第2章 ギリシア

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[1. ホメロス][2. 音楽と詩][3/1. 音楽と演劇:バッカス賛歌、悲劇と喜劇]
[3/2. 音楽と演劇:朗唱と歌と踊り][4. 革新主義者と保守主義者]

1.ホメロス

 ギリシアでは、音楽は歌と同意語であった。器楽音楽が存在し、それは、また、2つの基本的楽器アウロスとキタラに関する限り尊ばれもした。しかし、歌が、ギリシア文学の叙事詩、抒情詩、演劇の最大のテキストの言葉、韻律詩節定型表現に調子を付けることから、音楽のより高貴な部分であった。

 しかし、古典ギリシアは、音楽にとっては、パラドクスである。実際、ギリシア文化は、一面では、その固有の関心の中心に音楽を置いた。他面、年代も読み方も不確かないくつかの断片を除けば、音楽テキストの痕跡をほとんど残さなかった。

 私たちに残されているものすべて、紀元前5世紀と定められるべき古典時代と比べると後の時代に属している。ピュティア祭を記念してデルフォイの石に刻まれた2つの頌歌は、紀元前2世紀のものであり、トルコのトラッレス近くのアイディンで発見された墓碑に刻まれた「セイキロス(シチロ=Sicilo)の」墓碑銘は、紀元前2世紀あるいは1世紀のものである。パピルスに書かれた一連の断片は、紀元前3世紀から紀元後3世紀までの間に属する。その中の2つの短いエウリピデスの「オレステ」と「アウリピデス(アウリデ=Aulide)のイフィゲニア」の一節が、恐らく未だに知られていないオリジナルのものの後日の音楽とともに残され、他の断片は、さらに後の時代、ビザンチウムの時代のものであり、それらは、1581年フィレンツェでヴィンチェンツォ・ガリレイ(Vincenzo Galilei)によって出版された。ローマ皇帝アドリアヌス帝とカラカラ帝とによって名誉が与えられた有名な音楽家メソメデ(Mesomede)のものとされている賛歌(頌歌)が含まれている。音楽のこの紛失喪失ゆえに、また、テキストとその音調との間に与えられたある緊密なつながりから、ギリシアの文学は、ある局面では、ディミディアータ(dimidiata)な文学であると断言することができる。

 音楽に関するさらに示唆に富むさらに古い証拠の中に、ホメロスの詩の音楽がある。「イーリアス」では、アポロンの聖所で、アカイア人たちが賛歌(歓喜の歌)(libro I)を歌う。アキレスは、魂から苦痛を駆逐するために(libro IX)一種の古代のリラ、フォルミンクス(phorminx)で伴奏される。歌い手と伴奏家は、アキレスの盾を飾る日常生活の象徴が描かれた絵の中に現れる(libro XVIII)。オデュッセイア(Odissea)では、音楽はイーリアスほど挿話的な役割は持たず、2人の専門家である人物イタカ(イタケー)島のペミオス(フェミオ)とコルチラのテレマコス(デモドコ)の宮廷の歌い手と結び付けられている

 ペミオス(フェミオ)は、若き貴族たち(ペネロペーの求婚者たち)の祝宴を盛り上げる義務があった。彼らはオデュッセウスの長い不在の間に、彼の玉座を奪おうとし、女王ペネロペーに求愛したりした。ペミオス(フェミオ)は、第一書で、トロイアの勝利の戦いから帰還の途上、アカイア人のすべての英雄たちの苦難を語る。しかし、ペネロペーに遮られる。その物語は、余りにも苦しく辛いものであったから。第22書では、さらに、ペミオス(フェミオ)は、オデュッセイアの側からペネロペーの求婚者たちの虐殺に居合わせる。彼の足下に平伏し、許しを乞う。第24書では、オデュッセイアの勝利に参与する。

