第二部
西ヨーロッパの興隆
序論
[目次]
暗黒時代から、西洋の文化の復興は、言うまでもなく、連続的なものであり、はっきりとは目に見えないほどゆっくりとした過程であったが、歴史家たちは、この打ち寄せるうねりの中に、三つの大きな波を識別している。すなわち、カロリング・ルネサンス、12世紀のいわゆる原ルネサンス、そして、私たちが一般に言い習わしているルネサンスそのもの。それぞれの時代に音楽も対応している。カロリング・ルネサンスの時代には、教会で歌われている聖歌が、初歩的なポリフォニーの基礎となり始めていた。--これは、西洋音楽が急速に他のすべての音楽と袂を分かち、進化を始める第一歩であった。--また、ポリフォニーによって、より明確な記譜法が要請され発展を始めた。原ルネサンスの時は、世俗音楽の要素が入り込むことが特徴として挙げられる。その結果、教会の保護指導から解き放たれた音楽が出現する。ルネサンス期には、フランス、ワロン、イタリア、イギリス、最後にドイツやその他の民族の音楽を含め、全ヨーロッパの音楽の統合が見られる。
彼自身無学であったが、シャルル(カール)大帝は、ローマの典礼を崇めたのと同じように学問を賞賛した。彼の助言者、ヨークのアルクイン--彼は音楽についての論文を書き、セクエンツィア(1)を作曲してシャルル大帝に捧げたと言われている--やアルクィンの後継者、アインハルト(Einhard)の教えにより、シャルル大帝は、自らの周囲に学者たちを集め、写本の書写や翻訳のためのスクリプトーリウム(写字室)(scriptorium)を設立し、また、領地内に修道院や教区の学校を設立した。大聖堂や修道院の建造が、すぐそれに続き、やがて、すべてスコラ・カントールム(歌の学校)(schola cantorum)を持つに至った。814年、シャルル大帝の死とともに、帝国は分割され、その結果政治的混乱が生じたにもかかわらず、文化活動は、後の国家にも衰えることなく受け継がれ、修道院や大聖堂の学校は、戦争に明け暮れる中、平和な島として、学問の中心地としての重要性を増していった。
実を言えば、カロリング朝そしてカロリング朝以後の世界は、古い帝国の知的遺産をすぐに受け継ごうとしたのではなかった。10世紀も終わりになってやっと、ボエティウスの論文と彼のなしたギリシア語からの翻訳が西ヨーロッパで広く研究されるようになった。しかし、それより遙か以前に、アウレリアヌス・レオメンシス(Aurelian of Reome)とサン・タマンのフクバルト(Hucbald of St. Amand)は、ボエティウスの「音楽の理論体系について(De Institutione musica)」の音楽的著作をものしていた。この二人と「音楽の手引き(Musica enchiriadis)」の無名の著者は、誤り伝えられたとはいえ、勃興しつつあった新しいヨーロッパに古代の音楽理論を伝えた。彼らは、記譜法の問題と格闘し、おそらくはオルガンの導入によって影響され、ちょうど発展しつつあった初期のポリフォニーの作品を記述した。新しい大聖堂や修道院教会の丸天井建築は、新しい音楽技法の展開に共鳴するものであった。ボエティウスの数学の一分野としての音楽の概念は、何世紀にもわたって、理論上また実践上ずっと生き続けた。ボエティウスの「幾何学は音楽の調和を目に見えるものにする」と言う言葉は、大修道院長ユグ(Hugh)のもと、宗教音楽の一大中心地であるクリュニーの第三教会堂建築の比率を支配した。急速に、クリュニーの聖歌とクリュニーの建築は、西ヨーロッパの広い地域に広まった。
勿論、音楽においても建築においても、かなり作風の違いが見られる。様々な作例--例えば、ミラノ典礼におけるアンブロシウス聖歌--では、その特徴は様々である。また、記譜法が一層正確になって、トリエその他のドイツの教会人たちは、フランスやイタリアの教会人たちより少し長い間隔で歌っていたことが判明したりして、更に小さな違いが次々と明らかにされた。イタリアのロマネスク建築は--フィレンツェのサン・ミニアート(教会)やミラノの聖アンブロシウス(教会)--クリュニーのものとは、著しく異なっている。
