音楽についてのピタゴラス
ピタゴラスは、五度の音程またオクターヴは、同じ弦をそれぞれその長さの 2/3と 1/2のところで留めて出すことができることを発見したと言われ、この調和(ハーモニー)は、それ以来「調和比率」の名の元になっている。
1 : 1/2 = 1 - 2/3 : 2/3 - 1/2
ピタゴラスは、音楽について何らかの知識をエジプトから得たように思えるが、(1)一般には、彼が音楽科学、すなわち倍音の法則(harmonic canon)の発明者(単なる伝承)と呼ばれている。しかし、彼が用いた音程や体系(音階)のことはなにも分かっていない。(2)音楽と数への愛で、その二つを調和の比率を用いて結びつけたことを、彼自身は大変誇りに思っていたに違いないと、当然信じられる。ピタゴラスは、天体間の距離も音楽の調和(倍音)の法則によって決定されると思っていたように思える。そこから、天球の調和の教義が生じてきた。
ピタゴラスの影響は、非常に大きくなったので、政府は彼の結社を解散させたが、それでもそのメンバー達は、まだギリシア中でその派の教義を広めていた。ピタゴラスは、クロトナからの亡命中、恐らくタレントゥムで没したのであろう。しかし、数世紀後、BC343年、第一次サムナイト(Samnite)戦争の大災難の間に、元老院は「ギリシアで最も賢く勇敢な人」として名誉を与えるようにというデルフィの神託の命に応じて、ローマにピタゴラスの彫像を建立した。そして、人々は彼のことをヌマ王(Numa)の師と呼ぶようになった。一方、大エミリア(Aemilian)の一族でさえ、後には、自分たちの誇り高き先祖の一人と誇らしく主張した。
さて、今から、プラトンの時代以前の傑出した二三の他のギリシアの数学者のことを考えよう。彼らは、皆、ピタゴラスの教義によって影響を受けた。また、ピタゴラス学派と近い関係にあり、議論の中には後述するエレア学派のメンバーも含まれていると考えていた方が都合がよく合理的であろう。
マイナーな著述家
ピタゴラスと同時代の人々の中に、恐らくアナクシマンドロスの弟子であったであろうミレトスのアナクシメネスがいる。(3)ディオゲネス・ラエルティウスは、彼がピタゴラスに宛てた二通の書簡を引用している。その一つで、彼はタレスが自分の師であると語っている。しかし、彼の嗜好は、数学と言うよりは哲学の方向にあった。この時期は、ヘカテウスが絶頂期であった。彼の世界地図は、最も優れた学者であっても、当時知られていた知識がいかに断片的なものであったかを示すのに役立つ。
ピタゴラスと同時代頃、何らかの卓越した才能を見せた幾何学者で、詩人のステシコルスの兄弟であるアメリストス(4)もまた、絶頂期にあった。彼は、プロクロス(AD412-485年)によって言及されているが、著作についてはなにも知られていない。
エレアのゼノン(5)
ピタゴラスの没した頃に、エレア(6)で哲学者ゼノンが生まれた。彼の運動についての著作は、学問が著しく前進したことを示している。数学的な重要点は、一つの例で明らかである。哲学のエレア学派は、南イタリアの二つの大きな学派の一つであり、その名はエレアに由来する。ゼノンは、物体が動いていく時に通過しなければならない空間を無限に分割したために、運動を始められない。アキレウスは、どんなに速く進んだとしても、亀を追い越すことはできない。運動している物体は、同時に動きの中にいなければならない。なぜなら、止まっていると空間を占めるから。時間の中の空間は、関係が異なれば、長くも短くもなると主張する。それは、私たちに、現代の相対性理論のある特徴を思い起こさせる。アキレウスと亀に関する彼の議論は、現代の単位を使うと、次のように表現されるだろう。もし、スタートしたときに、亀は1マイル先を行っていて、アキレウスの 1/10の速さで進むものとすると、アキレウスが亀のいた地点に到達すると、亀は 1/10マイル先を行っていることになる。アキレウスがその距離まで追いつくと、亀は 1/100マイル先を行っている。同様に、アキレウスが亀のいた地点に到達する度に亀は更に先に進んでいて、アキレウスは決して亀を追い越すことはできない。(7)
アナクサゴラス
ゼノンの同時代人の中で、著名なのはアナクサゴラスである。(8)彼は、イオニア学派の有名な哲学者の中の最後の人である。彼は、エウリピデス、ペリクレスなど、当時の偉大な人々の友であり師であった。しかし、ペルシアの主張に好意的であると理由で、72才の時に死の宣告を受けた。(9)主な著作は、哲学においてであり、第一の公準は、「理性は世界を支配する」というものであったが、数学にも興味を持ち、円の求積や遠近法についても著述した。(10)アテネから追放された時、彼はこう言っている。「アテネの人々を私が失ったのではない。私をアテネの人々が失ったのだ。」
アガタルコス
この頃(BC470年)一人のアテネの芸術家、アガタルコス(11)は、遠近法の理論に求積法(stereometry)を適用した。彼は、アイスキュロスが創作した悲劇の背景を描いたと言われている。描画についての彼の著作には、平面上に投影法の概念をいかに利用するかが示されている。