 テレマコス(デモドコ=Demodoco)は、フェアチの王(il re dei Feaci)アルチノオ(Alcinoo)が、後にオデュッセイアの生存を明かす遭難者をもてなす祝宴で非常に重要な役割を持っている。第8書の記念すべき祝宴の間、テレマコス(デモドコ)は、トロイアの城壁の下での2人のアカイア人の英雄、アキレウスとオデュッセイアの間の争いを思い起こす。続いて、若いフェアチの踊りが踊られる。最後に、オデュッセイアから本物の食卓(テーブル)で切られた滋味に富むブタの肉を受け取ると、トロイア戦争の結末を、木馬の策略(トロイの木馬)、そのアジアの都市の崩壊、大虐殺などを語り、客人たちの要求を満足させる。

 ホメロスの2人の登場人物、ペミオス(フェミオ)とテレマコス(デモドコ)は、戦争と冒険の話を朗読する目的で、銀のキタラで伴奏され、東方の敵に対する共通した戦争を思い起こすことを通して、国としての意識(自覚)を高め広げようと意図する吟遊詩人たちによって理想化された自画像である。紀元前6世紀に、アテネの僭主ピシストラートの任務で、古代イオニア語から現代(当時)のアッティカ方言に様々な物語を書き換え、全アテネ祭の間公に唱えられるように、二つの詩、オデュセイアとイーリアスとに収集し、それらを編集配列するのには、吟遊詩人たちが関わっている。

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音楽と詩

 ギリシア音楽は、紀元前7世紀と6世紀の間の詩と共に神話から出てきている。さらに神話の存在は非常に強い。例えば、最も広く普及した2つの楽器、アウロスとキタラは、音楽が神の起源であることを示している。アウロスは、サルデーニャの現在のラウネッダス(launeddas)のような最も古い地中海で発見されたものに比較されうる管楽器であるが、ディオニシウスとその狂乱の宗教儀式に用いられた。キタラは、ギリシア神話がその発明をメルキュリオ(マーキュリー)の業と語っているつまびく弦楽器であり、まさにオルフェウスのものであり、音楽と言葉との魅惑の統一されたものであった。  

 神話には、キタラで伴奏された歌の創造者、いわゆるキタラ伴奏曲作曲家が属する。その中では、感謝の歌い手ピエロ(Piero)が抜きん出ている。まさにこのために、ピエリデス、9人のミューズの女神たち(Pieridi)と呼ばれる。そこにアウロスによって伴奏される歌の創り主であるアウローディ(aulodi)と、専ら楽器のメロディの作り手であるアウレーティ(auleti)が属している。マルシリアス(マルシア:Marcia)は、アポロンとの競争に敢えて身をおいたため生きながらにして厳しく傷め付けられたが、アウレータであった。  

 たとえ断片であるにしても、現存するテキストのお陰で、いくつかの偉大な詩人の作品の一部が知られており、また彼らは伝承によれば、音楽家でもあり、紀元前7世紀6世紀に、詩とは切り離せない旋律を作曲した。一方、詩は2つの大きな分野、合唱付き叙情詩とモノディ(単旋律の)抒情詩とにさらに分けられる。音楽とのいかなる関係とも別に、合唱付き抒情詩は、公の祭典式典の目的のためと定義づけられ、そこでは社会共同体が示される。婚礼の歌(imenei)、葬儀の歌(threni)、神々を讃える歌(inni)、乙女(処女)の歌(partenil)、ディオニシウスを讃える歌(ditirambi)など。一方、モノディの抒情詩は、特別な神の儀式(tiasi)や政治的党派の集会(eterie)に捧げられた饗宴の集会のような私的な目的の場合であった。  

 何が歌われたのか、どのように歌われたのか、想像することは難しい。その韻文の断片を今日私たちは持っており、今日まだ有効である形式の詩が始まったと主張されている。どんなジャンルの旋律が重要であったのか理解できる可能性は、いかなる文書もないので、ない。しかし、ギリシア抒情詩の歌と言葉の統合の証拠については、議論の余地はない。  