西方教会の初期の時代から蓄積され、当時もより正確に記録され続けていた宗教音楽の膨大な資料は、全般に、西洋音楽の旋律を生む真に母胎となるものであった。当時の民衆の音楽は、その場限りのものであったが、教会音楽は生き残った。実際、音楽を記譜し保存できる立場にあった唯一の人々は、教会の人々であり、彼らの作曲し保存した世俗音楽も--ホラティウスの頌歌やウェルギリウスの一節、死せる君主への哀歌に作曲されたものだが--確かに「民衆のもの」ではなかった。事実、判読される限りにおいて、それは教会の旋律と大変よく似ていた。世俗の香りは、先ず、小さな一団を組んで遊歴する書生たちである、ゴリアルディの歌詞の中に認められる。ここでは、アクセントによる韻律が、音節の長短による韻律より優位になっているが、その音楽は残っていない。アクセントによる韻律が生まれた時代、俗語で書かれた音楽のうち、私たちが持っている中で最も古いものは、世俗のものではなく、プロヴァンス語で書かれた受難物語である。俗語で書かれた最も偉大な世俗の物語は、その音楽を失ってしまった。例えば、「ローランの歌」を私たちは持っているが、「イーリアス」「オデュッセイア」と同様、音楽はない。また、それほど知られているわけでもない俗語の音楽も、初めは、決して「民衆のもの」ではなかった。実際に、私たちは、旅芸人であるジョングルールの音楽は何も持ってはいない。その幾らかは、最初の有名な、教会人でない音楽家、十二世紀に素晴らしい花を咲かせたラングドクやプロヴァンスの文化の中で花開いた宮廷のトルバドールたちによって、疑いなく採り入れられただろう。--しかし、トルバドールたちは、教会音楽からも多くの旋律を採り入れている。
トルバドールの歌や、トルヴェールやミンネジンガーによるフランスやドイツでのその歌の模倣は、原ルネサンスの最も明白な現れであった。それは、イギリスとフランスにおける初期ゴシック建築の時代、ギリシアの学問の再発見の一層の深まり(多くは、十字軍によって起こった、アラビア語からの翻訳を通してだが)の時代、ボローニャ、オックスフォード、パリの大学の萌芽の時代、そしてまた、アベラールやクレチアン・デ・トロワの時代でもあった。しかし、音楽に関する限り、より重要なことは、新しい音楽が誕生したり再生したりしたことではなく、たとえそれほど華々しい発展はなかったとはいえ、特にその世紀後半以降、ずっと成長を続けたことである。(これは、建築の場合も同様である。)新しいフランスの大聖堂は--とりわけ、パリのノートル・ダム大聖堂、1163年に建造が始まって、1182年に主祭壇が聖別されたのだが--その広大な空間に十分適合する、非常に野心的なポリフォニーを育んだ。そして、その新しいポリフォニーは、次の世代に、たいそう重要な新しい音楽形式の技法的枠組みを提供した。ちょうど、教会の聖歌が、トロープスとセクエンツィアを取り込むことによって、水平方向への広がりを示したと言われているように、今や、それはポリフォニーによって生み出されたオルガンのハーモニーの中で、垂直方向への広がりとなった。長い間をかけて、ポリフォニーは、花を開くようにゆっくりと花開いた。ちょうど、彩色師が福音画の中に、キリストの後光を念入りに描いたように、崇拝さるべき聖なる物として、敬虔な尊敬の気持ちで単旋律の音楽を常に扱いながら。しかし、この態度は、結局は、初めにトロープスの言葉を、続いて俗語で書かれた世俗のテキストを対位法に編曲することで、目に見えない形で変えられていった。こうして、中世に典型的な聖と俗との融合した新しい音楽形式が、十三世紀の間に出現した。モテトゥスである。
