第一部
西アジア・東地中海地域の音楽の起こり
序論
[目次]
ウオルター・スコットのハムレット王子の登場しない「ハムレット」の話を読むのに時間をさいた多くの人たちの中で、その話は何の話しであったのかを真剣に考えた人がどれほどいただろうか。ハムレット以外のすべての登場人物がハムレットについて語り、ハムレットに語りかけるので、私たちはいろいろと推測することはできる。しかし、そこにハムレットはいない。ハムレットは父親の亡霊よりも実体がない。キリスト教以前の時代の音楽は、まさにそのようなものである。かなり初期の段階から、私たちは楽器、楽器の絵や彫刻、また修復可能な実物の楽器の断片を持っているし、いろいろと楽器の名前も知っている。しかし、その名前がどの楽器のことなのかは、必ずしも確信を持って言えるわけではない。私たちは、楽譜であることはほとんど間違いないと確信している資料を持っていて、時には、学者たちが解読できたと発表したりしているが、あまり確かなものとはなっていない。私たちは、どのように音楽の専門家が訓練されたか知っているし、バビロニア人や中国人はかなり初期の段階で、音楽の科学的理論に到達したことも知っている。いろいろな文化や帝国が興っては衰退していった。シュメール、バビロン、エジプト、アッシリア、カルデア、ペルシア、クレタ、アテネ、ローマと。エジプトでは、三十の王朝が興亡する。トロイとカルタゴは滅びる。アレクサンダーは征服する。ローマは西洋世界を支配する。しかし、私たちがこれらの民族の楽器と演奏の知識をすべて寄せ集めても、彼らが音楽をどのように用い、音楽をどのように考えていたか、本質的なことは何もわからない。ハムレットが存在しないなら、ハムレットの悲劇が私たちを感動させないのとちょうど同じように、楽器の絵や彫刻、理論の説明だけでは私たちは感動しない。ギリシアのアウロスの音によって引き起こされた感情の高まりとか、紀元前586年デルフィでアルゴスのサカダスが、アポロと竜との戦いを数楽章のアウロスの曲に作曲し描いたとか、また、ダヴィデがキンノールを演奏してサウルの悪霊を駆逐したとかの話を読んでも、役に立つどころかもどかしさを感じるだけである。サカダスの曲、あるいはダヴィテのハープ(キンノール)の演奏が本当はどんな音であったのか、私たちはこれらの音を再現できないし、感情の高まりを感じることもできない。また、かすかに想像することもできない。歴史家は、ただ、英雄の演奏する話しを、音の消え失せた状態のまま語ることができるだけである。
とは言っても話それ自体が忌まわしいほどに複雑である。まだ、手探りの状態で、分かっていることも時代によってさまざまであり、わかりやすくしかも正確を期するためには、紀元前3000年頃のシュメール、それに続くメソポタミア文明からエジプトを経て、東地中海地域全般へと主な項目を概観することしかできない。ある種の楽器といくつかの演奏法については、ーリラやハープ、ダブル・パイプ(二枚笛)、それにレスポンソリウム(応唱)やアンティフォナ(交唱)などー歴史的に最も古い時代から記録されている。リラにハープ、ダブルパイプは、シュメール、古王朝時代のエジプトからクレタ、それにおそらくミケーネでも知られていただろ。また、ホメロス以前数世紀のギリシア全土で確かに知られていたし、アッシリア、バビロンでも知られていた。(ローマ人はエトルリア人からダブル・パイプを得たように思われる。)さまざまな打楽器、主として太鼓とガラガラの類は、言うまでもなく、広く行きわたっているが、ラッパの類は、純粋に音楽のための楽器と言うよりは、単に合図の手段として用いられた。リュートの類の楽器の広まりはそれほど記録されていないが、メソポタミアにはー実際にはラルサだがーおよそ紀元前2000年にはすでにあり、エジプトでもその数世紀後には存在した。神殿では、レスポンソリウムとアンティフォナが、シュメールでは行われていたし、エジプトでも知られているが、ヘブライ人が聖歌を歌うのに採用したときには、おそらく少し変えられていただろう。奇妙な事だが、パン・パイプ(パンの笛)が東地中海地域に現れたのは、比較的後の事であったように思える。