 ギリシアの詩人であり音楽家は、地理的な根拠に基づいて分類された。一連のことは紀元前7世紀後半、スパルタから始まる。そこは、神話的人物テルパンドロス(Terpandro)に基づく音楽の繁栄した学校があった。紀元前7世紀と6世紀の間、スパルタでは、まだ、アルキロコス(Archiloco)の作品の認識が広まっていた。それから詩の中心は、レスボス島に移った。そこには、2人の偉大な詩人アルカイオス(Alceo)とサッフォー(Saffo)が住んでいた。その時代のもう一つの詩の栄えた場所はマグナ・グラエキアであった。  

 これらの詩人、またその韻文が残存していない詩人たちの音楽については、ノモイ(nomoi)と呼ばれる基本的な旋律でできていたことだけが知られている。  

 「ノモイ」という言葉は、「ノモス(nomos)」の複数形で、法の意味である。音楽理論では、伝承に基づく大切に保存された常に同じであろうとする旋律を示す。特質として、起源の場所を、例えば、ベオツィア(Beozia)やエオリア(Eolia)のようなギリシア地域の場所を持っていて、そこからその名を取っていることもあれば、詩の韻律に基づく音楽の韻律で構成されていることもある。あるいは、オリュンポス(l'Olimpo)の多くの神々の一つの神への礼拝のためのものもあり、その名には、そうした起源が反映されている。どの旋律にも、伝統的な範囲限界があり、越えることも変えることもできない。このために、それはノモス、すなわち法と呼ばれた。気の利いた隠喩で、詩人アルクマン(Alcmane)は、すべての鳥のノモイを知っていると断言した。それらは、実際には彼らの歌の定型を変えるものではなく、起源的には、あらゆる多様性と型とがあることを示している。  

 しかし、紀元前5世紀の初め、ギリシアの音楽言語に1つの危機が生じた。ノモイは、傍らに置かれ、次にいわゆるハルモニアイ(harmoniai)によってとって代わられた。初め、ハルモニアイは、ハルモニアがノモスに等しい旋律の定まった定型ではないが、少なくとも、音の範囲、間の関係、リズム、苦悶の楽句に関し主要なその特徴を含んでいたという意味で、ノモイの一つの異形であった。テキストの言葉にイントネーションを付けたこれらの特徴から、地域の特徴が生まれた。実際に、ギリシア市民の主要な国籍のどれにもハルモニアイが存在する。エオリア(eolica)(アイオリス)、ドリア(dorica)、リディア(lidia)、フリギア(frigia)、イオニア(ionica)。シントノリディア(sintoolidia)やミソリディア(misolidia)のような人工のヴァリアントがあり、また、どのハルモニアにも、特別な心理的様相(局面)を伴う。ドリアは厳格、アイオリスは荘重、イオニアとリディアは饗宴の、フリギアは説得的といったような。

 ノモイの危機とハルモニアイの出現は、技術的な局面の彼方で、ギリシア音楽の概念の中での深い変化を反映しているように思われる。  

 紀元前6世紀の第一の時期、音楽はテキストを歌うのに使われ、この役割の発展する中で、ノモスによって形成され制限された写本を通して、同じテキストの要求と特徴に厳しく従っていた。この写本は、当然器楽音楽でも有効であった。声の音楽がそれに依存するのは、議論の余地がないように思われる。  

 次に、ハルモニアイを通して、音楽は、テキストとの関係において、2次的な機能から離れる。そのリズムは、詩の韻律にもはや厳密には従わなくなった。定められた旋律(ノモス:nomos)から出て、旋律は根本的な範囲だけ定められるようになり、最後には、同じ旋律の進行において、適当な楽句を横断して(modulazione:転調)して、より多くのハルモニアイが組み合わされた。更に、楽器には、歌の伴奏(エテロフォニア:eterofonia)を装飾するある自由があった。たとえギリシア音楽が、その歴史全体において、普通「ポリフォニー:polifonia」と定義され、そして、それに続く中世キリスト教の東方音楽の基盤である旋律線のあの重なりとは、厳密には別の音楽と定義されたとしても。実際、ギリシア音楽は、厳密にはモノディであったということは、その反対のことが証明されていないかぎり、真実の主張である。  