新しい情勢は、十四世紀初めの「フォヴェール物語」の中に挿入されたモテトゥスの中に十分現れている。これらのモテトゥスのうち五曲の作曲者であるフィリペ・ド・ヴィトリーは--詩人、音楽家、教会人、政治家でペトラルカの友人でもあったが--その後すぐ、1320年に、記譜法や音楽構成法について、新しい技法を記述した論文(アルス・ノヴァ)を書いている。その論文は、その時代全体をアルス・ノヴァと言う名の外套で覆うに相応しい論文であった。(もう一人別の理論家は、ヴィトリーより先にアルス・ノヴァ・ムジカエと言う書物を著している。) 「アルス・ノヴァは、宗教や詩への隷属から解き放たれ、音楽独自の法に基づいて構成される純粋な音楽芸術について、初めて十分な表明をしたものである。また、アヴィニョンの二代目教皇、ヨハネス二十二世が、彼の布告「ドクタ・サンクトールム」の中で、ひどく不平を漏らしているように、言葉は、今や音楽の口実に過ぎないものとして扱われた。
この音楽に対する新しい態度は、14世紀の作家たちにも反映されている・・・。アリストテレス思想の影響、経験主義の成長、「自然のまねび」の必要性と言ったものが、他の諸芸術、ヨーロッパ思想の諸分野に於いてと同様、音楽においても感じられる。ジョットーは、絵画に於いて新しい方法を指摘し、音楽家たちはシャス、あるいはカッチャの中で、たいそう生き生きと自然を模倣している。これらは、チョーサーとボッカチョの特徴ある作品に、音楽の面で対応するものである。」
アルス・ノヴァの最後の大巨匠(最後のトルヴェールとも呼ばれているが)詩人、作曲家、教会人、外交官でもあった、ギヨーム・ド・マショーは、生涯も終わり近くなって書いた「プロローグ」の中で、次のように述べている。
「音楽は、人が笑い、歌い、踊るのを
欲する、一つの科学(学問)である。」
しかし、マショー自身の音楽は、笑い、歌、踊りとたいそう関わっており、また、彼の世俗のモテトゥスが、教会のモテトゥスを、数の上ではるかに凌いでいるとはいえ、マショーは、ミサ通常文の完全なポリフォニー作品を、初めて世に問うた人物である。それより先、作者不明の雑曲集や数楽章の曲はあったのだが--まだ、単旋律の曲によっても、完全な一連のミサ曲が編集されるのは、かなり珍しいことであった。--音楽的に完全なものとしてミサ曲が、教会音楽の主要な形式となるまでは、まだしばらく時間が必要であった。
マショーの死後、十四世紀の最後の25年間に、リズム上、記譜上の工夫が極端にまでなされ、マニエリズムに陥るほどであった。--ある作曲などは、二つのシャンソンを円形とハート型に記譜したように、絵画的でさえあった。--しかし、フランス音楽は、しばらくの間、これまで以上に優位を保っていた。イタリアのポリフォニーは発展が遅れており、その世紀の最後の25年間は、共にフランスの風--マニエリストの風ではない--を受けていたとはいえ、イギリス同様幾分独自の道を歩んだ。アヴィニョンに移った教皇の礼拝堂にさえ、構成員の中にはリエージュ出身のフランス語を話す歌手たちが混じっている。また、極めて重要なワロン人である、ヨハネス・チコニアは、パドヴァで、15世紀初めの10年間を過ごしている。教皇庁のローマへの帰還はその過程を速めた。というのは、マルチネス五世は、自らの礼拝堂に、多くのフランス人ワロン人音楽家を雇い入れたから。しかし、単なる一方通行ではない。チコニア自身がイタリア音楽の影響を受けていたし、次の世代には、他の公の司教区カンブレから来たワロン人、ギヨーム・ド・デュファイが、西ヨーロッパの音楽の原型となった。デュファイは、教皇庁では、イタリアのカンティレーナの影響を受け、ブルグンド(ブルゴーニュ)公、善良公フィリップの宮廷では、フィリップの盟友で義兄弟、一時征服したフランスのイギリス摂政であったベッドフォード公に仕えていたイギリスの音楽家たち--特にダンスタブル--の「公的な音楽と私的な音楽との生き生きとした一致」の影響を受けた。
