
2. Epistles, Book x, I, 64. |
記譜法
西洋の聖歌の記譜法には長い歴史があり、多くの異なる形を持っているが、ここでは簡単にしか取り扱うことができない。9世紀のネウマの写本は、ギリシアやラテンの文法学者たちのアクセント符号から派生した特別な手書きの記号(cheironomic sign)と上に付けられたり繋げたりすることで分類される点(dots)を持っている。ギリシア語の合図や記号を意味する単語「ネウマ(νευμα)」は、一音節で歌われる2つ以上の音のまとまりを示すためにも用いられ、ネウマの記号は旋律の上昇、下降をも示している。
文法学者たちは、声の上昇、下降を示す鋭アクセント(acute)や抑揚アクセント(grave)を旋律的なものと見なしていた。音高の上昇と下降や全般的な旋律の方向は、十分示すことができたが、音と音の間の音程は示すことができなかった。そこで、これらの譜表でないネウマは、典礼の曲目を暗記しなければならなかった歌い手たちにとっては、音楽の速記と記憶補助本とを組み合わせたものであり、また、「古代の精巧洗練された無数の歌い方を記録するとても感度のよい柔軟しなやかな手段であった。」
もちろん、聖歌隊の指揮者は、音程の計算のできる基本の音高を想像することができ、確かにディアステマティックな(ネウマ)では、すなわち譜表での記譜以前に、様々な音程に応じて様々なレベルの音の配置が行われていた。ある場合には、アルファベットの記譜法という不体裁な工夫がなされた。音を一字一字書かれたネウマの上に文字で表した。水平な直線は、その写本では、初めはドライ・ドロー(dry draw)で、それから赤で書かれFの音を示しているが、これは大きな前進であった。これに、一層正確を期すために、黄色でCを示す別の線が加えられ、更に2つ付け加えられた。音部記号、CあるいはF(は音記号、あるいはヘ音記号)は、結局は、この4線譜に置かれた。
図版4bから分かるように、ディアスティマティック・ネウマは、手書きのネウマ(図版7)より、旋律の上昇、下降が図により正確に書かれている。1200年頃に、今日用いられている四角い形のネウマが現れた。
現代の典礼書のネウマ譜の読み方を学びたい学生は、Liber Usualis の英語の序、あるいは二冊の役に立つ小さな書「学校のための単旋律聖歌(Plainsong for Schools)」の中に、要求されるすべての情報を見つけることができる。これらの書のいずれかで、その聖歌のグロモフォン・レコードで1時間勉強すれば、紙面上で難しく見えていたものを読むのが簡単なことになるだろう。
また、古い写本を展示してある博物館を訪れたり、聖域(サンクチュアリー)の真ん中に置かれた巨大で重い書物の周りに集まった修道士たちが、歌うときに使ったアンティフォナ(antiphoners)の絶妙なスクリプトや彩色模様を詳しく調べたりすることも価値がある。
修道院の写字室の修道士(写字生)たちは、彼らの下に(ドン・グゴ(Dom Gougaud)は、彼の書「ケルトの地のキリスト教(Christianity in Celtic Lands)」の中で書いているが)「部下の写字生の一団がいた。彼らには、その仕事は単調で退屈だと思われる時もあった。彼らは苦労して書き上げた羊皮紙に容易に彼らの秘密を明らかにしている。写本の欄外の書き込みや巻尾の飾り模様は、ペンやブラシを使ったこれらの仕事人たちの生活に関して詳細を私たちに与えてくれる。」次のは、ドン・グゴによって引用されたいくつかのコメントである。「新しい羊皮紙と他に言いようのない悪いインク」「ファーガスの魂に祝福を。アーメン。私はとても寒い。」「おぉ、私の手」「夜のとばりが降りた。夕食の時間だ。」これらに、私は、音楽を解しない写字生によってなされた悲しげなコメントを付け加える。「単調で退屈な単旋律聖歌は、私の優しい耳を不快にさせる。」仕事中は、沈黙を守らなければならなかったので、これらの欄外のコメントのいくつかは、会話を行う一つの手段であった可能性がある。
私は、不承不承ながら、この章の音楽の引用例として、現代の記譜法を用いることにした。(譜例 13の例を除いて)しかし、それらの旋律の絵図は非常に不完全なものである。なぜなら、演奏の方法を示すネウマのまとまりがあり、これらは正確に現代譜に転記することができないから。
旋法(モード)