 それ故、ギリシア音楽は、比較的自立していた。過去の世紀に西洋音楽が印付けた、またこの100年に驚くべき速さで起こった、その他のあらゆる発展と異なることのない正に真の言語の発展の結果。ここにおいて、ギリシア音楽は、文書が欠如しているために知られていないが、私たちの音楽の直接の祖先となる。ヨーロッパのポリフォニーの時代からルネサンスとバロックの器楽の時代への移行と比較されるべき急激な変化に対応するように、ギリシアの旋律の役割は、伝統によって認められた言葉や韻文に音調を付けることではなくなり、音楽にだけ属し、歌の音の価値とテキストの韻律の価値との間の結合の外にある特異な一連の旋律の終始部にくり返されるその意義を反映するものとなった。   

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音楽と演劇:バッカス賛歌、悲劇と喜劇

 ギリシア音楽のこの芸術的革新のために、ある象徴的な名、ペロポネソス半島生まれで、紀元前6世紀末にアテネに移ったキタラ弾き語りの詩人エルミオーネのラソ(Laso di Ermione)が現れる。

 音楽論文の著者たちは、ラソの教えのおかげで、音楽の新しい表現力が、文学の様々な主要ジャンルを生み出したと主張している。それらは、シモニデス(Simonide)、バッキリーデ(Bacchilide)及びピンダロス(Pindaro)によって育まれた運動競技の試合の勝者を讃えた祝勝歌(epinicio)、ディオニシウスを讃えた古代の儀式であるバッカス賛歌であり、それはコリントで紀元前6世紀にアリオーネの愛好したもの、紀元前5世紀の一連の詩人を経て、ミレトスのディモテオス(Timoteo)によって導入され大革新に至る。遂には、紀元前5世紀に花開いたアイスキュロス、ソフォクレスそしてエウリピデスの悲劇へと繋がっていく。

これらすべての文学ジャンルで、ノモイからハルモニアイへの移行が、新しい著述家とより古代の作家とを分ける。たとえば、シモニデスは、ノモイに忠実で有り続けるが、ピンダロスは、ノモイとハルモニアイとを並べ、キタラとアウロスとを統合し、新しい歌の伴奏形式シュナウリア(synaulia)を導入して伝統と現代性とを結びつけている。悲劇では、アイスキュロスはノモイの伝統を守っている。ソフォクレスは、ピンダロスによって実行された古代と現代との融合を採用した。エウリピデスは、ハルモニアイの技法とその進歩的意味を受け入れた。

 アッティカの悲劇の音楽については、偉大な同時代の喜劇作家アリストファネスの証言が価値がある。彼は「蛙」において、アイスキュロスとエウリピデスとを比較した劇を上演した。アイスキュロスの旋律は、アリストファネスにとっては「井戸から水を汲む人足」にふさわしいものだっただろう。エウリピデスの旋律は、「売春婦の歌、メレート(Meleto)の饗宴の歌、カリア(Caria)のアウロスのための曲、トレノス(threnoi)であり、舞踏の音楽が混じって聞かれただろう。

 2つの悲劇の最高傑作の音楽は、アリストファネスにとっては、それ故にあまりに初歩的でありすぎたか、あるいは、あまりにも混ざり合いすぎたのだろう。アリストファネスの判断は、エウリピデスがアイスキュロスの古風な定型に従って単に言葉に節を付けるように歌を定めるのではなく、様式と混合するのを採用したという意味に解釈されるうるだろう。さらに、エウリピデスの悲劇の音楽は、アイスキュロスの歌-朗詠より複雑で流暢な叙述機能を目指したものであった。その場合、エウリピデスが音楽に伝統的なものと比較して、独立した機能を与えていたというのは真実だろう。そして、一人の人間に詩人と音楽家との職分を統一して持たせたいと考えていた慣習を破壊しながら、専門の音楽家を採用したのもありそうなことである。

