オルガヌム化によるポリフォニーの誕生
自ら自叙伝の中で、オズバート・シットウェル卿(Sir Osbert Sitwell)は、私たちに、彼の父親が作成した膨大な覚え書きの多くの多彩なテーマの中に、「合唱(part-singing)の起源--それに起源があったという事実を別にすれば、彼はそれほど関心を引かなかったテーマ」があった。合唱と合唱の書法は、西洋音楽が成立するまさに要素(素材)であった。それらは、二声の専門家の結びつきから始まって、40の複雑なポリフォニーに発展する千年以上に及ぶ多くの音楽に仕えてきた。その反動として、続いてモノディの時代が始まった。それは(その名前にも関わらず)、基本的には、二つの旋律線の曲であり、原始の状態へのテクスチュアと倫理の双方における回帰であった。
現代の学者たちは、全般に、生活上の他の優れたものと同じようにポリフォニーは東方からやって来たと言うことで一致している。事実、それは、偉大な東洋や中東の文明が形成し洗練したのだけれど、原始社会の中にも存在しており、その結果、その問題と手法は書かれた符号で伝えられてきた。これらの符号は、いくつかの点で、カロリング・ルネサンスの音楽の大きな贈り物となった。というのは、9世紀、10世紀は、とりわけ書物の時代であったから。--一方で、ほとんど常に典礼用の豊かに彩られた写本、他方、詩やラテンの古典、教会史などがびっしりと書き込まれた、粗末ではあるが広く流布した写本の時代。書くことの技術、書の技法は、音楽の技法と分離できないほど緊密に結びつけられるようになった。こうして、初期の時代の遠い国々のポリフォニーは、いかにうまく平行の旋律、ドローン上の調べ、あるいは、主題(テーマ)の模倣の上に組み立てられていようとも、それ自体を無条件に伝えるという方法に欠けていた。多重の音を符記号に書き表すのは、西洋の国々の仕事であった。
しかし、最初の仕事は、単一の旋律線上の相対的な音の高さを示すことであった。なぜなら、一度これが達成されると、二つ以上の線が発明され、意のままに記譜できたからである。音の高さの明確で実用に耐える方法を導入したという称賛の多くは、フクバルト(Hucbald)というフランコ・フラマン修道士(840-930年)に与えられている。彼の長命は、彼の論理に劣らずよく知られていたが。彼は、極めて巧みにローマの哲学者であり政治家であったボエティウス(524年没)によって後世に伝えられていたギリシアの文字の記譜法を修正し、300近くあった異なる符号を扱いうるよう15に減らしている。彼の書、「調和の体系について(音楽教程)(De Institutione Harmonica)」の中で、フクバルトは、「アレルヤ(Alleluia)」という言葉をそれぞれの音節の上に伝統的ではあるが、曖昧な記号で書いている。「最初の音は」と彼は書いている。「より高いように思える。あなた方は、それをどこでも好きなところで歌うことができる。あなた方が見ることのできる二つ目の音は最初の音より低いが、最初の音にそれを加えようとすると、その音程が一音なのか二音なのか三音なのか決めることはできない。それが歌われるのを聴かないなら、作曲者が意図したように歌うことができない。」
それから、彼は、一方で、それらが歌のある表現豊かな特徴を示しているので、伝統的な記(符)号(ネウマと呼ばれる)を保ちながら、彼の文字の記譜法を加え、そうすることで、それぞれの音の高さを定めている。フクバルトの体系は、古いものと新しいものとを包含し、歌い手に正確な音高と表現の多様性とを教えた。それは、また、ハーモニーの基本、すなわち、「共に鳴り響く音高の異なる二つの音」として定義された協和音を教えた。別のところでは、フクバルトはより長い定義を与えている。「協和音(コンソナンティア(consonance))とは、二つの音が計算されて調和して混じり合ったもので、それは、異なるソースから生み出されたこれらの二つの音が一つの音楽的統一として結びつけられる時だけに生じる。例えば、少年と大人の男性が一緒に歌うときのように。これは、普通、オルガニザチオ(organizatio)と呼ばれる。」その時から、オルガニザチオは、音楽の作曲のための用語として受け入れられるようになり、一方、オルガニスタ(organista)はその作曲者のことを指した。
フクバルトによるポリフォニーは、一つとして残っていないが、彼は優れた音楽家として認められた。この証拠は、彼のグロリアのトロープス「Quem vere pia laus」と聖アンデレ(St.Andrew)、聖テオドリック(St.Theodric)と聖ペテロ(St.Peter)のための三つの聖務日課の中に残っている。最後に述べたものの構造は、あるゆる可能な調(キー)での前奏曲(プレリュード)の書法で、バロック時代に実践されたものを先取りしている。フクバルトは、順に8つの旋法それぞれで朝課のためのアンティフォンを作曲し、9番目と最後のアンティフォンでは、最初の旋法に戻っている。彼は、長い間、小さな音楽の冊子とその註釈(ムシカ・エンキリアディス(Musica Enchiriadis)とスコリア・エンキリアディス(Scholia Enchiriadis))の著者であると考えられてきたが、今日では根拠のないものと考えられている。にもかかわらず、これらの書は、かなりのものをフクバルトが先駆けとなったもの、また発明したものに負うており、私たちに単旋律聖歌に対位法で書かれた最初の例を提供している。
