日本の数学


十七世紀

日本の知の覚醒

 17世紀になって、日本がやっと知の可能性に目覚めた時、19世紀に栄光の炎の中、国家の可能性に目覚めた時、特徴づけていたものと似ていないことはなかった。数学の発展は、奇妙にもヨーロッパで同時的に進行中であった著しい発展に匹敵しうるものであった。というのは、この世紀、ニュートンやライプニッツが画期的な理論を構築していたのとほとんど時を同じくして、日本は独自の積分法を発展させていたのだから。
 毛利勘兵衛重能 (p.352)の弟子たちのうち、名声を得た人の一人が吉田七兵衛光由(1598-1672)であった。彼の「塵劫記」(1)は、算術に関する日本で最初の偉大な書であった。この中で、πの値は、3.16とされている。この書物の名は広く知れ渡り、その後、算術の同意語としてよく用いられた。
 著しく算術に貢献した毛利の第二の弟子は、今村知商であった。彼の「竪亥録」は、算術だけでなく求積法についても書かれており、1639年に出た。この中で、πは 3.162として与えられ、円の面積は、1/4×cdとして、半径 1/2の球の体積は 0.51として与えられている。
 毛利の三番目の名高い弟子は、高原吉種であるが、彼は数学に関するものは何も出さなかった。
 その世紀[十七世紀]中頃には、また数多くマイナーな著述家がいた。その著作では、数学についてかなりの能力があったことを示している。その中に、磯村吉徳として知られている人物がいた。彼の「闕疑抄」(1660)には吉田光由によって出された、面白い問題が数多く含まれている。典型的なものは測定に関する問題で、次のようなものである。

 長さ18フィート(2)の貴重な材木の丸太がある。底面の円周は5フィートと2+1/2フィートである。・・・体積を三等分するにはどの長さに切ればよいか。
 直径が百間の円い土地を三人に、それぞれ2900,2500,2500間になるよう分けなければならない。(3)分割する弦と高さ(幅)の長さはいくらか。

 またこの著作には、大まかな積分法への接近が見られる。晩年、磯村は魔方陣、魔法円、魔法輪に多くの関心を抱いていた。初め彼は球の表面積は ππrrに等しいと考えていたが、非常に独創的な方法で、πdd(4)であることを示した。
 1663年、村松九太夫茂清は、算術と測量法に関する書物を出版し始めた。それは、円や正多角形の知識に貢献したが、測定に関してだけであった。
 1664年、野沢定長は「童介抄」と言う書物を出版した。その中にいくつか独創的な測量の問題がのっている。その一歩は、磯村の積分計算法に先んじたものである。
 1666年、佐藤正興は、「根源記」を書いた。この中でも、独創的な問題を出しては、それを解くという習慣が続けられている。これは、高度な代数方程式を解く古代の中国の方法が現れた日本で最初の書物である。
 1670年、沢口一之は「数学の古い方法と新しい方法」(5)と題する書を書いた。この中に、再び、カバリエリの方法の幾分後だが、積分法への接近、また代数方程式の扱いがのっている。

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関 孝和

 17世紀、最も卓越した日本の数学者であり、ある点では、日本のすべての数学者の中でも最も優れている関新助孝和は(1642-1708)、侍(6)の生まれで、幼い頃から数学に優れた才能を見せた。彼は、知識の大部分は教師の助けなしに得た。日常の事柄において、力学において、数学全般において、特に問題の解決において優れた才能を見せた。彼は、中国の文字係数方程式の解法を改良し、初期中国の行列式の用法を体系化し、おそらく円の原理(円理)を発明したのだろう。後に、それは一種の積分計算法に発展し、数多くの複雑な性質の問題を提出した。沢口一之によって提出され、関孝和によって解かれた二つの問題は、本質的には、次のようなものだった。

 一つの円の中に三つの円が書かれ、それぞれ他の二つの円及びもとの円に接している。外接している円は、120平方寸を除いて、中の三つの円に埋め尽くされている。二つの小さい円の直径は等しく、内接している大きい方の円の直径より小さい5寸である。三つの内接している円の直径を求めよ。
 三角形ABCの中に点Pがあり、PA=4、PB=6、PC=1.447である。また、一番長い辺の三乗と一番短い辺の三乗との合計は、637、残りの辺の三乗と一番長い辺の三乗との合計は、855である。それぞれの辺の長さを求めよ。(7)