 いずれにしろ、ギリシア文学における音楽と言葉の複雑な関係すべてが悲劇の中に要約されている。オリジナルの音楽に欠けるとはいえ、現存する断片は、ヘレニズム時代のものであるが、いくつか完全なテキストが残っているからだけではない。ギリシア悲劇が、神話として、またルネサンスのメロドラマの発明者からいわゆる音楽劇の改革者まで、その中でグルックとワーグナーが抜きんでているが、西洋人の意識の基準点として置かれているからである。

 アイスキュロス、ソフォクレスそしてエウリピデスの悲劇は、私たちの時代にまで一部残っている。一部である。私たちが完全に知っているとしても、それらはアイスキュロスのオレステス(Orestea)を除けば、文脈によって切り離されているからである。文脈を通して、一連の3つの悲劇と最終的なサテュロス劇が四部劇の形で意図されている。それらは、野外で夜明けから正午まで午前中、アテネの劇場で上演された。午後には続いて喜劇が上演されていた。

 その上演は、3月の終わりにアテネにふさわしく指定された祭りの間(大ディオニシウス祭)に6日続けて、また、1月(Lenee)には3日か4日、そして12月の終わりにはアテネの市区で上演された。それは、アテネの民主主義のアッティカ全体の住民10万人のうちおよそ4万人の特権者によって形成された貴族的部分の集まった集団の祭りの祭典であった。

 紀元前5世紀、劇場は木造であり、ヘレニズムの続く時代の石造りの劇場のように建造された。中央の階段と舞台の間に置かれた半円(オルケストラ)のところで公演がくり返された。観客は、儀式用の服装で出席し、何人かの要職にある人たちに承認された。俳優たちは、額が過度に突出した特徴のある仮面をかぶっていた。しかし、それとともに、高い靴(コトゥルニ)も採用されたヘレニズムの劇場用の仮面(オンコス:onkos)に典型的なあの激情の表情はない。衣装は、ディオニシウスの衣装をモデルに固定されていたが、幾つか色彩効果の特徴付けがされていた。赤は王で、未加工の羊毛は予言者だとか、黒は嘆き悲しむ人だとか。前舞台と舞台は、俳優たちと合唱の背後に彩色された舞台装置をもたらした。そして、側面は、舞台のそでは回転する円柱で構築された。ヘレニズムの時代になると、人間や神々が飛翔して現れたり、その場面に回転する台座で舞台に登場したり、遺体の折り重なった虐殺の痛ましい場面の劇場の装置が採用されたりした。

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音楽と演劇:朗唱と歌と踊り

 悲劇や喜劇の上演のためのすべての装置は、アテネの市民当局に権限のあるきちんとした組織のものだった。無作為に籤が引かれて選ばれた詩人たちが、真正な悲劇のコンテストに3人出席し(喜劇は5人)、3つの悲劇とサテュロスの劇で形成された4部作は、2度繰り返し籤をひかれ委員会によって審査された。その結論の言葉は大理石に刻まれた。合唱を審査し、援助する仕事は、当局によって選ばれた市民住民にまかされた。その義務は、時とともに非常に重要になっていき、2人の市民に振り分けられ、最後には国家によって採用された。さらに国家は、貧しい市民たちにわずかな金銭を援助し、市民たちはそれで上演を見に行った。

 第一日目は、荘厳な行列で、詩人や俳優たち、合唱隊歌手たちが姿を見せる。第二日目には、ディオニシウスの彫像が神殿から引き出され、劇場にもたらされる。一方、雄牛の生け贄が捧げられ、その肉は公に分けられ焼かれた。2日続けてバッカス賛歌が朗唱された。さらに3日四部劇と喜劇がコンテストで上演された。

