フランスは、12-13世紀にそうであったように、
14世紀でも明らかに音楽芸術の中心であった。たとえ、他の国々が独立したポリフォニーの芸術を発達させていたとしても。そして、フィリップ・ド・ヴィト
リの、パリで伝えられた実践的音楽の新しい技法だけでなく、古い技法についてもの教えは、フランス以外の多くの国々の音楽に恩恵を与え、インスピレーショ
ンを吹き込むのに十分実り豊かなものであった。彼が、ロンガとブレヴィスの古い記譜法とより短い音価、ブレヴィス、セミブレヴィス、ミニマなどの新しい記
譜法とを区別しようとしたことは、彼自身の言葉からも十分明らかである。しかし、彼は、また現代のもののような、セミブレヴィスとミニマの分類の中に、よ
り長い音価の位置、すなわち前方に、を定義した。これは次のようなリズムを生み出した。古い、私たちには奇妙に聞こえるの代わりにと言うリズムを。古い音楽家たちは、1279年の
早きにこの問題に関心を抱いていたが、彼らはどちらの方法でもよいということで、それを解決した。しかし、ヴィトリのドグマ的な言説は14世紀のモテトゥ
スの作曲家を指導し、このタイプの作曲に古いリズムがほとんど全くないということは、彼の影響が実践上に及んだ証拠である。しかし、世俗の歌の書法におい
ては、セミブレヴィスとミニマとのあらゆるタイプの組み合わせの自由な使用は、厳密なモテトゥスの用法に鮮やかな対照を与え、疑いなく、14世紀後期の複
雑なシンコペーションへと導いた。 |
モテトゥス
モテトゥスが、ヴィトリの新しい技法の主な目的であっ
た理由は、恐らく、それが14世紀初期、唯一の重要なポリフォニー芸術の形式で
あったからだろう。
教皇ヨハネスの、単旋律聖歌は俗語で書かれたテキストを歌う上声部によってしばしば不明瞭になっているという不満は、13世紀後期のモテトゥスにも十分適
用できただろうが、フィリップ・ド・ヴィトリは、主に、フランス語のテキストに固執した。しかし、これらは、典礼とはほとんど関連はなく、特別の祝祭儀式
としばしば関連している。ヴィトリは、自由な芸術作品の創造者だと呼ばれてきたが、彼のものとされている14のモテトゥスのいくつかは、信仰告白とほとん
ど変わらない。(Adesto sancta Trinitas/Firmissime fidem teneamus)
一方、フォヴェール物語に見出されるもののうち、三つは互いに結びついた政治的意味を持っている。聖書のアレゴリー(寓話)がその主要なテーマを隠してい
るが、その主たる対象は、明らかにフィリップ4世の第一顧問(chief counsellor)、アンゲラン・ドゥ・マリーニ(Enguerran
de
Marigni)である。彼は、聖堂騎士(Templars)たちの有罪判決に一部責任があった。フィリップ・ド・ヴィトリは、辛辣な言葉を用い、モテ
トゥスでは、彼は特定できない人物ユーゴー(Hugo)や哀れなジャン・ド・ル・モト(Jehan de le
Mote)、エノ(?)(Hainaut)出身の詩人・音楽家で、不幸なことに百年戦争の勃発した頃にパトロンのイギリスのフィリッパ女王(Queen
Philippa)を訪れた人であるが、そうした敵対者たちを罵倒している。別の作品は、1342年の選挙でアヴィニョンのクレメンス6世に敬意を払い、
一方では、より個人的な感情がヴィトリの宮廷生活の放棄の中に見出せる。しかし、彼は、官吏界の多忙な生活を離れることはできず、彼の友人ペトラルカは、
疑いなくアヴィニョンで出会っただろうが、彼は、ヴィトリが 1350年にメオ(Meaux)の司教になったことを知って非常に狼狽している。 |
バッラー
ド、ロンドとヴィルレ
14世紀のその変化した美意識、より増大した長さ、増
大した形式の巧妙さにもかかわらず、モテトゥスが伝統的な形式であった一方で、ポリフォニーの歌は、厳密に言えば、まったくの新参者であった。確かに、ア
ラン・ド・ラ・アルは、13世紀後半に一組のロンドを書いたが、それらが孤立していたこととはまったく別に、これらの魅力的な作品には、多くの14世紀の
