序論:キリスト教聖歌

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東方のものであれ西洋のものであれ、キリスト教聖歌の何らかの明確な理解、あるいは正しい認識に達しようとするには、それを生み出し、育み、発展を可能にした生きた精神の少なくとも何らかの認識、理解がなければ不可能である。それは典礼の精神である。典礼を表すギリシアの言葉は、キリスト教の意味で「人々」と「仕事」を意味する二つの言葉に由来している。
 それは社会及びすべてのキリスト教徒の祈りの生活全体を包含する。・・・古代のキリスト教徒にとっては、典礼式は祈りの一つの流派、祈りのその流派というだけでなく、彼らの祈りでもあった。共同の祈りに、各人は自ら参加し、自らの個人的な祈りとなった。
 司教の唇を通して語られる、教会の生きた伝統によって解釈された神の言葉を充分に読むことが、祈りへとつながった。この祈りは、普通、詩編によって刺激を受け教えられた。それは常に最後には、集祷文(Collection)に要約された。しかし、この要約は、教会全体から離れているのではなく、そのコミューニオンの高みにおいて、みんなが自らの個人的祈りを祈る時間が与えられたあとにだけ行われた。それから聖体(パンとブドウ酒)が信者たちの個人的な奉納を取り、司祭の祈り(Prex sacerdotalis)、すなわち聖別によって、キリスト御自身の犠牲へともたらされた。その形を変えた奉納は、聖体拝領において戻されたとき、それはキリスト教徒自身が復活したキリストとなることであった。こうして、聖餐の儀式のすべての祝福が、キリスト教徒の全生活を一つの完全な贈り物で満たした。
 それ故に、彼の生活は、教会そのものの生活とともに、同時に、キリスト教年の連続する祝祭、そこで神秘の現前がそうあるべきものとして理解されたとき、キリスト教徒の生活がそうべきである禁欲主義の宗派となるのは当然のことであった。