私たちは、ホメロスが「イーリアス」の中で「シュリンクス」のことに言及するまで、パン・パイプについて聞いたことがない。中国ではずっと古くからあり、紀元前1000年の間に、はるか太平洋を越えてペルーにまで伝えられたようなのだが。しかし、送風楽器の技術的な改良が初めてなされた時ー風圧を一定にする袋や箱の発明のことなのだがーパン・パイプはオルガンの祖先となって現れた。一方、ダブル・パイプは地味なバッグ・パイプを生み出したにすぎない。それは、民衆音楽の楽器としてたいそう人気があり広く普及したものではあるが、オルガンのように後に発展を遂げる潜在能力は何も持っていなかった。
これは、根本的な違いである。音楽の歴史は、とても長い間主として王及び神官、詩人、哲学者の音楽[の歴史]であった。一般民衆の音楽は、どの時代にもほとんど記録が残っていない。オルガンは膨大な文献を蓄積したが、バッグ・パイプはそうではない。私たちの知っている最も古い音楽、メソポタミアとエジプトの音楽だが、それは、神殿及び宮殿の音楽であった。宮殿の音楽と行っても、王が神であり、神官であったときとそれほど異なるものではない。後に、娯楽のための音楽、婚礼の歌や、ブドウ収穫を祝う歌、また、家畜の群に対してとか、お互いに呼び合うために笛を吹く牧童のことなどを聞いてはいる。しかし、それらは、まさに「舞台裏の効果音」でしかない。音楽の本流に民衆音楽が入り込む最初の重要なものは、キリスト教の音楽である。
初期の教会で歌われていた聖歌は、直接的には、ユダヤ神殿やシナゴグで歌われていたものに由来する。しかし、音楽の訓練を受けていない信徒たち、音楽的にも言語的にもさまざまな人たちによる聖歌は、目新しいものであっただろう。それは、「盛んにおこなわれた」という意味と「民衆の」という二つの意味において、ポピュラーな音楽であった。四世紀に二人の学識ある人物、聖クリソストムスと聖アンブロシウスが、偉大で記憶にとどめておくべき新しい賛美歌をーそれが新しいメロディで歌われたのか、それまでの古い伝統的なメロディで歌われたのかわからないのだがーそれぞれギリシア語とラテン語で書いたにもかかわらず。キリスト教がローマ帝国の国教になると、教会の音楽は帝国全土を通じて最も重要な音楽の形式となった。野蛮人(ゲルマン人)の侵入と西ローマ帝国の崩壊とに際して、教会のラテン語を話す地域の音楽は、ビザンチウムの厳格な指導から解放された。西洋の音楽は自らの道を歩んだ。東方の音楽からは次第に離れ、結果として西洋音楽の基礎を固めながら。ー長い間、それは主として教会音楽であった。幸運なことに、特にユスティニアヌス帝以後は、東方教会の音楽が皇帝に支配されたほど教皇には支配されなかった。典礼用の聖歌集がローマ教会での使用の目的で制定されても、ガリアやケルト、モサラベやミラノの教会の典礼では無視されたし、また、どの修道院でも、思いのまま好むままに典礼は行われがちだった。
八世紀になって、その統一が試みられ、教皇にとっては災難、小ピピンとシャルルマーニュ(カール大帝)にとっては野望であったある政治的事件によって、成し遂げられた。この教皇とフランク王との同盟が音楽にもたらした最初の出来事は、スコラ・カントールム(歌の学校)の設立であった。最初はメッスに。続いてシャルルマーニュの領地にある他の都市にも。第二は、シャルルマーニュがローマ聖歌を決然とした態度で、統一的に採用しようとしたことである。このため彼の音楽の助言者たちは、ほとんどというより、全く根拠もなく二世紀前に生きていたグレゴリオ大教皇(一世)の名と権威をよりどころにした。こうしてローマ化が企てられたが、厳しい抵抗にも出会った。しかし、敵対するものたち同士、議論の武器となるに十分な音楽の記譜法をまだ持っていなかった。というのは、ギリシア人たちは紀元前320年頃から一種の記譜法を持ってはいたが、その記譜法は、600年も後になってようやく西洋に知られるようになったし、さまざまな記譜法の工夫がなされていたという知識が広まるまでには、さらに数世紀かかったからだ。記譜法について初めて著作した西洋人は、九世紀、西フランクのベネディクトであった。その記譜法はすぐにフランク王国の多くの中心都市で用いられたが、そのほとんどは現在の北東フランスに当たるところで、イタリアではほとんど用いられなかった。ーこれは、現在の教会音楽の源流は、ビザンチウムからだけでなく、ローマからもカロリング朝のフランスの地へ流れ込んでいるという数多い指摘の一つである。ーさらに特定していえば、北東フランスとサン・ゴール、後は二・三の都市である。