8つの教会旋法は、ほとんど言う必要はないが、グレゴリオ聖歌より後の時代のものであり、旋律を、この旋法、あの旋法のものというように分類する考えは、8ないし9世紀より決して古くない。旋律のいくつかは、旋法の厳しい束縛に無理やり押し込めるという可能性が大いにある。旋律には、一つ以上の旋法で書かれているものも、半音階主義を隠すために転調や移動があることなどから。しかし、体系の骨子・要点は容易に理解できる。
旋法は、8つから4つに減らすことができる。そして、テキストで非常によく採用された誤解を招くギリシア語の名称を用いるより、初めに知られていた名称を付けた方が好ましい。旋法は、臨時変化の許されたBフラットのある全音階とだけ関係がある。それは、次のように分類される。
終始音(主音) | 音域 | 第5音(属音) | ||
1.プロトゥス アウテンティクス | Protus authenticus | d | d-d' | a |
2.プロトゥス プラガリス | Protus plagalis | d | A-a | f |
3.デウテルス アウテンティクス | Deuterus authenticus | e | e-e' | c' |
4.デウテルス プラガリス | Deuterus plagalis | e | B-b | a |
5.トリトゥス アウテンティクス | Tritus authenticus | f | f-f' | c' |
6.トリトゥス プラガリス | Tritus plagalis | f | c-c' | a |
7.テトラルドゥス アウテンティクス | Tetrardus authenticus | g | g-g' | d' |
8.テトラルドゥス プラガリス | Terardus plagalis | g | d-d' | c' |
変格(plagal)旋法は、それぞれ正格の4度下で始まり、ドミナント(属音)は正格旋法の終止音の5度上に、必ずしもならないことが見て取れるだろう。例えば、第3旋法(モード3)は、e で始まるが、ドミナントは bではなく cである。その理由は、三全音(増4度)を伴わないで--音楽の悪魔(diabolus in musica)-- b はドミナントとして使うことができなかったからである。例えば、 f-bは、3全音で増4度となっているように。また、変格のドミナントは、正格の3度下になっているので、これらも適合させなければならなかった。第3旋法のドミナントは、b ではなく cなので、変格のドミナントは、g から aに変えなければならない。この手続きは、その体系の不自然さを示している。
8つの詩編の音(それは、もちろん、旋法ではなく暗唱の定型(決まり文句)だが)は、同類のものであるが、あらゆる仕方で旋法に適合されるものではない。それらの暗唱する音は、ドミナントに基づいているが3、 旋法はその主音(終止音)で終わらなければならないという理論に従ってはいない。理由は、聖務日課の聖詩朗詠(psalmody)の章で扱われることになるだろう。
3. しかし、三番目の詩編の音調の暗唱する音は、Antiphonale Monasticumの 1939年版では、もとの状態の bに下げられている。 |
リズム
グレゴリウス聖歌のリズムは、一般に、光というよりは熱を発生する非常に議論された問題である。19世紀後半、ソレム修道院の修道士たちは、非常な反対に直面しながらも、9,10,11世紀の写本(そのファクシミリ版は、Pale'ographie musicaleという大全集で出版されている)に基づいて、グレゴリオ聖歌の修復を企てた。そして、1904年、ヴァチカン版(Editio Vaticana)の第1巻(グラドゥアーレ)を完成した。それは、今日、聖歌の唯一の公式版で、信頼できないメディチ版とラティスボン版に取って代わった。この偉大な著作の指導者たちは、ドン・グェランジェ(Dom Gue'ranger)(1805-75)、ドン・ポティエ(Dom Pothier)(1835-1923)とドン・モケロ(Dom Mocquereau)(1849-1930)であった。