 1. Louis Boyer, Life and Liturgy.

 初期の分裂する前の教会の気高く勇敢な理想は、そのようなものであった。後の無数の反目口論、不和、そして異教異端を通しても存続し続けた。論争をあおり多くの典礼の聖歌を伴いながら。
 こうした背景を心に留めながら、何よりも先ず、キリスト教聖歌の起源を探ることが、私たちの仕事である。それは、音楽的に言えば、まれにしか沸き起こらず、普通足を踏み入れることもできない霧の中を旅することに他ならない。
 光明の時は、3世紀後半、ギリシアの文字の記譜法で書き留められた聖三位一体(Holy Trinity)への讃歌が、オクシュリンコス(Oxyrhynchus)で 1918年に発見されたことでもたらされた。それから、再び闇が私たちに伝えられている完全な最初の写本の時代まで続く。これらは9世紀からのものと年代付けられるが、8世紀に属する断片もある。
 これらの写本は、よく発達したネウマ記譜法(この章の後で論じられるテーマ)で書かれている。それは音の数や旋律の方向性は示しているが、正確な音程の表示はない。音程を示した記譜法の写本は、11世紀の初め頃に年代付けられており、これらを比較することで、学者たちは多くの場合初期の写本を読むことができた。
 しかし、私たちの初期キリスト教時代に歌われた音楽の知識が乏しいとしても、使徒たちの時代から歌われたテキストや歌い方、それらが歌われた機会については莫大な言及がある。
 最初のキリスト教徒はユダヤ人であって、創始者やその弟子たちの実践をまねて、彼らは神殿やシナゴグで礼拝を続けた。こうして私たちは、使徒行伝に「さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈りのときに宮に上ろうとしていると(第3章第1節)」とか、聖霊が降臨した後、新しく洗礼を受けた者たちは「日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし(第3章第46節)」続けたとか書かれているのを読む。
 初期のキリスト教徒たちは(最初は、ローマ帝国の第3の都市、シリアのアンティオキアでキリストに従った者たちに付けられた名)、儀式のために新しい音楽を発明する必要はなかった。最後の晩餐の終わりで、キリストは弟子たちとともに「賛歌」を歌う。それは伝承によれば、ユダヤの主要な祝祭で朗唱されたユダヤのハレルヤ(Jewish Hallel)(詩編113-18)の一部であったとされている。2 聖パウロは、使徒たちに、主に「詩編、賛歌、そして霊的な歌」を捧げるように熱心に説き、「コリント人への第一の手紙」の中で、「あなた方が一緒に集まるとき、各自はさんびを歌い、教えをなし、啓示を告げ、異言を語り、それを解くのであるが(第14章第6節)」と書いている。シナゴグで用いられた年を経た古いユダヤの旋律の定型(なぜなら、それらは旋律と言うよりはそういうものであったから)3 は、詩編や旧約聖書の雅歌を歌う時の基盤となり、私たちがベネディクトゥス、マニフィカートそしてヌンク・ディミッティス(Nunc dimittis)として知っている3つの新しい信仰の賛美にも適用できただろう。
  2. 外典のヨハネ行伝は、キリストとその弟子たちが最後の晩餐の終わりに円舞(round dance)をしたと語っている。グスタフ・ホルスト(Gustav Holst)は、「イエスの賛歌(Hymn of Jesus)」の中でテキストを引用している。
  3. キリスト教の初期の時代、朗唱者たちはユダヤの朗唱法を保っていたかも知れない。伝統的な定型や抑揚が保たれている限り、ある程度の即興が許された。Egon Wellesz, New Oxford History Music,vol.2.
 また、新約聖書には、賛歌の断片もある(エペソ人への手紙(第5章第14節)、テモテ人への第一の手紙(第3章第16節)が、それらはユダヤのモデルだけでなく、ヘレニズム・オリエントのモデルにも基づいている。ヘブライ語の旧約聖書のギリシア語訳としては最も影響力のあるセプテュアギンタ(70人訳聖書)では、教会という言葉(エクレシア(ecclesia))という言葉が、イスラエル人の「集まり」「集会」という意味で用いられていたので、キリスト教徒たちによって、彼らの集会の意味でも用いられるようになった。彼らは、裕福な改宗者の個人の家に集った。そこでは、もとは、ユダヤの先詠者が集会の進行を担っていた。あるいは、ローマでは、激しい迫害の時には、カタコウムの葬儀の場に集まった。
 ある朝、聖カリクストゥス(St. Callixtus)のカタコウムでのミサから出てくると、私は巡礼の一団の横を通り過ぎた。彼らは手にろうそくを持ち、ミサへの途上、狭い廊下を歌を歌いながら降りていった。ちょうど初期のキリスト教徒たちがしばしばそうしていたに違いないように。
 集会では、上に引用した聖パウロの言葉が示しているように、霊があちこちの人の間を動いて、信仰を告白するように自由に動き回れる余地があった。ユダヤの伝統と律法へ外国の異邦人が流入するようになると、これら改宗者たちは、霊感を得た発話のために自分たちのよく知っている民族の歌を時に使うこともあっただろうと考えるのはもっともなことである。それがどのようなものであれ、また、ギリシア・ローマ音楽の影響がどのようなものであれ、キリスト教聖歌の形成は、学者たちが永く認めてきたように、ほとんどユダヤの聖書の歌とシナゴグでの実践に負うものであろう。
 シナゴグの供犠でない礼拝は、神殿の礼拝より遙かに単純なものであり、聖書の朗読、多くの決められた祈り、そして詩編の歌からなりたっていた。楽器による伴奏は用いられなかった。キリスト教のシュナクシス(Synaxis)、すなわち聖体でない礼拝は、それ本来のものに基づくものであるが、シナゴグの礼拝では、盲目的に真似たものでなく、2世紀に殉教者聖ユスティヌスによって初めて公式に記述された形を取っている。そのオリジナルの概要は次の通りである。

  1.司祭による始まりの挨拶と会衆(すなわち信者たちの集まり)の応答
  2.日課(祈りの時に読む聖書の一部分)
  3.聖詩朗唱
  4.日課(すなわち聖詩朗唱の後の日課)
  5.説教
  6.まだ教会のメンバーでない人たちの退去
  7.祈り
  8.集会の解散