この変化は根本的に重要なことである。15世紀の終わりまでほとんど独壇場であった西ヨーロッパの音楽の優位がここに始まったという理由からだけではない。西洋音楽を、東方教会の音楽を麻痺させてしまった近隣の停滞感から救ったからである。ギリシア正教は、スラブの地を覆うように広まった。東方では、独自の聖歌を持っていたがきわめて保守的で比較的重要でないコプト、アルメニア、エチオピア教会と争わなければならないだけであった。その音楽は、とりわけ、初期の教父たちの恐怖に基づいて、楽器を排除したことから自由な発展が阻害された。一方ラテン(ローマ)教会は、オルガンを受け入れ、その助けを借りてポリフォニーの基礎を築いた。ここから西洋音楽のすべての伝統が発達することになる。
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- 訳注01
- アルゴスのサカダスー前6世紀、デルフォイのピュティア祭で、アポロンと竜の戦いをアウロスで演奏して優勝した。標題音楽のはじめと考える人もいる。(平凡社「大百科事典」より)
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- 訳注02
- 旧約聖書サムエル紀上第16章
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- 訳注03
- レスポンソリウムーカトリック教会で司祭と合唱隊との間で取り交わされる問答歌。
アンティフォナー3世紀頃から今日まで歌われる応答歌。カトリック教会で祭司と合唱隊の間で応答的に歌われる聖歌。(東京堂出版「新版 音楽事典」より)もとに戻る
- 訳注04
- パン・パイプ(パンの笛)ー七個の笛管を組み合わせて一定の音階を吹奏できる笛。笛管には指穴がなく、ハーモニカのように上の歌口から左右に吹いて奏する。竹やしゅろの茎でつくられるが、石、金属、木、赤土などでもつくられる。古代ギリシアでは愛用された。のちローマに伝わり、木やブロンズでつくられた。牧人用の楽器で純音楽用のものではない。(東京堂出版「新版 音楽事典」より)
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- 訳注05
- 聖クリソストムス(347頃-407)ー 4世紀最大の代表的ギリシア教父、聖書解釈学者、シリアのアンティオキア生まれ。青年期に洗礼を受け修道士となるが、30代の終わりに聖職に就く。神学はもとより、ギリシア哲学の素養も深かった。説教の巧みさからクリュソストムス(<黄金の口>の意)の呼び名で知られる。(ただしこの呼称は後代のもの。)聖書解釈学者としては、アレクサンドリア学派の比喩的・思弁的解釈を退け、アンティオキア学派の伝統を踏まえて、字句通りの解釈を主張した。旧約及び新約の主な部分の解釈を説教の形で行い、これがまとめられて主著となった。398年、コンスタンティノープル主教に就任したが、教会政治家としての力量に乏しかったため、アンティオキア教会とアレクサンドリア教会との抗争に巻き込まれ、さらに首都の教会の腐敗を攻撃したため、皇妃エウドクシアをはじめとする多数の敵を作った。アレクサンドリア主教、テオフィロスは、キプロス島のサラミス主教エピファニオスをそそのかし、カルケドンで<かしわの樹>会議(403)を開かせ、クリュソストムスを不敬及びオリゲネス異端のかどで告発した。明らかに不当な告発だったが、クリュソストムスは、2度にわたり追放され、ポントスで衰弱のため没した。クリュソストムスは、東方正教会では最大の教父として尊敬されている。また、正教会の主要な典礼も、クリュソストムスの名を冠して呼ばれるが、これは本人とは直接関係ない。
