4. 中国

第1巻目次へ

[先史時代(BC3000年紀とBC2000年紀)][古代(BC1100年-BC3世紀)]
[理論][中世前期(BC3世紀-AD7世紀)][中世後期(AD7世紀-13世紀)]
[モンゴルの影響(13-14世紀)][明王朝(1368-1644)]
[清王朝(1644-1911)][共和制の中国(1912年以降)]

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先史時代(BC3000年紀とBC2000年紀)

 紀元前3000年紀、中国の生活は、まだ広く新石器時代に生きていて、半遊牧の狩猟民族の生活であった。1000年の経過とともに、特に、揚子江や黄河の渓谷地帯で--肥沃な黄土地帯--農業が次第に発達し、この時代のことは、半ば神の存在である伝説的皇帝達の神話の中に記憶されている。その一人一人が音楽の体系を持っていたと言われている。しかし、これらの体系のことは名前しか残っていない。その千年紀の変わり目頃に、高度な文明が現れたと言われている。極東と近東とを結びつけている草原の道(stepped-corridor)の東の端近くで起こった中国の巨石(Megalithic)文化は、恐らく、外国の影響で誘発されたものだろうという可能性がある。--メソポタミアは、シュメール人によって支配されていたし、エジプトは、古王朝の支配下にあった。これ(中国の文化)がどのようなものであれ、それはモンゴロイドの民族によって育まれたように思える。
 夏(Hsia)(2205-1766BC)(1)と呼ばれる最初の王朝の後、商(Shang 1766-1122BC)と呼ばれる長い王朝に入る。その時代に、はっきりそれとわかる最初の音楽の遺物が残っている。発掘によって二種類の楽器、音のでる石(ch'ing=磬?)と球状の笛(hsuan=土へんに員?)が明らかにされた。その型は、新石器時代の伝統と結びついている。更に、二つの楽器、太鼓(ku)と鐘(chung)がBC12世紀の資料の中に言及されている。これらは、本質的に青銅器時代の楽器である。それらに関連する頌詩(ode)は、詩経(Shih Ching=詩歌の書)、この王朝の終わり頃に編纂され始めた編集物、に由来し、BC1600年頃から600年頃まで、1000年以上の資料を含んでいる。そして、初期の時代の音楽について断片的な情報を与えてくれる。
 農耕年間、重要な祭りは、季節季節の間に、川の合流点で催された。これらの祭りでは、様々な村から来た少年や少女の合唱隊が、身振りを伴った対句(distichs)の歌を互いに歌い続けて競い合った。それぞれの対句の半分は、普通八つの単語、すなわち、中国の詩ではよく知られた形式、八音節でできていた。男女による歌の競演、また、交互に歌うこと(アンティフォナーレ)は、宇宙の二つの相反する原理、陰と陽を象徴していると言われた。そして、それに続く性の儀式は、世界の二つの原理を合一することを通して、自然との調和、人間の調和をもたらした。音楽の形式は、そうした何かの象徴主義と密接に関連している。なぜなら、祭りの一つでは、二つの音楽家集団が、代わる代わる演奏し、それから両方が一緒に演奏したから。第7章で見るように、安南(Annam)に残っているある音楽の習慣は、その時代とつながりがあるかも知れない。
 頌詩には、祭りで歌われたものがある一方、宮廷で歌うためのものもあった。古代の書経(Shu Ching=歴史の書)には、伝説的な皇帝の一人(BC3000年紀)が「それが五音に対応するかどうか見るために、宮廷の頌詩と村の民間の歌謡とを取り上げた」と書かれている。ここで恐らく、私たちは、より高い形式へ--また、それまでに農民民衆の間で生じていたとしても、新しい特徴を生み出していく過程の「民衆」の音楽を見ることができるだろう。これら古代のより高度な形式のいくつかの痕跡は、今日でも、中国の民間の音楽の中に生き残っている。
 「五音」に言及していることは、まだよくわかっていない時代から中国の旋律の主要な基盤であった五音音階への言及である。一つの理論によれば、この音階は、巨石文化の時代(新石器文化と青銅器文化)、ヨーロッパとアジアに広く普及していたが、後の時代になると、ヘブリディーズやラップランド、中国のような周辺の地域にだけ残っていたという。そこは、亜大陸としてのインドでよりも、アジアの他の地域と切り離されたままであった。アメリカに五音音階が存在するということは、多くのタイプの楽器が存在するのと同じように、モンゴロイドの民族によって、直接、アジアから植民されたことによる。エスキモーもアメリカ「インディアン」も、ともにモンゴロイドに属している。
 この形成期に、基盤はしっかりと置かれた。歴史の進展とともに、中国の音楽は、中国の文化全般と同じように、多くの外国の影響を受けたけれども、自ら自身の本質的なアイデンティティは保持し、それに従って展開した。そして、中国人の間にある、永続的な過去への敬意が、伝統の継続を確かなものとしてきた。