 キリスト教特有の儀式である聖体(感謝を捧げること)の起源は、ユダヤ教の教団によって行われた祈りのための共同の食事の習慣にあるが、そうした種類の食事の一つ、最後の晩餐が聖体を行うその起源--モデルではなく--であることを覚えておかなければならない。
 ドン・グレゴリー・ディクス(Dom Gregory Dix)は、こう言っている。「完全な満場一致で、礼拝での行為は、新約聖書の晩餐の説明の中の7つの行為が4つに減らされている。」
  (a) 奉献(The offertory):パンとブドウ酒がとられ、共にテーブルの上に置かれる。
  (b) 祈り(The prayer):パンとブドウ酒の上で神に感謝を捧げる。
  (c) 分割(The fraction):パンが裂かれる。
  (d) 聖体拝領(The communion):パンとブドウ酒を分配する。
 この形式とその順序で、4つの行為は、ユーフラテス川の古代からガリアに至るまで、私たちの知っているすべての聖体の儀式の絶対に変わらぬ核心をなしている。
 この2つの別々の礼拝が、4世紀から次第に融合し、ついにはミサという単一の儀式の不可分な部分と見なされるようになった。それらが、もともとは別のものであったということは、ローマのミサの中にも、まだ見てとれる。そこでは、式を執り行う高位聖職者は、奉献(Offertory)の時だけ祭壇に行き、そこに留まる。また、ビザンティウムの儀式では、シュナクシスの終わりに助祭を退去させる。人々は、求めに応じて声で応答するが、至る所にとどまる。これら2つの礼拝に、私たちは宗教的な人々によって守られているユダヤの習慣、朝夕、第3時、第6時、第9時に、祈りのために神殿に上ることを付け加えるなら、私たちはミサと神への聖務日課の最終的な形態の原型を示すことになる。
 この書では、全般に、迫害が皇帝コンスタンティヌスとリキニウスとによって AD.313年に公布された、いわゆるミラノ勅令(Edict of Milan)によって終わりを告げたあと、東方と西洋との全キリスト教世界に存在するようになった多くの形造られた典礼儀式の発展を詳しく述べることはできない。しかし、それ以前の世紀には、典礼の様々な要素を導入したり決定したりする「一種の礼拝儀式の会衆(a spieces of Congregation of Rites)」の問題はなかった。事実、そのような発展と変化は、普通、様々な場所や環境の中で、キリスト教の人々自身によってなされたものであり、後に権威(当局教会)によって受け入れられ確立されたものであった。修道院制度は、まさにそのようにして発生した。エルサレム、ローマ(二つとも改宗後コンスタンチヌス帝によって建造された)、アンティオキアそしてアレクサンドリア、また、それほどランクは高くはないところの多くの偉大な聖堂は、「キリスト教礼拝に芸術をもたらすのを可能にし、典礼の形式は急速に発展し、芸術的な聖詩朗唱(賛美歌)は世界中に広まった。」4 カエサレア(Caesarea)の司教、エウセビオス(260-340年)は、こうした状況を生き生きと描写している。
  4. Peter Wagner, Introduction to the Gregorian Melodies.

 主の名において詩編を歌うという勅令は、あらゆる場所ですべての人々によって従われた。というのは、詩編を歌うという勅令は、ギリシア人だけでなく、ギリシア語を話さない人々においても、諸国に存在するすべての教会で実施されたから。・・・全世界の町や村、田園においても、手短に言えば、すべての教会でキリストの民は、あらゆる国々から集まり、賛歌や詩編を大きな声で歌う。・・・詩編を歌う人々の声が、外にいる人々に聞こえるように。5