 私たちが見てきたように、中国人は行列式について何らかの考えを持っていた。しかし、行列式を拡張して連立方程式を解いた栄冠は関に与えられなければならない。―それはライプニッツに先立つ発見であった。
 関の名声は高く、彼の下には多くの弟子たちが集まった。彼らに与えた影響は非常に大きく、19世紀になって、西洋の科学[学問]が完全に採用され、和算が吸収されてしまう時まで続いた。
 一方、関は行列式の先駆者であったことを除いて、数学において偉大な発見は何もしなかった。彼は偉大な教師であった。彼は日本で科学的精神の覚醒に先駆的役割を果たした。彼は、彼に先立つ人の書物を改良する点では才能を発揮したが、今日価値があると認められる何か新しい方法を作り出した人物ではなかった。また、彼は、歴史的資料として以上のものを与えるような偉大な論文は何も書かなかった。しかし、人々に数学科学の知識を与えるよう努力したということで、日本の天皇は、1907年、関を記念して、こうした学者たちに授与した中で、死後与えられたものとしては最も高い栄誉を授与したが、きわめて正当なものだった。
 紙面の都合で、これ以上日本の学者について述べることはできないが、関の同時代の人で、弟子でもある中根元圭(1661-1733)には触れておこう。彼の天文学についての著作(p.441の図を見よ。)は、長崎のオランダ商館を通じて、日本への道を見いだし始めていたヨーロッパの論文の影響を受けた。また、イエズス会宣教団のある著作にも精通し、天文学での彼らの優位を認めていたことでも知られている。

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ヨーロッパとの接触

 日本の歴史の中には、外界との、世界との接触が非常に困難な時期があった。オランダの貿易商が長崎の港を通じて、日本との交易を独占していたときでさえ、事実上、学生たちがその島(日本)を離れることは不可能だった。しかし、私たちは、関の時代に、オランダの大学の記録に、二人の日本人学生の名があることを見いだしている。(8)この二人についてそれ以上のことは知られていないが、重要なことは、彼らが、知的ヨーロッパとの接触があったということを示していることである。これが示唆している問題は、これらあるいは同じ経路を経て、ヨーロッパ数学の状況の何らかの影響が、関の時代の日本に達しているかどうかを確かめることである。また、物理学者の Hatono Sohaがこの時代「スペインの地」(9)へ行って、後に日本に帰ったという伝承もある。これが本当なら、ある種のヨーロッパの学識が17世紀後半、その国(日本)に入ったことになる。それが、積分計算法、18世紀に日本で最も独自に発展を遂げたのであるが、それを示唆しているかどうかは不明である。
 関は奈良の古代の神社を巡礼し、仏教寺院に大切に保管されていたが、誰にも理解できなかったある論書を学んだという伝承がある。これらは中国の数学書であることがわかり、その内容をマスターするのに、三年かかったといわれている。しかし、ここでも再び、私たちは、それに、イエズス会がヨーロッパからもたらした西洋の知識の断片、あるいは中国古代の代数学、あるいはおそらくヒンディー(インド)の天文学の痕跡が含まれていたのかどうかは、わからない。しかし、時とともに、日本の学者たちは、疑いなく、関派の数学の起源を探りあてていくことだろう。

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原注1
 書名の意味は「きわめて小さな数、きわめて大きな数、の論」すなわち「最小から最大までの数論」である。

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原注2
 元々は”三間(3 measures)"。これ及びその他の問題については、Smith-Mikami p.66を見よ。

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原注3
 すなわち平方間。平行な弦を引いて分割。

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原注4
 詳しくは、Smith-Mikami p.60を見よ。

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原注5
 「古今算法記」

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原注6
 武士

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原注7
 問題と解答のヒントは、Smith-Mikami p.96, p.100を見よ。

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原注8
 「Album Studiosorum Academiae Lugduno Batavae」(The Hague, 1875)の中では、「Petrus Hartsingius Japonensis」年齢31,なる者が、1654年、ライデンで哲学を研究していた。彼はまた、van Schooteの「Tractatus de concinnandis demonstrationibus geometricis ex calculo algebraico」の中で、またデカルトの「La Geometrie」 1661年及び1683年版、p.413の中でも言及されている。また、1660年の名簿には、医学生として名があげられ、1663年にも名が出ている。「Album」の中には、また、1654年9月4日の日付で、「Franciscus Carron Japonensis」というのも登録されている。もちろんその名は日本語ではない。Franciscus Carronというのは、一世紀前のキリスト宣教団の名である。

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原注9
 その当時、日本人には、オランダを含むものと解釈されて訳された。

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