最も初期の時代の日本
AD500年以前は文学においても科学においても、日本は全く進歩していなかったように思える。中国の表意文字[漢字]が、朝鮮を通って、284年に日本に伝わったという伝承がある。また、早い時期、「神代文字」すなわち「神の御世の文字」についての言及もある。数値を割り当てたカバラ[秘教]の一種の体系であったろう。しかし、そのことについて、明確なことは全く何もわかっていない。また、BC660年に日本人は十の何乗にも及ぶ数体系を持っていたという伝承もある。この体系では、「よろず[万]」という特別な名称が、10000を表すのに使われた。それは、すでに言及したギリシアの
myriad(μυριαs,-αδοs)に対応しており、初期の西洋と東洋との交流を示すわずかな証拠であるかも知れない。(1)
その他の初期の時代の日本の数学については、度量法の体系があったこと、何らかの知的な地位にある人たちの間に、他のすべての古代の民族と同じように、暦法があったことだけが知られている。
日本の数学の始まり(2)
AD500年以前から、日本が知的に発達していく中で、中国の影響が姿を現し始めていたのだが、何らかの明白な[影響の]結果に気づくのは、522年(3)仏教が伝えられ始めるようになってからである。事実、552年には正式に仏教が伝えられ、二年も経たないうちに、暦法に関連する事柄に造詣の深い二人の学者が(4)、朝鮮を通って日本に中国の暦学の体系をもたらした。600年頃には朝鮮の僧侶、勧勒 が占星術と暦法に関する一連の書物を女帝[推古天皇]に献上した。皇子の聖徳太子は、(計)算学に非常な興味を示したので、それ以後、日本算術の父という伝承が生まれた。
日本での中国の影響
それ以来何世代にもわたって、日本はあらゆる知的生活において、完全に中国の影響の下におかれることになった。中国の度量衡の体系が採用され、算術の学校が創設され(670年頃)、同じ頃、天文観測所が設立された。701年、大学の制度が始められた。九つの中国の書物が数学の学生のために指定され(5)、それは古典のように扱われ、数世紀にわたって日本の数学研究に影響を及ぼした。
この時期、聖徳太子と並んで、日本数学史に、その名が著しく目立っている人物は、朝廷の相談役であり教師であり(890年頃)、学問と文学との偉大な奨励者でもあった、天神(6)である。
しかし全体的には、準備の時代であって、中国がすでに発達させてきたものに新しく寄与するものは、ほとんど何もなかった。実際、数学の分野で、日本がその可能性に本当に目覚めるのは、17世紀になってからのことである。
暗黒時代の終焉
ヨーロッパ同様、日本にもまさしく暗黒時代と言うべき時代があった。仏教が日本に伝えられて以来千年の間、ほかに記録されるべき知的意義のある出来事はほとんどなかった。日本は世界の再生を待ち望んでいた。そして、この再生の時代は西洋とほぼ同じ頃に東洋にもやってきた。
1000年から 1500年の間、日本の数学史に名を留めるに値する人は、二人しかいない。一人は、日向の国の大名、あるいは封建領主であった、藤原道憲で、彼は 1156年と 1159年の間に順列?(permutation)(7)についての著作を書いている。その著作は現在失われてしまったが、17世紀の日本の指導的数学者によって考察されるほど重要なものであったと考えられている。
注目に値するもう一人の名は、仏僧、Gensho(玄証?)である。彼は13世紀初期に生きており、彼の著作のどれにも何の痕跡も残されていないが、著しい算術の才能があったという伝承がある。
日本
16世紀には、ヨーロッパに見られたような知的な目覚めは日本では見られなかった。この世界の大きな動きに対して、この時期、東洋はおよそ一世紀遅れていた。16世紀の日本は、おそらく、13世紀の西洋とより対応するといった方が正確であろう。それは準備の世紀であった。
数学の分野でこの準備に貢献した主要な原因は、おそらく、二人の強大な大名に仕えていた学者、毛利勘兵衛重能というによってなされた中国への旅であっただろう。話によればこうである。偉大な英雄、太閤としてより知られていた、豊臣秀吉は全国を統一した後、自らの宮廷を偉大な知的中心にしようと決心した。この目的遂行のために、彼は毛利を中国に送り、日本ではかなり欠けていた数学の知識を得て帰らせようとした。毛利は、卑しい生まれであったので、中国ではよい待遇が得られなかった。そこで、太閤は彼を出羽の領主(8)にし、こうすることで、中国の学者たちの間に高い地位を得させようとした。政治的軍事的困難から、主として太閤の朝鮮侵略(1592)のために、毛利の使命は成功しなかったが、かなりの量の資料を持ち帰ったので、中国の計算盤(9)を日本に知らしめたという人もいる。彼は晩年、京都に住み、この道具(算盤)の使い方を教えた。
これはよく語られる話であるが、本当に毛利は中国へ行ったのか、朝鮮にだけ行ったのかという疑問がある。しかし、彼が中国の数学について、何らかの知識があり、算盤を巧みに使い、自ら「世界でわり算の指導的な教師」であると宣伝し、大成功を収めたことは確かであろう。彼の弟子の中の三人は、当時「三人の算術家」として知られた人がいるが、後に述べることにしよう。毛利が初めて中国から日本に算盤をもたらした人物かどうかきわめて疑わしいが、算盤を普及させた人物ではあったようだ。
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