 これは、すべての人々は歌に参加したという他の文書で十分に確認された決定的な証拠である。エルサレムのアリウス派の司教、キュリロス(Cyril)(4世紀)は、女性たちに聞こえるほどの声で歌うことを禁じたが、カテキスト(教理問答の教師)、ペルシウムのイシドルス(5世紀)は、そうしないと礼拝の間、女性たちが無駄話をするという理由で、不承不承ながら女性たちに歌に参加することを許した。
 詩編の一般の使用は理解できる。というのは、聖アタナシウスが言っているように、「この書の言葉は、人間の全生活、心のすべての状態と思考の動きとを含んでいる」から。教会の教父たちの有効性への証言は多い。シナゴグでの礼拝に続く詩編朗唱は、レスポンソリウム(応唱)的でありアンティフォナ(交唱)的であった。「ヘブライの詩の厳密な類似が、基本的原則が、聖書の翻訳すべてにおいて注意深く保持された。こうした二分法的構造は、応唱、交唱、リフレインの詩編などのような典型的な聖詩朗唱の実践を確立することになった。それらすべては教会によって引き継がれた。」6 一般信者たちによって暗記された詩編の数は、それほど多くあったはずはなく、礼拝での彼らの役割は、恐らく、アーメン(そのようにあれ)やアレルヤ(神をほめたたえよ)あるいは詩編135(日本語訳聖書136)の「そのいつくしみは絶えることがない」といったリフレインのような応唱に限定されていただろう。知られている中で最も古い典礼用聖歌の書である大英博物館のアレクサンドリヌス写本(Codex Alexandrinus)(5世紀)は、先詠者が使用するために意図されたもので、ベネディクトゥス(ザカリヤの歌)、マニフィカート(聖母マリアの歌)とヌンク・ディミッテス(シメオンの歌)を含む詩編や13の雅歌(ソロモンの歌)を含んでいる。その詩編や雅歌は、一人の歌い手によってレスポンソリウムで歌われ、合唱のリフレインが付いていた。しかし、アンティフォナ的な歌い方7 は、すなわち、原始的に男女の合唱で交互に詩編の詩を歌うという方法は、やがて、典礼の歌い手たち、すなわち、別の言い方をすれば、職業的合唱の領域のものになったに違いない。こうした歌い方は、350年頃、アンティオキアで最初に始まり、やがてすべての教会に広まった。聖アンブロシウスは、387年にそれを西方に導入した。
  5. Wagner, op.cit.
  6. Eric Werner, 'The Music of Post-Biblical Judaism', New Oxford History of Music, vol.I.
  7. ギリシア語のantiphon(αντιφον)は、文字通りの意味は「対の音(counter-sound)」である。
 修道士カッシアン(Cassian)(360-450年)が言っているように、420年頃、ガリアでは、それぞれの詩編の終わりに、人々はみんな「小さなドクソロジー(栄唱)(神を讃える歌)」グロリア・パトリス(Gloria Patris)(グロリア・イン・エクセルシス(Gloria in excelsis)すなわち「大ドクソロジー」と区別するためにそう呼ばれる)に加わった。後に、私たちは、私たちが知っているようなアンティフォン(交唱聖歌)(詩編の前や終わりにある詩、あるいは、聖務日課の詩編の詩の間に置かれた詩)が、こうした初期のアンティフォナ的歌から、どのように成長していったかを見ることになるだろう。
 ここでは、カルタゴでの第4回公会議の教令で、典礼の歌い手たちが、次のような美しい言葉で祝福を受けたことが注目に値する。「あなた方が口で歌うことをあなた方は心で信じ、あなた方が心で信じるものをあなた方は作品(歌)の中で表現していることを心に留めておきなさい。(Vide ut quod ore cantas, corde credes, et quod corde credis, operibus comprobes.)」この祝福の言葉は、今日でもその有効性を何も失ってはいない。
 聖歌は、大きな建物のために作られ、それ故に聖書の教えは読まれているのではなく、より聞き取りやすいように、より威厳があるように、そして厳密な句読法によって使われている言語がわかる人に理解できるようにするために、朗詠の抑揚が付けられたのだということを常に心に留めていなければならない。エリック・ワーナー(Eric Werner)は、New Oxford History of Music の中で、次の例を挙げて、ユダヤの朗詠とローマの「朗唱の音調(tonus lectionis)」との間の著しい類似性を指摘している。

  譜例 1.a.

 同様の類似性は、オリエントのユダヤの聖詩朗唱(賛美歌)とグレゴリオ聖歌の詩編の音調(抑揚)との間にも見られる。

  譜例 1.b.