論争は、この著作の周辺ではなく、ドン・モケロの著作、「グレゴリオ聖歌の音楽的階調すなわちグレゴリオ聖歌のリズム(Le Nombre musical gre'gorien ou rhythmique gre'gorienne)」(1908)という2巻の中で詳細に述べられたリズム記号の付いている典礼書のソレム版に表現されたリズム理論に関して集中した。どの記号が写本に由来するものか、どれが編集者によって加えられたものかについての指示は全くなされていない。多くの音楽学者たちがすぐに気づき、批判した事実である。ここで言えることは、ictus この言葉の意味は、音の上あるいは下にある垂直の一筆で書かれる韻律上での強勢、すなわちアクセントであるが、それはソレムの人々によっては、そのようなものとして解釈されていなく、その符号の使用不使用に関する権威は、写本にないことだけである。彼らは、それをリズムの踏み台として記述し、旋律を2つまた3つの音のグループに分割し区別している。それに加えて、ソレムの方法は、すべての音の質を強調する。(その近似の音価は8分音符である。)それは、長さを2倍にすることができる(ドットによって示される)が、更に分割することはない。ソレムの反対者たちは、オリジナルの聖歌のリズムは、長短の音が様々に混じっており、11世紀だけ等しい音価という「信頼できない」考えを生み出したということに、意見が一致しているだけのように思える。彼らは、聖グレゴリウスの時代から11世紀後半に年代付けられる論文、アリボ(Aribo)の「音楽について(De Musica)」まで、彼らの見解に有利な大量の証拠を見いだした。
これらの定量理論の支持者たちは、ドン・モケロの書が現れて以来、その分野にずっといたのだけれど、その理論を応用したと判断できる聖歌の刊行書を全く生み出さなかったのは奇妙に思えるかも知れない。
しかし、ソレムに従って、音はすべて等しいとするならば、ジョージ・オーウェルをわかりやすく言い換えて(パラフレーズして)、あるものは他のものより一層等しいということを付け加えなければならなくなる。実際は、このことは、ソレムの修道士たち自身の歌でも聞かれることであり、機械的な解釈を避けようとするならば、これ以外ではほとんどありえないであろう。また、単旋律聖歌は音楽であり、リズムがどんなに自由であっても、基本的な音楽の規則に従っていることも、決して忘れてはならない。例えば、聖歌隊は、「句に従って歌う」べきである。カデンツァの点に向けて、相応しい言葉の発声と抑揚法に当然の注意を払って、柔軟に、また旋律を先入的な強い吟味もせずに。その他のことについては、もし、聖歌を歌う絶対一定不変の方法が一般に受け入れられていたならば、人は、いくつかの明確な証拠がそれを具体化すべく現れているだろうと想像するだろう。そうした証拠は、最近出版された J.W.A.Vollaerts, s.j., 「中世初期教会聖歌のリズムの比(Rhythmic Proportions in Early Medieval Ecclesiastical Chant)」という重要な書に集められている。そこから導き出された結論は、確かに印象的なものである。しかし、著者は、リズムの体系の詳細を中世の著述家たちに求めても無駄であることを認めている。なぜなら、どの一つとして、詳細な十分秩序立った説明をしていないからである。全般的なリズムの原理だけを探し求めることができる。
にもかかわらず、グレゴリオ聖歌の本当のリズムは、比例的な長短の音から成り立っていて、その復元は、新しい典礼書の全範囲の準備(下調べ)が必要であるということは、疑いなく証明することができる。--ひるむほどの重大さとその領域では少なくとも音楽的革命ともいうべき仕事である。
しかし、グスタフ・リース(Gustave Reese)が、「中世の音楽(Music in the Middle Ages)」の中で書いているように、10世紀の終わりに始まった「真正の」リズムからの退歩は、単に芸術的観点から判断するならば、必ずしも有効でない方へ導いたわけではなかった。このことは、多くの音楽家たちによって惜しみなく与えられたその聖歌への称賛やソレム修道院の聖歌隊の録音によって十分に立証されている。その性格を急激に変えることなしに、等しい音価の音で歌うことのできないハーモニーを付けた音楽とここで有効な比較はできない。一方、聖歌の韻律化は、当時の歌い手たちによるパレストリーナの声の線の装飾であったのと同じように、変奏の性格の中にある。ここで問題となるのは、どれがテーマ(主題)であるかである。
その問題は、今現在調査中である。そして、どんな最終的結論が研究者たちによって導き出されるのか、その権威のもとに問題全体が出される典礼の聖集会(Sacred Congregation of Rites)によって、彼らの発見にどのような態度が示されるか根気強く待ち続けることができるだけである。