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古代(BC1100年-BC3世紀)

 周王朝とともに、私たちは遂に歴史時代に入る。この時期の中国の制度、風俗習慣のほとんどのパターンが、現代にまで続いているのを見いだす。私たちは、三つの重要な儀式の中心に音楽を見いだす。はるか古代に制定され詩と音楽と舞踊の結びついて農耕儀礼、皇帝の宮廷の儀式と宗教儀礼の中に。
 用いられた楽器のうち三つの楽器は、極めて重要なものである。一組の石の鐘(pien-ch'ing)、枠の中に14から24の曲線形、あるいはL字型に石板をぶら下げたもの。一組の、12音列に比較しうる鐘(pien-chung=編鐘)。そして、リード・マウスのオルガン(sheng=笙)、BC1100年頃のもので、いくつかの竹のパイプ(今日では、たいてい17本)が、瓢箪の送風箱からのびているもの。送風箱には、側面にある口から空気が送られる。他のどの文化にも、これほど古い時期にこのような楽器はなかった。リードマウスオルガンに関連するのは、パンの笛(p'ai-hsiao=?)である。宗教やその他の儀礼音楽の中で重要な最初の中国の弦楽器には、ch'in(=琴)と呼ばれるツィター(普通、5弦と7弦の形)と se(=瑟)と呼ばれるツィター(もともとは26弦で、今は13弦)がある。これらに、より古い音の出る石や鐘、そして数種類の太鼓を付け加えられなければならない。最近の中国の楽器の目録には、200以上が描かれており、これらのほとんどが、周王朝に既に知られていた型にまでさかのぼる。時の経過とともに、王宮では、これらの楽器の多くを使い、それらでかなりの大きさの合奏団を組織し、貴族達は、小さな楽団を維持していた。
 この時代の最後の400年の間に、中国文明は絶頂期を迎え、偉大な哲学者、老子(604-517BC)と孔夫子(K'ung Fu-tzu)(551-479BC)が現れた。老子は、半ば伝説的人物であり、道教の創始者で、秘教であろうとする傾向のある神秘的な哲学者であった。その儀式の音楽の場所に関して、役に立つ情報はほとんどない。個々の人間の本質は、音楽の音に似ているというのが、道教の考えの中にあるにもかかわらず。孔夫子は、西洋では孔子(Confucius)として知られており、今日彼の名を持った哲学の流派(Confucianism=儒教)を始めた。伝承によれば、彼は、音楽の演奏と日常の儀礼における音楽の役割について関わりを持っている。自らを「古代を知って愛した人物として、作者ではなく伝承者」として描き、中国で最も古い書物を編纂した。すでに述べたもの(詩経、書経)の他に、これらの中には、「楽記(Yueh Chi=音楽の記念)」として知られる重要な章を含む「礼記(Li Chi=儀礼の記録)」とその宇宙の元素に基づいて、音楽の最初の原理を基礎づけたといわれる易経(I Ching=変化の書)が含まれている。中国の音楽理論の基盤が置かれ、後の発展すべての種子を蒔き、基礎を形作ったのは、孔子の時代とこの時代の終わりとの間であった。主な文献資料は、呂不韋(Lu Pu-wei)の呂氏春秋(Lu Shih Ch'un Ch'iu)である。(BC239年)