ロンドと共通のものはほとんど持っていなかった。それらは、コンドゥクトゥス様式、すなわち同じテキストを歌う3声部すべてが一音対一音になっているもの
で書かれた。このやり方は、イェハノ・ド・レスキュレル(Jehannot de Lescurel)の唯一のポリフォニー作品(A vous,
douce debonnaire)で従われた。その曲は
1300年頃に書かれたに違いない。というのは、このヴィヨンのような(Villon-like)人物は、1303年に堕胎、強姦、その他の罪で絞首刑に
されたから。レスキュレル(Lescurel)の34曲の歌は、すべてフォヴェールの写本に含まれており、バッラード、ロンドとヴィルレ、それに
「Dits grafted on to
refrains」と呼ばれる二つの奇妙な作品を含んでいる。これらは、それぞれのストロフィに異なるリフレインのある長いストロフィックな詩である。そ
して、作られた音楽は、リフレインのところだけで、そのいくつかはいずれの作品にも現れている。すべての曲の音楽がモノディ的であるとするならば、ポリ
フォニーのロンドでさえ、中声部にモノディ的なロンドの一つの音楽を採用しているからだが、その様式は、ペトルス・デ・クルーケの仕方ではしばしばセミブ
レヴィスのまとまりのあるかなり近代的なものである。さらに一層顕著なのは、14世紀のバッラータ、ロンドそしてヴィルレが、多少なりとも成熟した文芸形
式として突如として現れることである。その8行形式のロンドは、アダン・ド・ラ・アルの作品のように、13世紀にすでに存在していた。 |
他のタイプ
の世俗音楽
十分発達した形のカノンが、原始的な人々にも用いられていることから、中世後期の音楽にそれが用いられているとしても驚くべきことではない。14世紀フラ
ンスでは、それは、シャス(chace)という形態、写実的なヴィルレ(virelais)と思い起こすテキストを持った3声のユニゾンのカノンという形
を取っていた。完全な作品は4曲しか存在しないが、これらはすべて完熟しており、特にその一つは、犬や獲物の吠え声や鳴き声といった詳細まで狩の
様子を描いたものである。(Se je chant main que ne suel)
ギヨーム・ド・マショーは、シャスの技法を一つのバッラードと二つのレ(lais)に用いている。テキストは、いつものように宮廷愛に関するものである
が。1声部だけがシャスとして演奏されるべきだと示す写本はほとんどないが、どの場合でも、1声部以上書くことは貴重な羊皮紙の無駄使いになっただろう。 |
典礼音楽
ミサのための音楽は、ほとんどの古典期の偉大な作曲家によって書かれているが、中世では、よく知られたキリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス、そしてア
ニュス・ディのテキストのポリフォニーの書法は、14世紀まで確立されてはいなかった。マショー自身は、1曲の完全なミサ曲を書いたが、これはトゥルネの
写本(Tournei
manuscript)に保存されているミサより後のものであるかも知れない。トゥルネのミサは、後のトゥールーズ(Toulouse)やバルセロナのミ
サのように別々の曲を組み合わせたミサのように思えるが、マショーのミサは、完全に統一されたものであるという名誉を得ている。全体として、一つの音楽手
法で統一されていないことは認めるとしても。マショーは、トゥルネのミサを知っていた可能性がある。というのは、グロリアとクレドがトゥルネのミサに非常
に似ているだけでなく、キリエ、サンクトゥス、アニュス・ディがいずれのミサでも1単位をなしており、いずれのミサも締めくくりとして Ite
missa
estがあることから。トゥルネのミサのテクスチャーは、非常に率直で、14世紀のミサ作曲家たちに道を指し示したに違いなく、一方、マショーのミサは、
アイソリズムのモテトゥスやその他複雑で精巧なリズムの3声というより4声のはるかに複雑な作品であった。Ite missa
estも、トゥールーズのミサに現れるが、その曲部分もすぐにポリフォニー的に作曲されるようになった。トゥルネの