1453年にコンスタンチノープルが陥落したことは、ルネサンスの始まりを示すものではない。ルネサンスの始まりを示すものは何もない。しかし、コンスタンチノープル奪還のための十字軍への序曲として意図され、デュファイがそのために作曲もした、善良公フィリップのキジの誓いの饗宴は、奪還のための十字軍は実現しなかったとはいえ、中世騎士道の最後の大きな華々しい出来事であった。一方、デュファイ同様チコニアにおいても、そのイタリア的傾向は、ネーデルランド音楽におけるルネサンスの要素を語ることができる。(同様のことは絵画でも起こっている。ギルランダイオはフランドルの画家たちから影響を受けているし、デューラーはジョヴァンニ・ベッリーニやレオナルドの影響を受けている。)文化的政治的事件は、ヨーロッパ音楽の型を大きく変えることとなった。イギリスのフランスへの侵入は、イギリスの作曲たち--ベディンガムやライオネル・パワー、ダンスタブルほかの作曲家たち--の名を、北イタリアにまで知らしめた。フランスがイギリスを駆逐すると、イギリスを孤立へと追いやり、大陸とは独立した別のイギリス風の音楽を育ませることになった。ブルグンド公の世継ぎ、メアリーがオーストリアのマクシミリアン(後の皇帝マクシミリアン一世)と結婚すると、ネーデルランドの音楽の影響はインスブルックにまで及び、ドイツ語を話す地域を、ヨーロッパ音楽の枠組みの中に引き入れることになった。
これまで、ドイツの音楽は、保守的で、ポリフォニーは未発達の状態にあった。ミンネジンガーはトルヴェールを手本とすることが多かった。しかし、ポリフォニーが、重要な意味で初めて記録されたのは、ドイツの地の鍵盤音楽の形であったことは意義深い。ゲルマン人の宮廷オルガニスト、コンラッド・パウマンは、すでに、1454年に善良公フィリップの前で演奏していたし、この進出の結果、ブクスハイム・オルガン曲集の中に、アングロ・ブルグンド地域で書かれた多くの曲が編曲されて載っているが、それを載せたのは、恐らくパウマンであったろう。ドイツ鍵盤音楽の演奏者たちの指は、後に、西洋音楽史の中で、重要な役割を演ずることになる。
しかし、15世紀後半のヨーロッパを代表する作曲家は、フランドル人のハインリッヒ・イザークである。彼は、ロレンツォ・デ・メディチとその息子に二十年近く仕え、その後、マクシミリアン一世の宮廷作曲家になった。そして、ネーデルランド流の教会音楽、イタリアのフロットラ、謝肉祭の歌、フランスのシャンソン、それに、格式ばったドイツのリーとをそれぞれ同様に巧みに作曲した。彼は、デューラーと比較しうる、真のルネサンス人であった。--デューラーもまた、イタリアまで行動範囲を広げ、マクシミリアンの宮廷に入った。イザークの音楽の広まりは、学問の復興の中で、最も強力であったあの道具、印刷術によって促進された。オッタヴィアーノ・ディ・ペトルッチがヴェネチアで印刷業を始めたとき、彼の最初の偉大な楽譜集、1501年の「ハルモニケ・ムジケス・オデカトンA」には、イザークの曲が5曲含まれている。--他のほとんどすべての曲も、ネーデルランド人によるものであった。--1506年には、ペトルッチは、一巻の5曲からなる「ハンリッヒ・イザーク・ミサ集」を出版した。そのうちの四曲は、単旋律聖歌を定旋律にせず、先のデュファイの多くのミサ同様、世俗のシャンソンに基づいたものである。ジョスカン・デ・プレを除けば、他のどの作曲家も、ネーデルランドとイタリアの音楽を満足のいく形で総合することはできなかった。
イザークは、フランス語を話すネーデルランド人の最後の偉大な作曲家ではなかった。ネーデルランド人は、ヴェネチア、フィレンツェ、ローマで、次の世代(16世紀)の半ばまで、フランドルとイタリア音楽を軸として維持しながら、支配的地位を占め続けた。しかし、次第にイタリアの方に傾いていった。音楽と絵画以外の分野では、変化の嵐の吹き荒れる時代であった。新しい学問は新しい考えを導き、印刷術はこれまでにない速さでその新しい学問、新しい考えを共に普及させた。政治的にも、新しいヨーロッパが形を整え始めていた。フランスはルイ十一世のもとに統合された。イギリスはヘンリー七世のもと、騎士道的で喧嘩っ速い貴族たちから解放された。そして、ドイツ国家たる神聖ローマ帝国は、フランドル人皇帝カール五世のもと、領土を拡張した。カール五世は、ナポリ、スペイン、そして、母からの遺産として、大西洋を越え新世界(アメリカ)をも獲得した。16世紀の音楽が投げ出されたのは、こうした新しいヨーロッパの母胎となるべきものの中であった。
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