第四部
ドイツの興隆
序論
[目次]
ドイツ音楽の興隆は、--政治的な意味でのドイツではなく、民族としてのドイツであるが--イタリア音楽がそうであったほど長い期間のものでもなければ、完全なものでもなかった。それは、ヘンデルとJ.S.バッハからというように日時を決めることはできない。なぜなら、ヘンデルはイタリア化していたし、バッハは、プロテスタントの国、ドイツ以外ではほとんど知られていなかったから。マンハイムの作曲家たちが、最も早い時期でのドイツ興隆の兆しである。この時期、オーケストラの分野での意義は大きく、バッハの息子、カール・フィリップ・エマヌエルがいて、ハイドンに影響を与えることになった。この偉大なる時代、ドイツ音楽の鼓動を促したのは、ロマン主義の昂揚であった。その起源は、ルソーの感受性の中にあったが、ロマン主義自体は、本質的にドイツ的なものである。初期ロマン主義の指標としては、文学では、ゲーテの「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン(1772)」、クリンガーの「シュトルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)」であり、これらは初期ロマン主義全体を表す言葉となった(1775)。また、シラーの「群盗」であり、音楽では、1770年代初期のハイドンの短調のシンフォニー群、エマヌエル・バッハのオルケスター・ジンフォニー第三番(1776)、ファンタジア、「私の銀のクラヴィーアヘの別れ(Abschied von meinem Silbermannischen Clavier)」(1781)、モーツアルトの「ドイツ・アリア」とロ短調、アダージョ、K.540(1788)である。ロマン主義の性格を定義づけようとしたのは、ドイツの作家たち--シラー、シュレーゲル兄弟、ティーク、ノヴァーリス、E.T.A.ホフマン--であり、作曲家たちに主題や詩を提供したのも、主として、ドイツの作家たちであった。--スコットやバイロン(後にユーゴー)は、主たる例外であった。
遅咲きのドイツ叙情詩は、歌曲の作曲に大きな刺激を与え、ツムシュティークとその同時代人たちの「クラヴィーア・リート(ピアノ付き独唱歌曲)」は、シューベルト、レーヴェの手で満開に達し、シューマン、フランツ、コルネリウス、ユーゴー・ヴォルフの手によって存分に咲き続けた。しかし、この時期の最も著しい特徴の一つは、器楽音楽の優位、器楽音楽の領域の非常な拡大であった。(純粋に名人芸においても、器楽演奏家たち--パガニーニやリスト、その他の人たち--は、今や声楽家の影を薄いものにしていた。)ベートーヴェン以後、交響曲もピアノ・ソナタも弦楽四重奏曲も、これまでとは同じものではあり得なかった。無気力な保守主義者を除けば、誰もベートーヴェンのチャレンジを無視することはできなかった。たとえ、クラシックのジャンルが「シンプルな」音楽のままであったとしても、その形式や全体の基調は開かれたものになっており、ピアノの場合で言えば、機械力学的改良がなされたため、片方の手でオーケストラのコンセプションを、もう一方の手で、カンタービレのような真にロマン的な内省的心情を表現するピアノ音楽を可能なものにした。合唱付き交響曲、表題付き交響曲、その世紀半ばには交響詩となったコンサート・オーヴァーチュア(演奏会用序曲)はすべて、音楽に新しい次元を開こうとした試みである。ピアノ音楽がオーケストラに戦いを挑む一方で、オーケストレーションの技術は、リストとワーグナー以後、オーケストラの基調を、ピアノ音楽のような繊細さに近づけようとする傾向があった。その世紀、活力ある音楽はすべて、その性格上、私たちが一般に「ロマン主義」と認めるものである。すなわち「最も繊細な、人間の内面の情感と印象を記録したものとしての音楽、多くの聴衆に向けて発するレトリカルな言葉としての音楽.....文学や絵画によって、これまで以上に豊かに発達した、調性の非常な広がりを持った、一般に半音階の和声とテクスチュアーとが複雑に絡み合った、そして、より広くより洗練された表現力を求めることで発達してきたオーケストレーションの豊かさと希薄化とを共に持った音楽。」また、ベルリオーズがオーケストラの色調を洗練し、リストとリムスキー・コルサコフがそれに輝きを付け加える一方で、ショパンはピアノ音楽において、半音階主義と繊細な基調の魔術を広め、チャイコフスキーは、マーラーに個人的な情感が一般的なレトリックでいかに表現できるかを示した。これらの諸傾向を総合的に体現したのは、主として、ドイツの作曲家--特にワーグナーとそれに続く者たち--であった。