Iteの一つの声部に世俗のテキストが存在するのは、教皇ヨハネスXXII世の批判が当を得たものであり、これらのテキストが実際に教会で演奏されたこと
の明らかな証拠である。一音対一音のコンドゥクトゥス様式が、初期のミサの曲では優勢であったが、やがて単純な3声の歌の様式が支配的になった。二重のリ
ズムや単純な伴奏パートは、疑いなく、演奏で言葉を明確にするのに役立っただろう。14世紀には、完全なミサは例外で、一つの曲、あるいはグロリアとクレ
ド、サンクトゥスとアニュスといったペアの二曲が書かれていた。キリエはまれにしか作曲されなかった。世俗の分野でのように、私たちは、様々な作曲家たち
の曲集に出会うが、その世紀の後半には作品は非常に少なくなり、それらはほとんどアヴィニョンの教皇庁と結びついている。それらの作品は、デパンシス
(Depansis)、シプル(Chipre)、オルレ(Orles)、セール(Sert)、ロワ(Loys)、ペリネ(Perrinet)、スゾワ
(Suzoy)、テルハンディエ(Tailhandier)、そして
1400年頃には、タピシエ(Tapissier)、コルディエ(Cordier)、ボスケ(Bosquet)、ジレ(Gilet)、ヴェリュ
(Velut)、またカメラコ(Cameraco)の作品を含んでいる。 |
音楽の実践
中世後期の音楽の演奏は、今日では、非常に閉ざされた
書物である。現代の資料は、実際、それについて詳細にまで決して触れてくれな
い。写本には、どんな楽器が用いられるべきか、あるいはどの声部で歌われるべきかさえ決して語ってくれない。実際に用いられた楽器のあまりの多様性は、こ
れらはしばしば互いに交替して用いられたことを示している。私たちは、写本や彫刻、象牙などに非常によく描かれている音楽家のグループから判断しなければ
ならない。普通、歌い手だけが写本を持っているが、楽器奏者は、自分のパートを暗記していたことはおおいにありえる。女性たちは、演奏家としては、小さな
役割しか果たしていなかったように思える。そして、たとえ歌ったとしても、世俗の歌であっただろう。少年たちは、教会の音楽や、疑いなくモテトゥスで上声
部を歌っただろう。一方、下声部は、しばしば楽器で演奏されたように思える。下のパートにテキストがないということが、この解釈を私たちに強いる。モテ
トゥスのテキストのないパートを、それに用いられた単旋律聖歌のテキストを知っていて、声で歌った可能性もあるのだが。楽器の豊富さには少し困惑させられ
るが、非常に人気のあった楽器もあれば、非常に大きなアンサンブルでなければ用いられなかったものもあるだろう。いずれにせよ、6人以上の演奏家を雇った
り、得ることのできた王侯はほとんどなく、最良の音楽家は、絶えず求められ、彼らの属する宮廷をしばしば不在にした。各種の楽器のなかで一つが好まれ、ど
れであろうと、一つの家族に属する楽器で大アンサンブルを採用することには問題はなかった。家族のグループに最も身近なものは、ショームあるいはバッグパ
イプとボンバード(大きなオーボエ)、それとスライド・トランペットからなる民衆的な舞踊トリオであった。他に人気のあった楽器は、数弦だけの小さなハー
プ、ポータブル・オルガン、それにヴィオルであった。ナチュラル・トランペット(普通のラッパ?)は、その戦いの時のような音で貴族たちに人気があった。
また、それらを多く所有することができるほど高い評価が得られた。これらは、芸術音楽では、あまり用いられないとしても、すでに述べた楽器同様、コルネッ
トやリコーダー、フルート、シターン(citole)、クルース(rote)、プサルテリウム、ギターにはつ弦鍵盤楽器のような優れた楽器が他に多くあっ
た。これらの楽器の多くは、高音域の楽器で、それで、それらが演奏されるときには、声を二重にしたに違いない。ヴィオルだけは、低音部に理想的に適合して
いた。ボンバードとスライド・トランペットも演奏することはできたが。さらに言うと、これらはその世紀末には比較的新しい楽器であった。 |