13・14世紀のイギリス音楽は、同時代のフランスの 曲に比べて、保守的であるように思える。これは、まったく正しい印象というわけ ではないのだが。中世、フランスの影響は、他の芸術の分野でのように、音楽でもほとんど圧倒的であったが、島国のイギリスは、朗々と鳴り響く教会音楽と叙 情的な歌の確固たる伝統を持っていた。フランスの影響は、東部の州では明らかであり、ベリー・聖エコムンド修道院(the abbey of Bury St. Edmund)は、その非常に重要な中心であった。14世紀、アルス・ノヴァの音楽、すぐにモテットの形式で育まれた。ベリーのオックスフォードの写本 が、少なくとも2つのフランスのモテトゥスを含んでいることが証明しているように。フランス語そのものは、普通、ラテン語に置き換えられた。このことは、 14世紀のイギリスには、フランス語のポリフォニーの歌が、まったく完全に存在しないことを説明しているかも知れない。たとえ、チョーサーが、2つのマ ショーの叙情詩を英語に訳し、明らかにフランスの作品をよく知っていたとしても。いずれにせよ、アルス・ノヴァの記譜法は、次第にイギリスで一般的にな り、その使用が、その世紀後半前に広まっていたと言うことはできないが。しかし、ベリーでは、パリの息吹を伝える「4つの音楽の原理(Four Principles of Music)」が、この時期よく知られていただけでなく、エジディウス・デ・ムリノ(Egidius de Murino)の後期アルス・ノヴァの複雑な記譜法の簡便なガイド(解説書)もよく知られていた。 状況は、この時期から存在する非常に様々な断片のコレクションによって複雑になる。これらは、しばしば、イギリスのほとんどどこにでも見られる奇妙な ページや、ページの一部分である。ウスター(Worcester)から分離した重要なページの一束が保存されていたのも、単なる偶然ではないだろう。そこ は、14 世紀音楽の作曲の活動的中心であるとしても、保守的なところである。これらの曲は、全般に、その世紀初頭に年代付けられ、主にモテットでできている。(例 えば、Alleluia psallat/Alleluia concinet) ミサの曲は、トロープスの音楽が挿入される傾向がある。ベリー聖エドムンズから遠く離れたファウンティン修道院では、14世紀後半に年代付けられた写本 は、ポリフォニーのより進んだイギリス様式のセクエンツィア、アンティフォン、それにモトットを含み、発達したアルス・ノヴァの記譜法を採用している。ミ サ曲は、全般に、一層人気が出ており、恐らく、リンカーンシャーのタターシャルのものであろう大英博物館の写本やダーハム大聖堂(Durham Cathedral)の写本は、この証拠であろう。キリエは、この場合ではなく後の時代ではあるが、15・16世紀にはかなり好まれさえした。王宮礼拝堂 (チャペル・ロワイヤル)の曲集は、王の旅に付き従ったもので、ロンドンに留まっていたものではないが、1400年頃のコンドゥクトゥスとモテット様式の ミサの曲以外は、ほとんどないように思える。ここでは、他のどこでもなくフランスのポリフォニーの歌の様式が次第に導入されたが。フランスの影響は、特に 問題となっている曲集で明らかである。というのは、アイソリズムが、ミサにもモテットにもあり、後期アルス・ノヴァの複雑なリズムの扱いは、最も顕著な特 徴の一つである。世俗の歌は、写本が示しているほとつまらないものでは決してない。しかし、結局のところ、宮廷では、フランス語が英語と同じくらい歓迎された。ジャン・ ド・ル・モト(Jehan de le Mote)やオトン・ドゥ・グランソン(Oton de Granson)のようなフランスの詩人たちの存在から判断すると。それ故、写本に英語の歌が含まれていないことは、驚くべきことではない。非常に多くの 叙情詩の歌がまったく保存されていないけれども。残されている音楽の曲は、驚くべき新鮮さと単純さとを示し、同時代のフランス音楽が、芸術のための芸術で あったことと著しい対照を見せている。ダーハム(Durham)の記録は、世俗音楽が、特別の折には、修道院で歓迎されたことを証拠付けている。聖カス バートの日(St. Cuthbert's Day)には、3声のキリエが保存されており、吟遊楽人たちが演奏に招かれている。世俗の歌でさえ、ポリフォニーになる傾向があり、第2声部の失われた 14世紀初期の1つの例(Bryd one brere)は、教会の方向を示すもう一つの例である。