この時代の資料
14世紀のような時代では、現実に存在する写本が、先ず第一に私たちのその時代の音楽観を定義するのに重要である。というのは、一つには、それらが数の上で非常に限られているから。フランスでは、その世紀の前半は、3つの主要な資料によって代表される。フォヴェール物語、マショーの写本、イヴレア写本である。前者(フォヴェール物語)は、寓話的物語(roman)で、その人気は、12の写本が存在することから証明される。幸運なことに、これらの一つは、多くの挿絵の入ったすばらしい二つ折り判の写本で、実際、モテトゥス、コンドゥクトゥス、レ(lais)、バッラードやロンド、リフレイン、そして様々な型のグレゴリオ聖歌を含み、14世紀初期の人気のあったあらゆるタイプの音楽を含んでいる。モテトゥスやコンドゥクトゥスのいくつかは、その写本が書かれた時代、1310年から 1316年の間から1世紀以上もさかのぼる。一方、多くの曲(調べ)は、フィリップ・ド・ヴィトリのものとすることができる最新の作品と考えることができる。その直接のモデルであるロマン・ド・ルナール(狐物語)(Roman de Renart)のように、フォヴェールは、当時の悪徳に対して辛辣な攻撃を加えている。馬のフォヴェールは、自分の名の文字で表された罪を擬人化している。へつらい(Flattery)、貪欲(Avarice)、暴利(Usury)、悪行と移り気(Villainy and Variability)、嫉み(Envy)、そして下品さ(Lowness)。自らのたくらみで、フォヴェールは大成功を収め、あらゆる中世の作家たちが蓄積したものの擬人化されたフォーチュンとの結婚を熱望するまでになる。しかし、彼女は困惑し、自分の手の代わりに虚栄(Vain Glory)の手を使う。フォヴェールと虚栄の子孫たちは、フランスの脅威となる。その物語(roman)は、もともとはフィリップ4世のために書かれたに違いない。そして、聖堂騎士たちへの攻撃がそこで起こる。しかし、音楽は、しばしばフォヴェールの中で具体化された罪への単なる攻撃である。(Je vois douleur / Fauvel nous a fet present) すべての曲は、ここでは作曲者不詳である。私たちは、ジェルヴェ・ドュ・ビュ(Gervais du Bus)が物語を書き、シェル・ドゥ・ペステン(Chaillou de Pesstain)が音楽を挿入したことを知っているが。
ギヨーム・ド・マショーは、初期フランス音楽の歴史に現れる。彼の完全な作品が6つもの写本の中に残されている。その中での曲の配置は、全般に彼自身によるものであるとされる。これらのきれいな挿絵の入れられた写本は、明らかに重要なパトロンのために作られたもので、一つはベリー公(Duke of Berry)の、もう一つはフォワ伯(Count of Foix)のものであることを知っている。一方、マショー自身は、ある時、彼は自らの師の一人のために用意された写本を持っていると語っている。もし、この資料を重要視することで彼の音楽のバランスを欠いた判断を生むとしても、また、さらに単一の作品を含む数多くの種種様々な写本や断片があるとしても、偏りのない検証は、マショーは職人芸の大家であり、彼の詩さえ流暢な作り手であることを明らかにするだろう。
幸運なことに、イヴレア写本(Ivrea codex)は、14世紀中頃の重要な宗教の中心地、恐らくアヴィニョンの一般的な音楽の曲目について、はるかによい鳥瞰図を与えてくれる。この実用のための写本は、その使用と作曲の年代が14世紀初期にさかのぼる徴を示している。それは、フィリップ・ドゥ・ヴィトリの作曲の鍵となる資料である。というのは、彼のものとされる14のモテトゥスのうち9つがその中に含まれているから。しかし、また、それ以上に多くの作曲者不詳のモテトゥスと一つ一つ切り離されたキリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス、そしてアニュス・デイの重要な曲集もある。4つのシャス(chaces)は、カノン風の書法の完成された技法を証拠付けているし、一方、世俗の歌は、ひそかに導入されたばかりである。
その世紀の後半、私たちは、後期アルス・ノヴァのフランス音楽の主体の保存を、多くのイタリアの資料に負っている。これらは、まだ、主として、四つ折り判(quarto)の写本だが、時折、有名なシャンティリ写本(Chantilly codex)のような二つ折り判(folio)の資料が発見されることもある。それは、記譜の複雑さの傑作である。これは、疑いなく、フランスの写本のイタリアでの写しであろう。というのは、すべての音楽がフランスの音楽であり、主としてポリフォニーの歌の形式だから。わずかなモテトゥスが古い伝統の遺風を残している。モデナ写本(Modena manuscript)は、性格的には同様のものであるが、イタリアの曲も含んでいる。特に、ミラノの歌い手、マッテオ・ダ・ペルージャ(Matteo da Perugia)による作品、また、いくつかミサ曲も含まれる。第三の重要な資料は、北イタリアのものだが、それも、フランス起源の世俗曲を含んでいるが、その初めの部分は、重要なトレチェントの作曲家たちによるイタリアの曲で構成され、その後半は、デュファイの時代の曲で構成されている。今は、オックスフォードにある初期デュファイ時代の写本は、ほとんどフランスの作品を含むが、ヴェネチアに起源があったように思える。多くの後期アルス・ノヴァのフランスの作品は、最も後期のトレチェントの歌の貴重なものの煌めきをもってそこに現れている。教会音楽は、主として、アプト(Apt)のフランス写本に見出される。明らかにアヴィニョンの曲目と関連しているが、他のフランスやスペインの孤立した資料は、ミサ曲を含んでいる。