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理論

 中国の理論の出発点は、基音(foundation tone)(huang chung=黄鐘,文字通りの意味は「黄色い鐘」)である。これは同時に、聖なる永遠の原理、国家の基礎、そして音楽の一定のピッチの音として考えられている。呂不韋は、それを神秘的な皇帝、黄帝(BC3000年)に帰している。彼は、同様に、伝説的人物の伶倫(Ling Lun)('Music Ruler'音楽の支配者)を王国の西の国境に送った。そこの山の谷で、彼は、基音--激情もせず、彼が話した人の声の音高--が出せるように竹の節を切った。それぞれの王朝にとって、正しいピッチを見いだすことは重要であると考えられていた。すなわち、(正しいピッチがなければ)政治的無秩序が結果起こりがちであると考えられた。何世代にもわたって採用されたピッチについては、より正確なデータを、更に集めなければならないが、ここでは、基音は、因襲的にファ(F)と取られるだろう。
 基音から、初めの管より1/3短い長さの管を、そして、二番目の管より1/3長い管などのようにして、すなわち、それぞれ前のものの2/3と4/3の長さの管を交互に取ることで、他の高い音が作られていった。このように、この結果、音は、交互に、それぞれ前の振動数の3/2倍、3/4倍の振動数であった。音楽的にいえば、5度上、4度下を交互に繰り返す連続である。このように、中国の体系の振動数は、すべて2と3の数字の力に基づいている。「音楽は天と地の調和を表現する。」と「楽記」には書かれている。礼記によれば、3は天の数、2は地の数であり、3:2の比率の音は、天と地として調和する。
 この連続する最初の五音、ファ、ド、ソ、レ、ラを取り、それを音階の順、ファ、ソ、ラ、ド、レに並べ替えると、私たちは中国の五音音階にたどり着く。これは、すでに周の時代の旋律の中に存在した。それは、単に、理論的に定義され理論化されたものに過ぎない。BC4世紀から3世紀の中国の文献では、その五音を官(kung),商(shang),角(chiao),徴(chih),羽(yii)と呼んでいる。五音のいずれも、新しい旋法の音階の中心の音として役立っている。旋法では、初めの音と終わりの音として、この音がその旋法を特徴づけている。その音階は、旋律の表現にこの上なく適し、非常な清澄さを与えている。
 中国の儀礼の底にある象徴主義が、12ヶ月(と12時間)と一致して動くよう音楽の基音を要求した。言い換えると、主音(key-note)(とそれに基づく音階)は、それぞれ連続する季節時期のために「移調」しなければならなかった。この動きを規定するために、連続する12音が、すでに述べた5度上と4度下との方法で生み出された。こうして生み出された十二音のそれぞれが、順に音階の出発点となった。(十二律)
 音楽の天空の中に、すべての音を共に表示するために、中国の文献は、階段風の順番に12音を配置した。結果できた配列は、すべて全音音階の様相を示しているが、決してそうしたものとしては用いられず、五音音階を移調する体系としてだけ用いられた。
 連続した12音のつながりの一つ一つの要素は、更に、5度上によって生じたか、あるいは4度下によって生じたかどうかによって、二つの六音のつながりに分けられた。この二つの六音のつながりは、外見上は、全音階であるが、ここでもまた、そのようなものとしては用いられなかった。これらは、連動しているつながりとして、儀礼のハーモニー、すなわち、4度と5度の音程によって範囲の限定された中で、共に響きあう音の分類として考えられた。
 このしたものが、手短に言えば、元来の理論である。12音に限定された音のつながりは、12の位置すべてのために、五音音階の正確な音のイントネーションが考慮されていないために不完全である。これを知って、等しい音律(平均律)の体系を見いだそうと努力した学者たちもいれば、平均律は自然の法に反すると主張して、不完全であるとしても、その体系を完全なものに保とうとする方を選んだ学者達もいた。一方、4度と5度によって関連づけられた音のつながりを拡張することで、更に、音を分割しようと多くの実験をした学者たちもまたいた。
 五音音階が、中国では常にずっと基本であったが、七音音階もまた、周の時代からずっと、それと並んで存在したようだ。なぜなら、周の時代の楽器の中で、cross fluteは、七音音階を生じさせることができるから。五つの主要な音程と、二つの補助的な音程でできた七音音階は、遅くとも紀元前1世紀までには、確かに用いられていた。七音音階と12の位置で、旋法を転換することで、84の旋法の体系が(6世紀から)形成され、それが儀礼音楽に採用されるようになった。
 何世紀にもわたって、音楽の理論と実践は、一致することもあれば、一致しないこともあった。が、学者たちが、どんなに先に進もうとも、元もとの理論は、疑いなく数学に基づいていたばかりか、過度を慎み、中国の伝統の中にその体系を安定させ確立するような仕方で、中国の哲学や形而上学に深く根付いていた。それは、音楽家や数学者、天文学者や哲学者たちの間に、極めて優れた精神の思索に影響を及ぼしてきたし、常に、指導的力として振る舞ってきた。

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