中世初期の作曲家たちは、彼らが選んだ何らかの単旋律聖歌に対位法で曲を書くことは許されていなかったことを覚えておくことは重要である。教会は、ミサや聖務日課の部分が付加的な声部によって巧みに作られているものに関して慎重な指示を与えた。全般に言えば、祝祭日が大きければ大きいほど、多くの手を加えることが許された。かなり意義のある付加がなされた要因は、その単旋律聖歌そのものの性格にあるのだけれど。ある種のレスポンソリウムの聖歌、その様々な部分は相互に合唱とソロに配置されているが、ソロの部分の曲だけしかないものもあるかも知れない。同様に、詩編を歌うとき、詩編のアンティフォンだけに「組織立てられた」作曲がなされた。賛美歌やセクエンツィアにおいては、相互の詩だけが作曲され、一方でミサの通常文の聖歌においては、トロープスのためだけの音楽を作曲する傾向があって、基本のテキストのためのものはなかった。これらのトロープスは、このように習慣と規則によって崇められたテキストへの音楽的詩的挿入であった。そして、作曲家というのは、(私たちがフクバルトで見たように)詩人と音楽家とが結びついたものであることが稀ではなかった。
ムシカ・エンキリアディス(Musica Enchiliadis)は、標準的な手引きではなかった。異なる写本には、作曲の技法に関して異なる付表(appendices)を含んでいた。それで、その論のパリの(一部の)写本にハーモナイズされた音楽の最も初期の例の一つを見いだしても何ら驚きはしない。その記譜は、小さな円によって結びつけられたジグザグの線でできていて、何人かの学者によって技術者による橋の設計図にずっと喩えられている。また、同様に、入院した音楽学者の体温表に似ていると言われるのも納得がいく。何年もの間、この奇妙なデザインは、その旋律がトリニティ・サンディ(Trinity Sunday)のためのセクエンティア「Benedicta sit beata Trinitas」の旋律であることが偶然発見されるまで、その秘密を保持していた。さらなる調査研究は、交互の詩あるいは詩の一部だけがハーモナイズされた形で作曲され、それ故に、セクエンティアは、全般に受け入れられた朱筆(rubrics)に従って、ソロとコーラス、あるいはコーラスの二つの側で交代をしながら演奏されたに違いない。
スコリア・エンキリアディス(Scholia Enchiliadis)は、中世やルネサンスの非常に多くの理論的著作同様に、師と弟子のような対話の様式で書かれた。それには、音楽の例が含まれているが、すべて、同じテキストと旋律「Nos qui vivimus, benedicimus Domino」に基づいている。これは、日曜日の晩課(Vespers)で歌われた詩編CXIII(In exitu Israel)へのアンティフォンである。このように、対位法の手が加えられることを許している。その例は、2,3あるいは4の平面(声部)の、そして4度、5度あるいはオクターヴの様々な種類の二重化の効果と壮麗さとを示している。この図式は、ハーモニーの連続(列)に応じて、時折オリジナルの旋律を繰り返しているに過ぎない。しかし、この効果は、理論家たちによって確かで重い足取りで進められ、大修道院や大聖堂のような大きな建造物の中で取られたとき、荘厳に鳴り響いた。それは、紙の上では非常にシンプルで機械的であるように見えるが、私たちは書かれたページだけから音楽を判断していることに気づかねばならない。ベルリオーズがパレストリーナに対して、パレストリーナに不利なことを多くなしたように。
ハーモニー化された音楽を奨励すると共に、記譜法の教授が進行した。これは、尊い大修道院長の威厳の下でなく考慮された仕事であった。クリュニー、2世紀(200年)も経たないうちに千以上の他の大修道院や小修道院を、典礼や 精神的事柄において自らの指導の下に従わせた修道院であるが、そこはその音楽的訓練で有名であった。聖モール(Saint-Maur)のオド(Odo)は、そこで研究していたが、一週間以内で完全な視唱(sight-singing)ができるよう聖歌隊の少年たちを教える彼の方法を詳しく述べた音楽の手引きを書いた。彼は、共鳴箱の上に一本の弦を張り、動くブリッジで支えた単純な装置であるモノコード(一弦琴)という楽器を使った。文字の記譜が弦の下に刻まれ、それでブリッジをある地点まで動かして弦を弾くと音がして、歌い手にその音を示した。オドはこう書いている。
何らかのアンティフォンが同じ文字で印が付けられていると、少年たちは、それが歌われるのを聴くよりも一層容易にそれを学ぶ。数ヶ月の訓練の後、彼らは弦を放棄し見るだけで--ためらわず--一度も聴いたことのない音楽が歌えるようになる。 |
All the ends of the earth have seen Emanuel, the only-begotten Son of the Father, offered for the fall and the salvation of Israel, man created in time, word in the beginning, born in the palace of the city which he had founded, the salvation of our God. Be joyful in the Lord all ye lands. (地上の隅々は、エマヌエル、父なる神の唯一の子、イスラエルの没落と救済のために捧げられ、時の中に創造され、初めは言葉で、彼の築いた都市の宮殿の中に生まれた人、我らが神の救済を見てきた。汝らの土地すべてよ、主において歓べ。) |