なぜなら、それは12世紀の教皇の大勅書の裏に書かれていたから。同じ時代頃から、短い子守歌 (Dou way, Robin)がある。それは、モテットのテノールとして使われた。 14世紀には、典礼用ではないが、宗教的な教化のための歌が、単純な描写的性格の叙情詩に代って広まった。Angelus ad virginemは、チョーサーがカンタベリー物語の中で言及している非常によく知られた例であった。その旋律は、13世紀に年代付けられるが、曲は、3 声の真中のパートにオリジナルの旋律のある14世紀共通の様式で、ポリフォニー的に作曲されている。ラテン語の英語訳が知られていて、これは、15世紀ま で十分続いた2つの言語の交替の一つの例である。キャロルは、このタイプの歌から発展したが、いずれの言語で書いてもよかった。現代のキャロルのように、 単にクリスマス・キャロルだけではない。14世紀の遺物は、ほとんどない。また、すべての音楽は、15世紀の写本の中にある。もともとは、単一声部の舞 曲、むしろフランスのヴィルレのような形式であったに違いない。しかし、知られているほとんどの曲はポリフォニーで、2声のソロの詩と、リフレインあるい は「バーデン(折り返し歌)」のための3声のコーラスとを対比させる広がりのある傾向がある。最もよく知られたキャロルの一つは、いわゆる、エイジンコー トの歌(Agincourt song)「Deo gratias Angelia」で、王とフランス国の成功を感謝する誇り高き表現であるが、ほとんどのキャロルは、神や聖母マリアへの単純な賛美の歌であった。 アルス・ノヴァの影響が、1400年よりずっと前から、キャロルや世俗の歌に影響を及ぼしたとは言えないが、イギリスの奇妙な曲は、その年代以降も、大 陸の歌の様式で存在する。他方、キャロルのように、他の世俗曲は、一音対一音の書法の、時折、非常に原始的なハーモニーで、テキストのないパッセージとテ キストのあるパッセージとを分けている。コンドゥクトゥスの名残である。カルミナ・ブラーナの酒宴の歌は、3声のアイソリズムのモテットとして作曲された キャロルの1つの曲集の中にあるが、このタイプの曲は、奇妙に単純である。キャロル及び多くの15世紀の大陸の音楽に影響を及ぼした要因は、特に、主とし て、3度と6度の繋がりであるイギリスのハーモニーの形式にあった。2声部の即興的なハーモニーの原始的型の拡張に基づき、このイギリスのディスカント は、一般に言われるように、先ず、13世紀終わりに3声で写本に現れる。14世紀には、それは極めて一般的になり、全般に、古いコンドゥクトゥスのよう に、スコアの3声すべてに、すぐに認めることができるようになる。ファウンティン修道院では、単旋律聖歌、それは普通真中の声部にあるが、赤の記譜で、他 のものと区別された。「アルス・ノヴァ」の中で、フィリップ・ド・ヴィトリによって言及されたが、他のフランスの14世紀音楽では知られていない特徴であ る。14世紀全体を通じて、このイギリスのハーモニーの即興的性格は明らかであったが、ダンスタブルやその同時代の人々が、この様式の甘い協和音 を、中世に受け入れられていた伝統的なハーモニー体系と合体させるまでは、発展しなかった。それ故、イギリスのディスカント様式のミサ曲、アンティフォ ン、そのセクエンツィアと並んで、モテット様式がより精巧な曲のために保持された。 アイソリズムが、イギリスの作曲家たちによって、ついに採用されることになったが、イギリスのモテットは、全般に、ある特徴を保持する傾向があり、それ が保守的な印象を与えた。3声のモテットの2つの上声部双方に、同じようなあるいは同一のテキストを使用することは、極めて普通で、一方、フランスでは、 これらのテキストが異なるのが好ましいと考えられていた。テキストの最初の数語や最初の行は、連続性が全く異なっているところでも、イギリスのモテットで は、上声部と同一であることは当然のように思われた。アイソリズムが人気を得る前は、声の交替の原理は、しばしば音楽構造も共に保持するために使われた。 本質的に、これは、1つの声部が他の声部の音楽を引き継ぐ、あるいは、その逆の問題であったが、どの曲でも、その技法は非常に微妙な形でなされた。カノン は、しばしばこの時期に終わりに書かれた作曲に採用された。