聖アンブロシウス(339頃-397)ー 西方教会の教父として、アウグスティヌスに先立つ重要な人。ローマ貴族アウレリウス家の出身で、父の任地トリールに生まれ、ローマで法律と修辞学を学んだ。ミラノの執政官だったとき、キリスト教正統派とアリウス派との争いを収めた事が高く評価され、未受礼であったにもかかわらず民衆に支持されて、374年司教となった。それ以後、グラティアヌス帝に対してウイクトリア女神の祭壇を撤去させ、これを再建しようとしたシンマクスを抑え、テオドシウス帝の残虐行為を弾劾し、さらに東方教会の皇帝教皇主義を打破して皇帝の教会内での特別な地位を認めなかったなど、教会の地位向上に力をつくした。教会の内部にあっては、すぐれた説教者、典礼と聖歌の改革者、正統主義の擁護者として尊敬を得た。後代、聖歌・典礼・聖書注解で、アンブロシウスの名を冠したものが多いのはそのためである。思想的には、新プラトン主義に近い精神性に富み、オリゲネスにならって聖書の比喩的解釈を行ったので、マニ教の問題で苦しんでいたアウグスティヌスに深い感動を与えたということがある。(告白 5巻14章)著作には、<モーセ六書講解><雅歌講解><聖職者の務め>などがあり、マリア論や天使論についての文章もある。
(平凡社「大百科事典」より)もとに戻る
- 訳注06
- ガリア、ケルト、モサラベ、ミラノの教会ー今日までグレゴリオ聖歌の名で知られるローマ・カトリック教会の単旋律の典礼聖歌は、東方聖歌が西方の世界に受け入れられながら、次第に変貌していったものである。聖歌の名前は、中世の典礼の整備と布教活動に大きな功績のあった教皇グレゴリウス一世(在位590-604)にちなんでいるが、歴史的にみればおよそ12〜13世紀まで創作が続けられた。その間に東方聖歌を受け入れる最初の拠点となったミラノのアンブロシウス聖歌、アルプス北方のガリア聖歌、スペインのモサラベ聖歌など地方的な典礼も存在したが、ローマ教皇権の拡大に伴って、次第に統一へと向かった。今日の研究によれば、その間に予想以上に北方からの影響が強かったことが指摘されている。
ガリア聖歌ー4〜8世紀にガリア地方で行われていたキリスト教の典礼音楽。リモージュのサン・マルシャル修道院などがその中心で、独唱的な詩編の歌や賛歌が重んじられた。
ケルト教会ー4世紀末から5世紀初頭ニニアンやパトリックによって基礎がおかれ、アイルランド、スコットランドを中心に大陸の一部でも12世紀頃まで続いたケルト人の教会。血縁・地縁的集団と結びついた司教区の設定、修道院長が司教をかねる特異な教会制度、東方の影響をうけた暦法や慣習でカトリック教会とは対立したが、(664ホイットビー会議)中世初期の西欧で彼らがはたした学問、芸術、伝道上の貢献はきわめて大きかった。(平凡社「大百科事典」より)もとに戻る
- 訳注07
- スコラ・カントールム(歌の学校)ー 4世紀、教皇シルウエステル一世によりローマ教会用の聖歌要員養成機関として設立された。西方のキリスト教会がローマを中心にして中央集権的な体制を固めつつあった頃、グレゴリウス一世は、典礼聖歌の集大成とその普及に力を入れ、スコラ・カントールムの整備拡充をはかった。(平凡社「大百科事典」より)
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- 訳注08
- ベネディクト(アニヤンの)(750頃-821)ー フランク王国におけるベネディクト会修道制の組織者、聖人。本名はウイティツァ。(witiza)西ゴートの貴族家門に生まれ、フランク宮廷を経て、744年聖界に入る。南フランスのアニヤンに改革修道院を創建(779)して以来、フランク修道界へのベネディクトウス会則の導入に努め、またルードウイヒ一世の教会改革を補佐して、816年と817年の教会会議を通じて、教会と国家の根本的な改革を志した。(平凡社「大百科事典」より)ベネディクトウス会則を執筆したヌルシアのベネディクトウスとは別人。
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- 訳注09