 上演では、朗唱、歌、踊りは絶対的に同等であった。すべてオルケストラで行われた。定型モデルに従えば、悲劇は、一人あるいは二人に委ねられたプロローグ、合唱隊の入場の歌(parodo)、合唱の歌や踊り(stasimi:ストローフェとアンチストローフェに分けられた合唱隊)が間に入った劇の展開(episodi)、またしばしば合唱隊の退場の歌であった結び(esodo)で形成されていた。喜劇もほとんど同じ構成であったが、初めが異なっていた。オープニングは必ず対話の形(agon)であり、全般に合唱隊が様々な部分に分割されて、しばしば7つに、続いた。(parabasi)

 この構成の内部に、悲劇では、様々な形の朗唱があった。6つの短長格の詩(cataloghe)のモノローグやダイアログ、様々な旋律のテキストに付けられた歌(melos)、アウロスの楽器伴奏(メロスにもある)のついた四歩格の詩の朗唱(paracataloghe)、その演奏者は、ディオニシウスに捧げられたオルケストラの中央に位置するテュメレ(thymele)の上に座っていた。詩句に基づく踊り(phorai)に振り付けられた人物(schemata)は、またある場合には、テキストに書かれた出来事を身振りで表現するパントマイムを演じた。有名だったのは、プラティナ(Pratina)の「テーベに対する7(Sette contro Tebe)」で戦いをパントマイムで演じた合唱隊の隊長(corofeo)であった。

 合唱隊は、悲劇では12人か15人、喜劇では24人であった。しかし、彼らの役割は、紀元前5世紀以後、偉大な悲劇作家の後、弱まっていき、最後には、合唱隊は劇から消え、別の寸劇が割り当てられた。一方、俳優たちは、数も増え、合唱隊から歌と踊りを受け継いだ。

 合唱隊の機能の減少には、古典の悲劇の衰退が反映されていた。悲劇は、ロラン・バース(Roland Barthes)が書いたように、今日のドラマと私たちが呼ぶようなもの「すはわち、運命の闘争に基づくものではなく、性格の闘争に基づいた中産階級市民の喜劇」へと進化していった。悲劇の展開の過程で、現実の要素であり、また劇への現在の参加を呼び起こした合唱隊は、演劇の上演という出来事が、人々に共有される光景で無くなったときから、もはや目的ではなくなった。  

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革新主義者と保守主義者

 古典期以前の古代世界では、音楽は動かせない触れられない遺産であった。それが用いられた神聖な儀式では、崇敬すべきものであり、いかなる変更も修正も許されなかった。  

 一方、ギリシアでは、音楽は伝統と進歩との間で大きく引き裂かれた。なぜなら、第一に、もはや触れてはいけないものとは考えられてはいなかったから。反対に、音楽家たちは、その言語や機能に干渉し、深く修正を施した。ギリシア音楽のテキストは存在しないが、進歩的改革は、紀元前6世紀と5世紀の間に起こったことは明らかで、そうした改革は、音楽言語に触れただけではなく、音楽の機能まで変えてしまい、結びつけられたテキストへの依存から音楽を解放した。  

 こうして、音楽は、ギリシアでは新しいアイデンティティを獲得したと断言することができる。つまり、古典以前の古代世界の音楽に保存された保守的な職分から遙かに離れた芸術としてのアイデンティティを。ギリシア音楽は、他の芸術とその不安を共有している。  

 ギリシア音楽で起こった進歩的改革は、理論家で体系家のダモネ(Damone)にある。ダモネは、アテネでペリクレスの師であり相談役であった。ペリクレス時代という名は、ギリシア古典期の中心(絶頂期)であると考えられた紀元前5世紀の別名として名付けられている。  

 平衡感覚(良識分別)の名で、ダモネに関する証拠証言の断片から理解されることとして、彼の音楽理論の中では、ノモイからハルモニアイへの移行が受け入れられている。しかし、様々なハルモニアイに基づく自由を受け入れた結果ではない。正にダモネが、彼の時代、ノモイの周辺に、その用法で構築された厳格な分類をハルモニアの比較的広範な概念の周りに再構築することがあらかじめ定められていたからである。この分類は、人々がエトスとして知っていることに基づいていた。すなわち、ピュタゴラスの原理、魂の状態に対応する描写の下、に従って評価されたあらゆるハルモニアの特質に基づいていた。  