そして、この中に、Sumer is icumenや、いわゆるロトゥンデッリ(rotundelli)すなわち円舞曲(round)が、6声までで歌うことができるなら、完全に鳴り響く音 (完全協和音)は、常にイギリス人には快く、5声の書法でさえも、オールド・ホール写本(the Old Hall manuscript)の中にある一方で、多くの14世紀の曲は、4声であった。フランスでは、デュファイ以前には、5声の曲は、一曲も現存しないのだ が、ピカード(Pycard)は、これをグロリアの中に2つのカノンを採用することで達成している。メシュエ(?)の(Mayshuet's)モテット は、5つの明確に異なるパートでできているが。 作曲家たちが、イギリス起源の写本の中に自らの名を書き込むようになったのは、15世紀になってからである。そして、オールド・ホール写本には、 Aleyn, Cooke, Burell, Damett, King Henry, Byttring, Tyes, Excetre, Leone, Power, Pycard, Rowland, Queldryk, Jervays, Oliver, Chyrburyl, Typp, Swynford, Pennard, Lambe そして、フランス人 Mayshuet(Matteus de Sancto Johanne)のような名が含まれている。 マテウス・デ・サンクト・ヨハンネ(Matheus de Sancto Johanne)(Mayshuet de Joan)は、3つのバッラードと2つのロンド、そして5声のモテットの作曲者で、1378年には、アンジュー公ルイの礼拝堂牧師であり官吏であった。ア ヴィニョンの教皇庁との繋がりは、クレメント3世を讃えるラテン語のバッラードで明らかになっている。彼の世俗の曲は、14世紀後半のより複雑な様式の方 へ向かう傾向があり、そこでは、長いシンコペーションやクロス・リズムが、時折、最も重要な書法となっている。(Fortune fausse参照) にもかかわらず、マテウスは、普通には、極端なこの様式を避けている。そして、旋律は、全般にトレボル(Trebor)やセンレケス (Senleches)のものほど面白くないとしても、彼は、Inclite flosにおけるように、多くの14世紀の歌により多くの現代の好みを付与している旋律的なセクエンツィアを用いた最初の一人である。15世紀初期のイギ リスの作曲家であるビタリング(Byttering)は、複雑なアイソリズムのモテットやカノン風のグロリアを書くことができた。それにもかかわらず、 それらは、その訴えかけるものを保持しており、単なる形式の遊びに堕してはいない。他方、Nesciens materほど単純で快いものはないだろう。それは、現代の3拍子で、今風のイギリスのハーモニーを持っている。しかも、この無害の曲も、単旋律聖歌が、 3声すべてに浸透して互いに結びつけられている。 ヘンリー王のグロリアとサンクトゥスは、2つの全く異なる様式で書かれている。サンクトゥスの古風な様式は、ヘンリー4世を思い起こさせる。彼は、リ コーダーを演奏したことが知られている。また、Aleyn'のグロリアも思い起こさせる。ベネディクトゥスでは、安易に 6/8拍子から 3/4拍子に変えられているが。さらに、和声様式が支配的であり、かなり不器用な旋律の跳躍があるにもかかわらず、音楽的に受け入れられるものである。そ のグロリアは、また、3声であるが、今度は、フランスの世俗の歌のように、上声部だけにテキストがあり、より面白い。その曲の後半は、6/8拍子から普通 拍子(4分の4拍子)に変えられ、3連符やシンコペーションでクライマックスに達する。また、アーメンは、2度最高 Fに達する。Burell, Cooke, Damett, Sturgeon, Chyrbury それに Excetreは、皆すべてヘンリー5世の統治時代の文書に、チャペルロワイヤル(王宮礼拝堂)の牧師(吏員)として言及されている。Excetreは、 ヘンリー4世とリチャード2世の統治時代にもそこにいた。一方、John Aleynは、エドワード3世の時、1373年に没した。ヘンリー王の治世の様々な出来事、例えば、エイジンコート(Agincourt)やヘンリーと ヴァロワのキャサリン(カトリーヌ)との婚礼、トロイエス(Troyes)の和平などが、その時期のモテットやミサ曲の中で言及されたり、示唆が与えられ たりしている。ヘンリーの婚礼には、少なくとも、38人の牧師や礼拝堂牧師、そして16人の歌い手が出席していた。 目次へ |