ドイツの興隆は、かつてのイタリアのように、広くすべてにわたる影響力を発揮したものではなかった。その多くは、卓越した個々人の作曲家によるものであった。ベートーヴェン、ウェーバー、シュポーア、遅れてシューベルト、メンデルスゾーン、シューマンからブラームス、ブルックナー、フーゴー・ヴォルフ、リヒャルト・シュトラウス、レーガー、マーラー、そしてもちろん、誰よりもワーグナー。ドイツ人でなく、最も影響を受けそうにない人たち--シャブリエ、ドビュッシー、プッチーニ、リムスキー・コルサコフ、シベリウスら--でさえ、ワーグナーの魔力にとりつかれた。彼らの音楽には、その心酔の痕跡はほとんど見られないかも知れないが。ドイツの影響力を制限したものには他の要因もある。イタリアにはイタリア・オペラの巨匠たちがいた。パリは、その嗜好がコスモポリタンなものであった。さらに、フランス革命の一つの結果であり、またナポレオン戦争の敗北と勝利は、ドイツ人だけでなく。ヨーロッパの様々な民族に強い国家主義的意識を呼び覚ました。それは、ドイツのロマン主義オペラの発展を刺激し、広く行われていた古い「ジングシュピール(唱歌劇)」を日陰に追いやり、ひそかに賛美するだけのものにしてしまった。しかし、シュボーア、ウェーバー、マルシュナーたちの作品にとっては肥沃な土壌を生み出し、イタリア・オペラの覇権を切り崩していたのとちょうど同じ時に、ナショナリズムがイタリアのような普遍的な興隆をドイツが獲得するのを妨げていた。
イタリアの音楽のナショナリズムは、政治的なナショナリズムとは異なって、無意識的なものであった。イタリア人がイタリア音楽を書くのは、イタリア語を話すのと同じく自然なことであった。音楽の伝統がそれほど深く根付いていない国々では、それは慎重になった。グリンカは「第二の祖国」イタリアで「イタリア主義(Italicismo)」にどっぷり浸かっていたが、「次第にホームシックになり、ロシア様式で書こうという考えになっていった。」また、その世紀の中頃、若い才能あるグループ全体がグリンカに倣おうとした。スメタナは1957年、ワイマールで、リストのサークルに属していた一人のウィーン人のぶっきらぼうな言動に腹を立て、「その時その場で、生まれ故郷のチェク音楽を生み出そうと誓った。」そして、ドイツ語を話し書くように育てられ、チェク語の知識は不完全なものでしかなかったが、自らの誓いを成就しようと努力し続けた。数年後には、ベルギー人のペーター・ブノワは、フラマン語擁護運動(Vlaamse Beweging)に巻き込まれ、フランス語のテキストに作曲することをやめ、フラマン語のテキストに作曲することに決定的に変えた。ライプツィッヒに勉学に来ていたノルウェーの作曲家たちは、ノルウェーの音楽を書くために故国に戻った。ロシア人同様、彼らは自分たちの生まれ故郷の民謡にカタルシスの動因を見いだしていた。ワーグナーに圧倒されたフランスの作曲家たちは、彼ら自身の「フランス主義(Gallicism)」を主張するため、絶望的な戦いを強いられていた。普仏戦争の災難は、彼らの最も得意の分野でドイツ人に対抗しようとすることに拍車をかけただけであり、軍事的敗北は、現実にはフランス器楽音楽の再生を促した。イギリスとアメリカだけはドイツの魔力にすっかりとりつかれたままであった。
そうはいっても、民族主義の作曲家は、一般に長い間ドイツの--そしてイタリアのオペラの--同時代の作曲家たちに与えられた国際的評価を勝ち得ることはできなかった。実際、彼らのほとんどはそれだけの才能に恵まれてはいなかった。しかし、彼らの特異な資質は、しばしばドイツ的な判断基準にによって価値が貶められていた。ドボルザークやグリークのように、ドイツ人以外で成功を収めた人たちは、ほとんどが名誉ドイツ人と見なされうる人たちであった。20世紀に入って十年ほどの間に、やっと、一般の音楽界は、ドビュッシーやムッソルグスキーの新しい声に注意深く耳を傾けるようになった。
その初めの十年間に、ロマン主義音楽は、美術史ではしばしば内に内在する退廃を覆い隠すことになる洗練の域にまで達していた。旋律の感受性(特に詩に対する)半音階の和声は、調性を理論上ほとんど無意味なもの、耳や心には全く無意味なものにしてしまうほど発展し、モチーフのつながりと基調との極端までの濃密さと希薄さ、オーケストラの音のあまりの濃厚さは、極限にまで達していた。ドイツの技法は--これらは本質的にはドイツのものだが--汲み尽くされてしまった。反動はすでに始まっていた。事実、いくつかの反動は。すなわち、ドビュッシーのアール・ヌーボーもどきの様式と点描画の技法、冷たく圧縮されたシベリウスの交響曲の書法、ディアギレフによってバレーとオペラの季節に西ヨーロッパに示されたロシア音楽の大胆で斬新なリズムと色彩、ナイーブで現実的なイギリス民俗楽派の全音階的音階、すなわちモード(旋法)音楽など。しかし、そのどれもドイツのものではなかった。それらは、反ロマン的であると同時に反ドイツ的であった。シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ(Pierrot lunaire)」までの初期の調性を持たない作品は、ロマン主義の断末魔の叫びとみなされなければならない。
シェーンベルク自身、第一次世界大戦中、またその後ドイツで反動が起こる前まで、しばらくの間考えを温めていた。しかし、その時までには、ドイツはヨーロッパの国々の中で、並ぶべきもののないほどの指導力を失ってしまっていた。
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