 「エゲリアの巡礼記(Peregrinatio Etheriae)」、アレッツォの写本の中に発見され、1887年に出版されたものだが、その中にスペインの女子修道院長による非常に興味深い話が載っている。彼女の共同体のために 385年から 388年にかけてなされた東方の様々な聖地、特に降誕祭(クリスマス)から聖霊降誕節(Whitsuntide)までのエルサレムへの巡礼について書かれたものである。彼女はこう描写している。「朝課には、賛美歌と詩編とアオンティフォンが、第6課と第9課では詩編と賛美歌が、そして晩課には詩編と賛美歌とアンティフォンが(時と所に応じて)定期的に歌われる。」また、こうも述べている。「ギリシア語で読まれた日課は、その言葉がわからない人たちのために、シリア語やラテン語に訳されるのが習慣となっている。」8
  8. Egon Wellez, 'Early Christian Music,' New Oxford History of Music, vol.2.
 ローマ帝国のキリスト教化と共に、古代世界は二つの地域、東方と西方とに分裂していくことが、次第に明らかになっていった。私たちは、まさに、西洋の聖歌のことを考察しようとしているが、すべては東方から来たということも心に留めておかなければならない。
 信仰そのもの、最初の神学、修道士たちの「天使のような」生活、十字架や神の国の信仰。ビザンティウムの人々は、パウロとヨハネの直接の後継者ではなかったのか。彼らの手紙が、もともと宛てられていたのと同じ会衆によって、もとの言語でまだ読まれるのが聞かれているのだ。司教職の大多数は、特に古代においては、東方にあったのではなかったか。そして世界のキリスト教化はどこから始まったのか。いろいろな聖地のある荒野の教父たちの地、護教論者たちの地、公会議の、威厳ある典礼の地、そして不可知論とキリスト論の異端に対する正教の決定的勝利の地は、東方にあった。確かに、彼らは、先ず心の中で、それから唇で、ローマの特権、最初の使徒の司教座、そして城壁の周りに花輪のように墓のある無数の殉教者の地を受け入れた。しかし、ローマは皇帝から見捨てられ、三度野蛮人によって蹂躙された。常に脅かされ、全く落ちぶれ、ローマはやがて記念碑と記憶において、また聖ペテロの後継者がいるというだけが偉大な、遠い昔の都市になる運命にあった。6世紀には、ローマはラヴェンナのビザンチン教会の管轄下に置かれた。しかし、最後には、聖司教座(ローマの司教座)は、独立した教会の頂点として、完全にギリシアのバシレウス(basileus)から逃れ、ギリシア人の目から見ると、裏切りとも思える離脱行動によって、自ら西方へ、野蛮人フランク人の支配者の方へ身を向けた。

 9. F.van der Meer, An Atlas of Western Civilisation.

 私たちが、西洋の聖歌に戻る前に、当時の世俗音楽に対する教会の教父たちの戦いのことを簡単に付け加えておかなければならない。それは、「神への黙想と愛」を表現するのに、また神を褒め讃えるのに適した音楽言語の純粋さを、絶えず危険にさらしたからである。ここでは、そう呼ぶことがかなうなら、その狭量さが力となった。
 抑制、静寂、高貴さ、荘厳さは、確かに、劇場や個人的楽しみで聞かれる音楽に特徴的なものではない。アレクサンドリアのクレメンスの叫びはこうであった。
 魂を傷つけ、魂を女々しく不純で官能的な感覚へと、また、バッカス的熱狂、狂乱へとさえ導くこの人間の作った音楽は、禁止されなければならない。興奮したり、物憂い雰囲気の強い影響に自らをさらしてはいけない。それは、旋律の曲線によって優柔不断へと病める目的へと導く。彩られた(半音階の)ハーモニーは、花々やふしだらな女どもで飾られた音楽を誰も恥じない饗宴に任せよう。
 聖ヨハネス・クリストストゥム(クリュソストモス)は、同じような調子で書き、異教の礼拝や俳優の歌を思い起こさせるものはすべて禁止しようとした。こうした理由で、メリスマ的な旋律の初期の使用は、ある地域では、眉を顰められ、「告白(Confessions)」の有名なパッセージにあるように、歌われるものよりも歌うことの中により多くの喜びが得られると感じた時、聖アウグスチヌスは困惑した。
 聖歌が、全般に、純粋な旋律の芸術のままであったのなら、それは確かに伴奏の手段が手近にあったからではなく、劇場で用いられた楽器の連想からであっただろう。しかし、プサルテリウムやリラは、信者の個人的な集会では許され、いくつかの教会にも導入された。エジプトのミレトゥス(Miletus)では、賛歌--恐らく韻律的だと思うが--手拍子や身体の動きだけでなく、ベル(鈴)によっても伴奏された。
 教父たちは、なるほど、詩編に書かれた楽器について、巧みに釈明しようと、ある回りくどい象徴主義に陥っているが、彼らの本能的直感は正しく、今日の聖歌の伴奏は肉体の弱さのためだけに許されたアナクロニズムなのである。それは歌われることを意味しているが、「リズムと旋律が真の調和を生み出している聖歌ほど、[信徒たちの]魂を高め、魂に翼を与え、地上の物事から解放するものは何もない。」(聖ヨハネス・クリュソストモス)

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