- コプト教会ーエジプトの単性論派教会。エジプトのアレクサンドリアは使徒マルコの宣教した地と伝えられ、ローマ、アンティオキアとならぶ古代キリスト教世界の中心地であった。同市の主教は大きな権威を有し、アレクサンドリア派は、アンティオキア派とならび称された。アントニウスなどの努力によって、修道制が確立したのもエジプトである。しかし、アレクサンドリアは、5世紀の単性論問題でローマ及びコンスタンティノープルの教会と争って敗北し、主教ディオスコロスは、カルケドン公会議(451)で罷免された。エジプトの教会は孤立し、457年より独自のアレクサンドリア主教をたててカルケドン派教会に対抗した。これがコプト教会のおこりである。ビザンティン帝国側からの単性論派融和策が成功しないうちに、エジプトは、642年、アラブ軍に征服された。キリスト教の宗教活動は制限付きで許されたが、重税が課せられ、また時として、イスラム教徒支配者からの迫害にさらされた。そのためイスラム教への改宗があいつぎ教会の勢力は衰えた。エジプト全体のアラブ化が進む中で、総主教座は、11世紀にアレクサンドリアからカイロに移された。コプト語は、典礼用語として残るだけで他はすべてアラビア語におきかえられた。現在では、コプト教会の信者たちは、エシプトの人口の約10%を占めるにすぎないが、アラブ世界では最大のキリスト教会である。
アルメニア教会ー ソ連邦のアルメニア共和国を中心に、西アジア・アメリカ合衆国などに拡大したキリスト教会。教義上は単性論派に属する。アルメニアは、4世紀初頭、世界で初めてキリスト教を国家宗教として受容した。カトリコスと呼ばれる教会の首長の座は、エレバン西方20qのエチミアジン(1945年まではバガルシャパトと称した。)におかれ、4世紀末まで、カッパドキアのカエサレア主教の管轄下にあった。5世紀初頭、メスロプ・マシトツがアルメニア文字を考案、さらに聖書のアルメニア語訳を完成させた。教会はローマ帝国内の教義論争には加わらなかったが、6世紀初頭には単性論を受け入れた。イスラム軍の侵入後、国内政情の不安定から教会の勢力は衰えた。セルジューク朝支配の時代に、多数のアルメニア人が小アジアのキリキアに移住しアルメニア王国を築いたが、その時代に十字軍のラテン公国と接触しローマ教会との合同が取り決められた。しかし、合同反対派の勢力も強く、1375年教会は分裂した。現在、合同教会を除いたアルメニア教会には、カトリコス2名と総主教2名がそれぞれ独立している。
エチオピア教会ー エチオピア共和国のキリスト教会。教義の上からは単性論派に属する。4世紀前半エチオピアにキリスト教を伝えたフルメンティオスは、後にアレクサンドリア主教アタナシオスによって主教に叙階された。以降、エジプトの修道士がアブーナ(エチオピア教会の首長)に就任する慣行ができた。カルケドン公会議の後単性派に転じたが、その間の正確な事情は知られていない。5世紀より聖書や典礼書がゲーズ語(北方の方言)に翻訳され、独特のキリスト教文化が形成された。イスラム勢力が進出すると、エチオピアは次第に圧迫され、海への出口をふさがれて孤立した。13世紀後半、ソロモン朝の再興とともに教会もアブーナのタクラ・ハイマーノトの努力で活力を取り戻した。14〜15世紀前半の最盛期には、教会は大土地所有者として国政にも密接なつながりを持った。同時にカトリック教会からの合同の働きかけも行われた。特に、エチオピアがイスラム軍の脅威にさらされると、ポルトガル軍の援助と引きかえに教会合同が問題となった。カトリックの布教にはイエズス会が当たり、1626年には国王の改宗とともにカトリックが国教とされた。しかし、これは武力を背景とした布教であったため、まもなくカトリック勢力は追放され教会も旧に復した。エチオピア教会は単性論派の教会としては、世界最大の勢力を有し、1959年にはエジプトのコプト教会から完全に独立した。74年の革命は教会の財政基盤をくつがえしたが、教会は存続している。(平凡社「大百科事典」より)もとに戻る
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