ソクラテス(12)
私たちは、普通、アテネの政治家で哲学者であるソクラテスを数学者とは考えないが、彼の帰納法についての考えや正確な定義を求める主張から、論理幾何学の初期の発展との関係で触れておいた方がよいだろう。プラトンの師として偉大な哲学者を育て上げ、また、健全な論理の上に数学を基礎づけた人々の発展に寄与したソクラテスは、自らの著作を何も残さなかった。しかし、プラトン、ユークリッドその他の人々の、自分たちはソクラテスに大きな影響を受けたという証言を私たちは持っている。恐らく、ジョウェット博士(Dr,Jowett)がプラトンの言葉を分かりやすく言い換えた時以上の高貴な賛辞は、これまでなされていないだろう。「そして、彼、ソクラテスは、これは秘密だけれど産婆である。大胆で飾り気のない母からその技術を受け継いだ。そして子供をではなく、人間の思想を光りの中へと先導する。」(13)しかし、クセノフォン(14)とディオゲネス・ラエルティウス(15)は、私たちにこう語っている。彼は、幾何学と天文学が有益なのは、単に畑を測量したり一日の時刻を決めるためだけだと感じていた。--これは、本当に彼によってとられた見解だとしても、それ以来どの世代においても遙かに精神性のない人々によって提出され、空しい結果をもたらした見解である。
キオス(Chios)のオイノピデス(16)
恐らくピタゴラス派の一人で、確かに当時の指導的天文学者の一人であったオイノピデス(Oenopides)は、エジプトの神官や神殿の天文学者達から星の科学や黄道傾斜(obliquity of the ecliptic)を学んだと考えられている。彼は、太陽の一年を365日と9時間より幾らか短い長さだとし、太陽年と月年が一致するように、59年の周期を発明したと言われている。プロクロス(460年頃)は、ユークリッドの二つの問題を発見したのは彼であるとしている。一つは(I,12)与えられた直線に外の点から垂線を引く問題、もう一つは(I,23)は、与えられた角と等しい角を作図する問題。これが本当だとすれば、ピタゴラスの死後一世紀たっても、論証幾何学の前進がどれほどわずかであったかを示している。
デモクリトス
後の世代には「笑っている哲学者(Laughing philosopher)」として知られるデモクリトス(17)は、大きな富を相続し、その財産を旅に費やし、多くの土地の学識ある人々と出会った。勉学には著しく勤勉な人であったが、貧困のうちに没した。著作は、ある断片(18)を除いて失われた。デモクリトスの哲学の師の一人は、レウキッポス(19)であったと言われている。レウキッポスは、古代哲学の原子論の創始者で、物質の本来の特徴は質ではなく量の相関作用であり、主な元素は、質的には同質であるが形状が異質な粒子であると主張した。アルキメデスは、「方法論(Method)」についての彼の著作の中で、私たちにこう語っている。同じ底面で同じ高さの円錐の体積と円柱の体積との関係、同様に、角柱と角錐の関係を示した最初の人物である。微分法について、彼が明らかに触れているにもかかわらず、この方向へは、ギリシア人に何の影響も及ぼさなかったように思える。プラトンは、デモクリトスの著作は、すべて焼かれるべきだと思っていたと言われている。いずれにせよ、プラトンはデモクリトスの意見には、余りに関心がなかったので、どの著作でもデモクリトスには全く触れていない。プラトンの手によるそうした扱いは、恐らく、デモクリトスの傲慢な性格によるものだっただろう。デモクリトスは自らのことを次のように語っている。
私は、遠隔の地まで尋ね歩き、私の時代の他の誰より地球上の広い地域を彷徨った。非常に多くの風土を観察し、非常に多くの学識ある人々の話に耳を傾けた。しかし、作図を証明することにおいて、私に勝るものはまだ誰もいない。そう、エジプトのハルペドナプタイ(Αρπεδοναπται)でさえ、そうでなかった。私は彼らとある外国の地で、まる5年ともに過ごした。
このハルペドナプタイ(文字通りの意味は「綱を張る人」)は、古代エジプトの測量技師であり、この引用は命題の論証がギリシアだけでなく、その国でも当時行われていたことを示唆している。
エレアのパルメニデス
エレアのパルメニデス(20)は、紀元前5世紀半ば、アテネで教えていた。彼の宇宙論の中に、地球は球体であるというのがある。しかし、彼の著作は、数学者のものというよりむしろ哲学者のものであった。ヘロドトス(紀元前450年頃)が「歴史」を書いたのは、この時代であり、子午線という考えが今日現存する何らかの文献に初めて現れたのは、この著作においてである。この時代から数世紀の間、地球が球体であるということが、多くの哲学者によって確かなものとして受け入れられた。この理論は、紀元12世紀に復活し、ロジャー・ベーコン(1250年頃)によって強く主張された。