恐らくさらに大きなイタリアのアルス・ノヴァの曲目は、全体でおよそ700曲あり、写本で広まったものとして、劣らず面白い。5つの主な写本は、すべてその世紀終わりに属しており、唯一つの短い写本だけが、直接マルケットゥス(Marchettus)と関係している。その中のすべての曲が作曲者不詳であり、一方、全般にトレチェントの資料は、作曲者の名を挙げている。規模の上でその対極にあるグループ最大の写本は、352曲以上の曲を含み、多かれ少なかれ主要なトレチェントの世俗曲の完全な資料集として書かれたと思われるあらゆる徴が見て取れる。名の挙げられた作曲家たちは、そのそれぞれのセクションの初めに肖像がある。全体として、その写本は、1470年に没したフィレンツェのオルガニスト、アントニオ・スクヮルチャルーピ(Antonio Squarcialupi)のために書かれたものであろう。というのは、それは、確実に彼のものであったから。他の三つの写本はより実用的な性格のもので、それぞれ 110曲から 120曲の作品を含んでいる。フィレンツェ写本(Florence MS)は例外で、151曲のイタリアの曲を含んでいるが。後期トレチェント(音楽)は、特にルッカ写本(Lucca codex)に代表され、それが含む曲の数は多くはない。マッテオ・ダ・ペルージャ(Matteo da Perugia)やアントニオ・ダ・チビタテ(Antonio da Civitate)のような15世紀初期のイタリアの作曲家たちは、しばしばフランスのテキストを採用し、宗教曲は非常によく育まれた。多くのこれらのモテトゥスやミサ曲は、二つの15世紀初期のボローニャ写本(Bologna manuscripts)にある。
イギリスでは、状況が異なっていた。イタリアのトレチェント音楽は、ほとんどすべて世俗のものであったが、イギリスのパート音楽(合唱音楽)は、主として宗教的なもので、1400年頃に現れたポリフォニーのキャロルでさえあった。これは、ほとんどのイギリスの写本には、ミサ曲とモテトゥス以外はほとんど含まれていないと言うことであり、それは、宗教改革の時代にイギリスの写本が明らかに破壊されたことを物語っているかもしれない。その事実は、4つのキャロルの写本を別にすれば、唯一完全な写本は15世紀初期から存在して、残りは断片的であるという状況にしている。このことは、14世紀のウスター(Worcester)の断片についても真実である。それは、一つの大きな写本の前半部であった。一つの現存する完全な写本は、主にミサ曲でできていて、少しモテトゥスもある。アルス・ノヴァのタイプの大陸の影響は、十分しばしば見られるが、イギリスの背景が、たとえ荒削りなものであれ、目立っている。明らかに、フランスの言語は、イギリスでは障害であった。というのは、フランス人によって書かれたことで知られる一つのモテトゥスは、ラテン語の方がオリジナルのフランス語よりイギリス人の耳には合っているという事実を強調しているから。恐らく、さらに一層面白いのは、不完全な状態での作曲者不詳のグロリアがイタリア人のザカリアス(Zacharias)の作品であったという最近の発見であろう。この特別な曲は、このように、最も広く広まった中世の曲の一つであるという名誉に浴している。というのも、その曲は、イタリアから南ドイツへ、それからポーランドまで旅していたから。しかし、ポーランドの場合、15世紀前半の二つの極めて重要な写本は、このイタリアの影響は、少なくとも宗教音楽に極めて限定されていたことを示している。というのは、ザカリアス、チコニア、グロッシン(Grossin)にエンガルドゥス(Engardus)によるミサ曲だけでなく、明らかにイタリアの作曲をモデルとしたラドンのニコラス(Nicholas of Radom)による9つの曲もあるから。ポーランドの写本よりさらに一層重要なのが、現在トリノ(Turin)にあるキプロスの資料である。それは、フランスのタイプの後期アルス・ノヴァの曲の非常に広範な曲を含み、103のバッラード、64のロンドとヴィルレ、41のモテトゥス、そしていくつかのミサ曲の一部(movements)を含んでいる。ドイツでは、世俗音楽は、主としてモノディ的なままであったが、オズワルド・フォン・ヴォルケンシュタイン(Oswald von Wolkenstein)の写本には、フランスのアルス・ノヴァの曲を変えたものが若干ある。ポリフォニーは、全般に、極めて古風である傾向があり、アルス・ノヴァと呼ぶべきほんのわずかな主張もなかった。イギリスでは、写本資料が断片的であるが広く広まっていた。記譜法が、しばしば譜表?(stave)のないゴシックのネウマ譜からフランスの四角い音譜の記譜まであるように。全般には13世紀のタイプのものではあるが。シュトラスブルク(Strassburg)では、予期されるように、1870年に破壊された大きな写本のようなものやプラハ写本(Prague codex)は、フランス、イタリア、ドイツ、そしてオランダの写本にその席を譲った。この混合が当然のものとしても、当時の写本の中でも、ユニークなもので、そこでは、一般に彼ら自らの国の音楽やフランスのものを好んでいた。