 それ故、進歩的な基盤に基づくとはいえ、伝統の真正な修復が問題とならなければならない。その伝統的な特徴に疑いはない。ダモネがバッカス賛歌の作者たちやエウリピデスの後継の悲劇作家たちによって採用された極端な進歩的結果を受け入れ難いと考えていたことから見れば。  

 ダモネは、紀元前4世紀の間、音楽言語の進展の中で、伝統主義者に反対する議論において象徴となった。さらに、音楽に限定されない反対が問題となっていた。もし「国家」の中で、「国の最も重要な法に導入されることなく、音楽の旋法に変化をもたらすことは決してないとダモネは主張しているし、私もそれを確信している」と断言するときの、伝統主義者たちの中で最も有名なプラトンを信じなければならないとするならば。  

 現実に、ギリシア文化では、音楽は、3つの影響を及ぼす分野、言葉と歌と踊りの備わった全体を表していた。それらの中に、魂のあらゆるものが顕現していた。別の面から見れば、プラトンが、音楽の影響は重要であると考えたこと、「法律」の中で、革新によってもたらされた形式と様式との混乱を描写したあと、政治的な性格の考察で結論付けていることは明らかである。「民衆の中に、音楽の法をなおざりにする習慣とよき裁判官であるという軽率なうぬぼれを注ぎ込んだ。その結果、大衆たちが、詩の美しいものと美しくないものとを理解するかのように、劇場は静寂から叫び声で満ちあふれることになった。そして、貴族階級に代わって悪しき演劇階級(teatrocrazia)が出てきた。」  

 プラトンは、止めることのできない過程に、音楽の世俗化の過程と定義付けられるだろうその過程に断固反対した最後の一人であった。ハルモニアイの分類は、音楽の機能に関して、制限されたものであると考えることをやめ、表現の立場によって受け入れられた多様性の内部の客観的な特徴に変えられた。  

 アリストテレスは、「政治学」の中で、冷静に観察している。「私たちが現代まで話してきたハルモニアと歌とは、音楽の専門家に要求すべきことであることを確実にしなければならない。それ故、観客には2つのタイプがある。自由で教育を受けた者たちと技師や職人労働者のような階級に属する民衆の人々とがいるので、これらの人々をも楽しませることのできる演奏者や出し物を用意しなければならない。これらの人々は、正しい自然の傾向から遠ざかる魂を持つ人々。そして、鮮やかな色彩に満ちた衰退堕落を招くハルモニアや歌を要求した。しかし、各々その性質であるものに従って喜びや快感を感じるものだから、このタイプの観客にも適合する音楽を選択する自由を芸術家に与える必要がある。」  

 アリストテレスの考察は、近い将来に音楽の取る方向を捉えていた。実際、ヘレニズムの時代には、紀元前8世紀から5世紀の間に起こったものに比較しうる創造的人格形成的な現象は、もはやなかった。音楽の世俗化は、要するに古代の音楽と詩との統一が分離したところにあるのだが、それは様々な影響を及ぼした。芸術的局面では、自ら自身のまた名人芸的文学の解釈者であると同時に、ある時代の進歩的モデルに基づいて繰り返し演じられる文学の解釈者でもあった作者によって訓練された専門主義が好まれた。このようにバッカス賛歌の作者であり、悲劇の詞華集の収集家であり、またヘレニズム時代のギリシア・ローマ世界で賞賛を受けた作家たちでもあった。  

 理論的局面では、専門家の使用のための記譜の普及(このことで、私たちにまで伝わっている文書は、ヘレニズムのものである)が、分裂をもたらした。一面では、音と魂と宇宙との間の関係に関するピュタゴラス的性質の抽象的計算であったが、他面では、プラトンが警告したように、神聖さの中で失ったものを大衆性の中で得た音楽言語の理論的実践的局面への関心のなさがそこにはあった。

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